[アニメ] 91 Days
次週の展開を見るが待ち遠しいと思えるアニメは少ないが、『91 Days』(参照)は久しぶりにそう思える作品だった。つまり、面白いし、ある種、中毒性すらある。音楽もいい(参照。が、少しもわっとした情感も残った。特に最終回にそれが濃く反映されていたように思う。
背景は、1920年代・禁酒法時代の米国のイタリアン・マフィアの街ローレス。冒頭、少年アンジェロ・ラグーザ一の誕生日、4月としては珍しく雪降る日の夜、ヴァネッティ・ファミリーの、ヴァンノ、ドンのヴィンセント、息子のネロが突然訪問し、アンジェロを残し、家族すべてが射殺。物語は、その7年後、アンジェロが復讐を遂げるまでの91日間を描いている。アニメとしては12話(1クール)で完結。
復讐のきっかけは、故地を離れ、すりや泥棒で孤独な生活を送っていたアンジェロ青年にある日、復讐を誘う一通の匿名の手紙が届いたことだった。アンジェロはアヴィリオ・ブルーノと名前を変え、ローレスに舞い戻り、ヴィンセント家への復讐劇を始める。最初の一手は、科学が好きな少年だった幼なじみのコルテオの密造酒だった……。
物語は推理小説仕立てにもなっているので、そこは単純に面白い。また、一人の青年がどのように中規模マフィアの中枢を潰していくかという、復讐劇の面白さもある。当然だが、そうした物語の仕立てに見合うように、登場人物名と人物関連図などがすべて頭に入っていないと理解しにくい。
物語も意外に複雑な展開がさくさくと進むので、気を抜いていると、あれはどうして?みたいなマヌケな事態にもなる。『甘々と稲妻』(参照)や『はんだくん』(参照)みたいに、気楽に見ることのできる作品でもないなと思った。
自分だけでもないだろう。そのせいか、中間には、まとめ編も挿入されていた。逆に言えば、きちんと背景と人物を覚えて見て行くと、数回の見直しに耐える作品にもなっている。
もわっとする印象を残すのは、こういうとヤボの部類ではあるのだが、主題がわかりにくいことだった。あるいは、なぜこの作品が創作されたのか?
一つには、全体を貫く美的なトーンからもわかるように、人間の情感を含めてこのような世界を描いてみたかった、というシンプルな思いはあるだろう。美学と言ってもいい。それだけでよいと言ってよいのだが、微妙に主題性と象徴性への誘惑は残されている。
例えば、4話でネロとアヴィリオがファミリー間の抗争後のほとぼりを冷ますために自動車で暢気な田舎旅をするが、そのなかで追っ手がゴリアテに例えられている。そこで「はぁ…聖書ぐらい読んでおけ」「教会に通うほど暇じゃなかったんでな」という会話があるが、この回でアヴィリオは、旧約聖書でダビデがゴリアテを倒すように簡易なスリング(投石具)を使っている。
ここで、アヴィリオはダビデに例えられている。この喩は、第一話のクレジット的な映像にローレスの教会のステインド・グラスのスチルにも対応している。このスチルはオープニングでも出て来た。
この聖画グラスのテーマは、ダビデとヨナタンの友情であり、サウル王ヴィンセント、ヨナタン(ネロ)、ダビデ(アヴィリオ)の喩になっている。つまり、全体の物語に、サウル王が殺そうとしたダビデと深い友情を結んだヨナタンの喩が象徴されている。
また、記号性でいうなら、アンジェロは「天使」であり、改名のアヴィリオは惨劇の「4月」を暗示しているだろう。ローレスはそのまま「無法」。ただ同様に見て、セルペンテは蛇、ティグレは虎、フィオはフィオーレで花、 と対応させてもあまり意味はないだろう。ネロについてはしかし、原義の「黒」より、終話で燃え上がる街からの連想かもしれない。
いずれにせよ、こうした記号性と喩がどこまで練り込まれているのか。ドストエフスキー作品的な神学的な象徴になっているのかというと、おそらくそういう特質はこの作品では、そこまではないだろう。そのあたりがまず、もわっとしている部分である。
もう一つは、とりあえず明白な主題と見られる、復讐と友情の関わりが、どういう物語の主構造、あるいは倫理性や掟に対応しているのかという点である。簡単に言えば、『91Days』は、「掟」の物語であり、掟が復讐を必然とする忠臣蔵のような物語である。
この先はネタバレを含む。
11話でアヴィリオの復讐劇は終わり、12話はガラッシア・ファミリーから逃れるネロとアヴィリオの自動車旅で、アヴィリオの最後の憧れであるフロリダの海岸に至り、彼はネロに今度こそは射殺してくれと願う。
が、作品は明白な形では、アヴィリオの死は描かれていない。ネロは「生きるのに理由はいらない。ただ生きるだけだ」としているので、そうした生をアヴィリオに与えて終わるとも読める。
ただし、ネロが生き延びる読みはないようにきれいに封じられている。ネロはガラッシア・ファミリーに惨殺されることになっている。
私としては、アヴィリオが親友のコルテオを友情と復讐劇ゆえに殺した時点で復讐後に生きる意味もなく、むしろ、彼の人生を支配していた復讐そのものから逃れるために、起点であった射殺の成功を、友情ゆえにネロに願ったのだろう。
それは同時に、アヴィリオも掟を生きて死ななくてはならないことだし、ネロも同じである。自分なりのダメ推しで言うなら、ネロの死は確定であり、そのときアヴィリオは巧妙に立ち回ればその有能さから、ガラッシア・ファミリーと取引できないでもない。むしろ、それをネロへの友情から嫌悪したのだろう。
掟と復讐の物語は美学に結びつきやすい。偽悪的に言うなら陳腐に結合しやすく、アヴィリオのアニメ的な映像はその美学のなかで収束しているように見える。
ただ、まあ、そう言い切れるものでもない。もわっとした部分は、反面ではこの作品の優れた特質でもある。あと、単純な話、これだけのクオリティのアニメは珍しいのではないか。
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