【日本ハム】中田、独占手記「『2軍へ行かせてください』と言おうかとずっと考えていた」
◆西武0―1日本ハム(28日・西武プリンス)
日本ハムの中田翔内野手(27)がスポーツ報知に手記を寄せた。この日は4打数無安打2三振で、今季はリーグトップ110打点も、規定打席到達者ではワースト3位の打率2割5分1厘。チームVの裏で苦闘したプロ9年目を振り返った。
なんとかホークスを倒して優勝することができました。終盤は激戦で。とりあえず、ホッとしたというより疲れたわ。
だって11・5ゲーム差あっただろ? 「あきらめてませんでした」というのはきれい事。「普通に無理」と思っていた。周りも口にしないだけで、そう思っていたと思うよ。奇跡的な15連勝があったけど、厳しいと。ホークスは投手も野手も選手層もレベルが違う。簡単な話、年俸を見れば分かる(今季年俸の日本人選手平均はソフトバンクが12球団1位の6960万円。日本ハムは同6位の3278万円)。ウチなんかオレも含めて若手中心。経験、実力が違いすぎだよ。野球って分からん。不思議やね。
前回優勝から4年。大きな柱だった稲葉さんに金子誠さん、小谷野さん、糸井さんと先輩方が抜けた。今年も自分勝手にやらせてもらったけど、重圧や責任感は4年前とは明らかに違った。一番しんどかった。
個人成績も情けない数字。その一言。毎年そうだけど、思うようなシーズンを描けない。打点は周りの協力があったからこそ。何をやってもうまくいかない。やっぱり打てないと、野球は楽しくなかったね。
6月27日の西武戦で7回に代打を出された。腰痛もあったけど、あれは単純に実力がなかったから。むしろ「なんで試合に出ているんや」と。「もうどうでもええわ」って思っている自分もいた。完全にキレていたんだろうね。
いつ、どのタイミングで「2軍へ行かせてください」と言おうかをずっと考えていた。毎日、嫌々メンバー発表を見て「今日も出るのか…」と。帰りの車の中で「事故ったら明日から試合に出なくていいかな」とまで考えた。どん底だったんじゃない。そこがオレの弱いところでもあるんだけど。
救ってくれたのは栗山監督だった。8月10日の西武戦だったかな。チームがサヨナラ勝ちしたのに、すぐ帰っちゃった。そしたら翌日に「監督室へ来てくれ」と。さすがに怒られるんかなと思った。でも、違った。札幌Dの監督室で20~30分。オレやチーム、いろんなことを話してくれた。途中「翔は今どう思っているんだ?」と聞かれた時、思っていたこと、たまっていたことを全部話した。「『レギュラー外してください』『2軍へ行かせてください』と、いつ言おうか考えてました」と。それでも、「もう一回頑張ろう。翔で勝負してダメだったら納得できる。一からやろう」と言ってくれた。
それまで「頑張れ! もっとできる」と言われる度にイライラしていた。チームメートにしろ、コーチにしろ。でも、監督と話した時に、今までどれだけ情けないことを考えていたかを気付かされたというか…。2軍行きを志願するのは格好良くも見えるけども、冷静に考えたら、逃げているだけ。自分のことしか考えてなかった。そこからじゃない?「もう、やるしかねぇんだな」と思ったのは。日々成長ですよ。
他人にペコペコしたり、ゴマをすったりするのが大嫌い。監督とは用がある時しか話さないけど、純粋に監督が好きやね。あそこまでチーム、選手一人一人のことを考えている人はいない。1年目から監督を男にしたい、一番の監督にしたいとガチで思った。正直、監督と出会うまで、そんな気持ちを持ったことはなかった。だって、プロ野球って自分が結果を出してナンボの世界でしょ?
髪形やネックレス。関係ないことばかりを言うやつはいる。何を言っていただいても大いに結構。「ファンの皆様のために」ときれい事を言う必要はない。1000人ファンがいれば、1000人のアンチがいる。むしろ、ウチのチームや後輩をたたくなよ。全部オレに来い。「バカにしてきた奴を見返したる」と頑張るだけやから。
野球は人生そのもの。それは宝。夢や、いろんな人に注目してもらえる。ただ、バッシングを浴びたり、いろんな苦しい思いもする。でも、これがオレの人生。オレを応援してくれる人たちのために頑張りたい。(日本ハム内野手)
◆中田 翔(なかた・しょう)1989年4月22日、広島市生まれ。27歳。大阪桐蔭高では甲子園に春夏計3度出場し、当時の高校野球記録となる通算87本塁打をマーク。07年高校生ドラフト1巡目で4球団の競合の末、日本ハムに入団。14年打点王。昨季は初の30本塁打をマーク。13年WBC、15年プレミア12で日本代表。183センチ、100キロ。右投右打。血液型O。年俸2億4500万円。既婚。