桜がひらひら舞い降りて落ちる様子を見て、篠原明里が言った。
「...秒速5センチなんだって」
「何が?」
遠野貴樹は聞いた。
「桜の花びらの落ちるスピード」
「秒速5センチメートル」
秒速5センチで落ちる桜の花びらはまるで雪のようだった。
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秒速5センチメートルと聞いて僕が最初に思い出したのはアダム徳永が開発したスローセックスメソッドだった。
スローセックスとは、ダラダラと時間をかけて前戯を行い、女の子の快楽を徐々に徐々に高めていく手法である。
スローセックスの極意はアダムタッチと呼ばれる手技である。
「皮一枚挟むくらい」のソフトタッチで、秒速5センチ程度の速度で愛撫するのがポイントだ。
決しておっぱいにむしゃぼりついてはならない。
ゆっくり、少しずつ、感度を高めていく。
手技「秒速5センチメートル」はセックスの奥義だが、アニメ「秒速5センチメートル」は純愛物語である。
「君の名は。」で大ヒットした新海誠監督の作品ということで、僕は少しワクワクして、でもほんの少し緊張しながらこのアニメを観た。
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「秒速5センチメートル」は3つの短編を組み合わせたちょっと不思議なアニメだ。
遠野貴樹の小学校~中学1年時代を描く「桜花抄」
高校時代を描く「コスモナウト」
社会人時代を描く「秒速5センチメートル」
の3つが連続して描かれる。
遠野貴樹と篠原明里は生れつき身体が弱く、運動が苦手だった。
お互いに転校生だったこともあり、図書館で本について語り合ううちに仲を深めていった。
お互い想い合った二人は、同じ中学を受験し、合格する。
しかし、「これからもずっと一緒にいたいね」と考えていたところで、明里の転校が決まってしまったのであった。
転校先は群馬と並ぶ日本未開の地、餃子が主食の街・栃木である。
東京から見ると、埼玉、群馬、栃木は台湾に行くより遠い場所だ。
離れ離れになった明里を想い、貴樹は苦しんだ。
何せ、台湾より遠いのだ。
なぜ栃木なんだ───
せめて台湾に───
そんな苦しみの最中、明里から手紙が届いた。
スマホがない1990年代の話である。
二人は何度も手紙をやり取りを重ねた。
そして貴樹は中学1年の3月に、台湾より遠い栃木に会いに行くことを決意する。
童貞、旅に出るというやつだ。
童貞は意気揚々と栃木に向かったが、大雪が降り、電車が遅れ、貴樹は絶望していた。
明里はもう帰ってしまったのではないか───。
明里に書いた手紙が風に飛ばされてしまったとき、思わず涙が流れた。
約束の2時間遅れで栃木の岩舟に到着。
ちなみに、2016年現在だと、新宿から2時間くらいで岩舟には行けるのだが、中学生にとっては大冒険だろう。
貴樹、よくやった。
お前は頑張ったよ!ヤッてないけど!
そんな2時間遅れてきた無能な貴樹を明里は健気に待ち続けた。
これがもし社会人だったら、
コンティンジェンシープランを練っておけ
と上司に激詰めされるところだったが、この世界には口うるさい上司は存在しない。
健気な二人を見て、ロマンスの神様が微笑んだ。
2時間遅れで姿を現した貴樹を見て、明里は涙を流し、笑顔で彼を迎えるのであった。
明里がもし性格の悪い東京のキラキラ女子だったら、途中で帰り、翌日に教室中の女友達を集め、
「遅れてくるとかありえないww
きっしょwww
今度ジュース奢らせたるわwww」
みたいに悪口を言いまくっていたに違いない。
結局、二人は誰もいない小屋みたいな場所で一晩を過ごし、一回キスして喜んでいた。
貴樹は当然、童貞であった。
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僕は「秒速5センチメートル」の世界に、今の自分から失われた清らかな心の欠片を見た。
僕は記憶の糸を必死に手繰り寄せながら、純情だった過去を思い出してみた。
あれは中学1年の頃だった。
僕はハルカちゃんという子が大好きで、今だから気軽に「大好きだった」なんて言えるんだけど、当時は絶対他人にバレてはならない秘密だった。
ハルカちゃんは中学1年生のくせに巨乳だった。
