ライター=青山正明 ねこぢるの他に、Yさんの身の回りにいて死んだライターが青山正明である。 この人は知る人ぞ知るドラッグ系ライターで、その筋にとても詳しいサブカルの人であった。 そしてYさんと共に編集事務所に在籍しているはずの人であった。 しかし僕が編集部へ配属された時には、その姿は見たこともなく、他の編集者からは「顔君の使ってる机は青山さんのだよ」と聞かされた。「青山さんという方は辞められたのですか?」と聞けば「いや、家で寝てるよ」と言う。 早い話が休職中だった。 実はこのとき重度のうつ病を患い、ひきこもっていたらしい。 編集部では『危ない1号』というそれこそかなり危ない内容のムックを作っていたため、危ない人からの電話も耐えなかった。どういう偶然か、そういう危ない人からの電話は毎度僕が取り次いでしまう運命にあった。 芸能人や一般人が薬で事件を起こすと、テレビ局からも青山さんへのコメントを求めて電話がかかってきたりもした。しかし編集部は青山さんに関する連絡を一切遮断していた。 僕が働き出して数ヶ月経った頃、青山さんがひょっこり現れた。 勿論初対面なので、挨拶を交わした程度なのだが、メディアにたまに出てくる青山さんの顔とは全然違っていた。 おそらくずっとひきこもっていたのだろう。顔はヒゲモジャで、茶色の瞳はうつろだった。 しかしこの訪問は社会復帰への一歩だったようで、この後彼は、編集部から抜け出て、出版社本体へ異動&就職するのだった。つまり本格的に社会復帰を考えていたようだ。それが証拠に、次に訪れた時にはスッカリスッキリした顔になっていた。 一番最初に僕が彼を手伝った仕事はというと、使っている机の引き出しに入っている青山さんの物を紙袋へ入れるという作業だ。 小物やら冊子やら結構かさばるものなど入っていたがそれらを分類もせず、手提げの紙袋へ全部入れてくれと言う。結構大胆な作業だ。 僕は青山さんとそんなに面識もないにも関わらず、他の編集者に比べてなぜか安心感を覚えたのか、ちょっとでも気になる小物があれば、「これもらっていいですか?」とずうずうしく聞いて「いいよ」と言われると即持って帰った。 そして青山さんは本来自分が編集長であるべきはずの『危ない1号』3巻の編集を降りて、本社の方へ行ってしまった。 残されたYさんや僕らは、新しい人材(といってもバイトの姉ちゃん)を加え、仕方なく次号を作るしかなかった。しかし、出版社が母体にあるので、それだけでは仕事にならず、超能力の本や、佐川一政氏の本を手伝ったりしていた。 ある日、Yさんが同じ女性モデルが写った二つの写真を僕の前において、「どっちの顔とセックスしたい?」と聞いてきた。正直に「左ですね」と言うと、「じゃ左に決定だね」と言って、それが『危ない1号』3巻の表紙になってしまった。僕がこのムックに関わって初めて大きな任務を負かされたと実感した仕事であった(どこがや)。 そういえば、僕が寝ぼけ眼でウトウトしていたら、Yさんはカメラ片手に、僕の目を撮らせてくれと申し出てきた。 なんでもドラッグ特集で、ドラッグに汚染された人の目に使いたいと言う。勿論僕はヤク中じゃないので精一杯演技、つまりやらせでモデルになった。 この日、もう一人新しいおねえちゃんバイトもいて、その女性も、なんかドラッグについてインタビューされてるという設定で演技して撮られていたが、そっちは採用されて僕の目は没になった。まあ僕としては没ってホッとしたのだが、後で青山さんが言うには「本当のヤク中は瞳孔開いちゃってるからね」ということだった。なるへそそりゃ演技できないわ。 やがて3号完成と同時に、僕までも編集部から抹殺されてしまった。 Yさんもまたこれを機に『危ない〜』から手を引こうとしていたようだ。そうなると僕なんか用無しなのだ。 しかし本部へ異動し、青山さんに近くなったもんで、僕はなにかと青山さんと親しくなっていった。多分、この人の持っている人懐っこいオーラに惹かれたのであろう。 そのうちお互い気を遣うこともなく「おまえ」「おっさん」と呼び合い、実質タルワキ編集長の初編集作品となった記念すべき『月刊タルワキ』2号(創刊号は僕が編集しているので2号とデザインが全く異なるのだ)で、早速青山正明を特集した。