(英フィナンシャル・タイムズ紙 2016年9月27日付)

アレッポ市民、虐殺に直面する恐れ 民間防衛隊が訴え

政府軍による空爆でがれきと化したアレッポ東部シャー地区の建物(2016年9月27日撮影)。(c)AFP/KARAM AL-MASRI〔AFPBB News

「1人の人間の死は悲劇だが、100万人の死は統計である」。ヨシフ・スターリンによるこの言葉は、非情さの典型だと見なされることが多い。西側の民主主義国で守られている人道と自由を尊ぶ価値観の対極だというのだ。

 だが、シリアの内戦について言えば、西側諸国はスターリンの格言を地で行っている。世界のそのほかの国々も同様だ。

 筆者はこの4年間、シリアの恐ろしい統計を満載したコラムを何本も書いてきた。1年目には死者が5万人に達したと紹介し、その翌年には10万人に、さらにその翌年に20万人に増えたと記した。今では40万人を突破しているかもしれない。しかし、この間ずっと変わらなかったのは、シリアについてのコラムを読む人が非常に少なかったことだ。

 それでも時折、一個人の悲劇の記述や写真に、多数の西側の人々が一斉に同情を寄せることがある。昨年の今ごろには、アラン・クルディ君の亡きがらの写真に多くの人が悲痛な叫び声を上げた。Tシャツと半ズボン姿で、靴も履いたままトルコの砂浜に打ち上げられた3歳の男の子の写真には、見る者の心を激しく、抑えられないほど揺さぶる何かがあった。

 しかし、こうした嘆きの声の急増にも、不可解で気まぐれな側面があった。実はこのとき、シリアの戦争を発生当初から報道し続けていた筆者の友人がこんな言葉を漏らしていた。「僕は、死んでしまったシリアの子供たちの写真をもう何年もツイッターで発信している。でも、たいていは誰も注目してくれない」