バドミントン部の練習中に揺れる彼女のおっぱいを発見したとき、僕は何か見てはいけない深淵を覗いてしまったような気がした。
そして、絶対にその映像を忘れることがないように、家に帰ってノートにその映像を詳細に書き記した。
そのノートは後に親に見つかり、処分されることになる。
中1の冬に、席替えがあった。
僕はなんとしてもハルカちゃんの隣の席になりたかった。
机に顔を伏せ、神に願った。
「ハルカと隣になれますように...ハルカと隣になれますように...ハルカと隣になれますように...」
3回神に願って顔を上げると、驚くべき光景が待ち受けていた。
隣にいたワタナベという男がニヤニヤしているのである。
ワタナベは不敵な笑みを浮かべ、僕の肩を叩いた。
「そういうことだったのね」
なんと、僕の願いは声になり、外に漏れていたのであった。
死ぬほど恥ずかしかった。
どうにかしてワタナベを抹殺してやろうと企んだものの、ワタナベはそこそこ強い不良だったので、黙るしかなかった。
僕はチビで弱かったからだ。
結局、僕は一番前の席になってしまい、ハルカちゃんと近くに座ることはなかった。
たった一言も、想いを伝えることはできなかった。
廊下すれ違って、少し話をするだけで目の前の世界が変わるような気持ちになれたあの頃、僕は清らかな童貞だった。
高校一年生の時に真美ちゃんという子と付き合った。
彼女は地元で一番可愛いと言われているような子で、隣の高校のサッカー部のマネージャーをやっていた。
人生で初めて「メールで告白」というものをして、「いいよ」という返事を見たとき、僕は実家の部屋で小躍りした。
本当に踊ったと思う。携帯を握りしめながら。
夜は眠れず、彼女のことを想うだけで胸が高鳴った。
彼女の定期試験攻略のために化学のノートをまとめ、赤ペン先生さながらに問題集を自作した。
molだのアボガドロ定数だの今ではすっかり何も覚えていないような内容を一つ一つ、彼女に教えた。
そして、定期テストが終わるとなぜか連絡が疎遠になり、メールを送っても帰ってこなくなった。
何度docomoにセンター問い合わせをしたかわからない。
結局、その一週間後にボロ雑巾のように振られた。
牛乳を拭いた後の雑巾のように、腐臭が漂っていたと思う。
でも。
振られたり、想いが伝わらなかったときは辛かったけど、それ以上に幸せなことも多かった。
たった一つのメールに喜ぶなんて、今では信じられないことだ。
メールが返ってきたことが嬉しい。
彼女が喜んでくれることが嬉しい。
彼女の顔を見れただけで幸せだ。
そんな気持ちになれるのは、奇跡だと思う。
上に書いた真美ちゃんは高1の時に振られた後、しばらく経って、高3でまた付き合うことになる。
でも高3で付き合った真美ちゃんは、高1のとき死ぬほど好きだった真美ちゃんとは別物だった。
高1の時よりよっぽど大事にされたはずなのに、当時の胸の高鳴りは二度と戻らなかった。
Facebookという文明の利器を使って、大人になってからハルカちゃんと再開したことがある。
その時も、中1の頃に感じた胸の高鳴りは戻ってこなかった。
何が言いたいかというと、沸き上がった恋愛感情というのは、その時限りのものであって、未来に再び復活することなんてないということだ。
だからこそ、その沸き上がる気持ちに素直に向き合って、大切にしなければならない。
秒速5センチメートルの世界では遠野貴樹は中1の頃の感情をずっと大切に胸に秘めているが、これは現実の世界ではなかなか難しい。
過去を想い、過去を美化して思い返したことはあった。
でも、どんなに美しい過去があったとしても、人の感情は記憶とともに必ず薄れる。
そして、人は記憶を再生することはできても、記憶から幸福感を再生することはできないのである。
自分を幸せにしてくれるのは、いつだって目の前の現実なのだ。
そして、前向きに生きている限り、必ず。
必ず、美化された過去をはるかに超える、目の前の幸せに出会うことができるのである。
そしてその時、過去は完全に「思い出」となり、自分の中の感情とは切り離された「歴史」として記憶の中に格納されることになるのだ。
秒速5センチメートルの最後、婚約指輪をした篠原明里が新たな生活をスタートさせているシーンが象徴的だ。
彼女は前向きに生きて、貴樹との過去を思い出にすることができたのである。