この際、僕が取材を依頼したら、青山さんは「おっ、復帰後初のインタビューだ」と言って、わざわざ仕事中に時間をとってくれた。この時の彼の行動が粋で、居場所を知らせるホワイトボードに「青山取材。顔同行」と書いて、二人で近くの喫茶店へしけ込んだものだ。 出来上がった冊子を見て青山さんは、「ちょっと間違ってる箇所もあったけど、あの本自体面白いね」と言ってくれた。僕は多分青山さんの親切心からお世辞を言ってるのだと直感したが、ウソでなかったのか「お前が過去に作ったミニコミ全部売ってくれない?」と言ってきた。 しかし僕はあまり自分の物を保管している習性がないので、とりあえず在庫で数冊残っていた『ヘントウセン』上下(確か山田参助の東風社で刊行した初の作品集だった)と、『中卒のお姐ちゃん』の他、当時ハマっていた田上さんという方が書いた『ほにゅうるい』『みにゅうるい』や、田上さんの落書き帳をまとめた分厚いけど百円という超お得なコミックやら数冊を持っていった。青山さんは「金ないから高いのはいらないよ」と言いながら、安いのを全部買ってくれた。 偶然というか運命というか、田上さんの本に参加していたのが、マンガ読みでライターの足立守正さんで、僕はその本つながりで田上さんよりも足立さんと親しくなった。ところが、皮肉にも田上さんも数年前に急死してしまった。 そうこうしているうちにアッちゅう間に一年が過ぎた春、僕はリストラで出版社をクビになり、青山さんやYさんとも疎遠になってしまった。 それから更に二年ほど経った頃だったか、タルワキが一時休刊になり、その間、僕は藤本和也君と組んで『ハッスルホイ!』というミニコミを作った。 それが出ると同時にQJ(クイックジャパン)で執筆していた足立守正さんから対談の依頼があり、新宿で落合った(新宿だけにね)。 しかし同伴していた編集部の女性からとんでもないことを聞くことになる。 「顔さんはどこで働いてたんですか?」と女史。 「元々○○社で、青山正明の下で働いていました」と僕が答えると、 「ああ、先月自殺した・・」との返し。 「エエエエエエエーッ!!ちょっと待ってください!マジですかああー!」 とても対談どころの神経ではなかったが、なんとかかんとか気持ちを抑えて乗り越えてるうちに、逆にハイになった僕は、その後、隣の藤本君が窒息死しそうなくらいバカ話で足立さんと盛り上がってしまった。 帰り際に藤本君が、「お二人の知識の広さには恐れ入ると言うかほとほと呆れ返りますよ」と言っていた。 あの時確かに僕は色々押し殺すようにはしゃぎすぎて「そんな話どうでもいいよ」的な内容の話をベラベラ喋り捲っていたのである。 青山さん直通の電話が鳴ると、彼はいつもの人懐っこい笑顔で「あーどうもどうもどうも〜」と電話の向こうの相手に愛想を振りまいていた。これを下っ端の自分がかけるとどうなるのかと思ってかけたら、全く同じで「あ〜どうもどうもどうも〜」だった。僕が「おっさん誰でも愛想ええな」と突っ込んだら、電話の向こうの彼は「アッハハハハハ!」と大笑いするのがパターンでもあった。 今でもあの出版社の直通にかけるとあの「どうもどうもどうも〜」が聞こえそうで、しかし二度と聞けないと思うと非常に残念だが、こうなる運命だったのかな〜と思わざるを得ないのも事実である・・・。 僕と藤本君の取材が記事になったQJは、これまた何の因果か青山正明の追悼記事も特集掲載されていた。人生とはそんなものだ・・・・ とはいうものの、自分が初めてインタビューされて載った雑誌に、初めてインタビューした相手の追悼記事と同時に掲載されるという前代未聞の貴重な体験は、この先の人生において、もうないだろうと思われる事件の一つである。 そして、青山さんの死を思い出すとき、同時に田上さんのマンガもフラッシュバックするのだった。シェー! |
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残った人1
昨日はめでたくドグマ出版主催のお花見会もありまして、久方ぶりに各執筆者たちの顔も見れてとても楽しかったズラ。明日からの現実には目をそむけたいですよ。やだね〜。 ...続きを見る |
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