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しいたげられたしいたけ

弊ブログでいう「知的好奇心」とは「体を使わない」程度の意味で「知能の優劣」のような含意は一切ない

同じ条件を与えられても成功する人は一握りでしかも誰が成功するかは予想できないこと(後編)

社会

1980年代半ば、パソコンは、みるみる高機能化していった。それとともに、ソフトハウスが雨後の筍のように登場した。インベーダゲームを模したようなシューティングゲームや、今でいうエロゲの元祖のようなものが、多数、出回った。大学の研究室のフロッピーディスクの棚は、それらの不正コピーで溢れたが、当時は不正コピーという意識はほとんどなかった。初期の頃は、インベーダゲームを模したといっても、当時のパソコンの画像処理能力は本家アーケードゲームとは比較にならず「これがアニメーションか?」という代物だったし、エロゲの絵柄は今のエロアスキーアートのほうがリアルなくらいだったと思う。それがほんの数年で、あっという間に進化した。

私が出入りするようになった頃の大学の研究室には、スーパーマリオと全く同じではなかろうがスーパーマリオに近いと思われるゲームのフロッピーディスクがあった。これも恐らくは不正コピーである。マリオが土管の上を飛んだり跳ねたりする動作は、もはやアーケードゲームと遜色のない物になっていた。

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そうした時代に、任天堂が初代「ファミリーコンピュータ」を発表した。ウィキペによると1983年発売、希望小売価格14,800円。当時私は、正直この新製品の意義が理解できなかった。確かに安価かも知れないが、本格的なパソコンを買った方がいいじゃないか、いかに今とは比較にならない低性能なパソコンであっても、と。

私の予測はことごとく外れるものだ。スマートフォンが登場したときにも、これはパソコンの下位互換じゃないかと思ったものだ。そしてスマホが世を席捲するにつれ、ファミコンが登場したときにも似たことがあったなと思った。

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もう一つ、パソコンやファミコンほどメジャーではなかったかも知れないが、この頃に世に現れたものを思い出しておきたい。

ロールプレイングゲーム(LPG)である。

LPGが初めて登場したのは御多分に漏れずアメリカだそうで、初期の形態は「テーブルトークLPG」と呼ばれるもので、プレイヤー2名のほかにジャッジが必要だったという。新しい物好きの大学生は、さっそく同好会を作ったらしく、大学内にポスターが貼られていたのを見た記憶がある。

それだけだったら他人事だが、ゲームブックというのが登場し人気を博した。私が通っていた研究室にも、誰かが持ち込んだものが一冊あった。

日本では元祖というべき現代教養文庫の書影を貼ろう。社会思想社は解散してしまったので、もはや新刊を入手することはできないが。

著者ジャクソンの作品は、創元推理文庫から「ソーサリー四部作」というものも出版された。現在はそれぞれ別の出版社から復刻出版されたものであれば、入手できるようだ。

テーブルトークRPGを一人で遊ぶことはできないが、ゲームブックは一人で遊べる。

遊び方はこんな具合だ。読者がページをめくると、「扉を開きますか」「洞窟に入りますか」「怪獣と戦いますか」などの選択肢が示され、「はい」「いいえ」に応じて行き先のページが示される。ページはランダムである。敵と戦うときには、サイコロを用意し、サイコロを振って出た値をダメージ値として自分と敵のライフ値から引いてゆく。サイコロがないときは、ページにサイコロの目が印刷されているので、でたらめにページを開いてそこに印刷されている値を使うこともできる。

これは、「プログラミングでやってください」「コンピュータでやってください」と言っているようなものだよね。

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こればっりは、後知恵ではないかも知れない。あの頃は、企業or個人問わず、プロorアマチュア問わず、いろんな人や団体がソフトウェアに挑戦したのだ。いや、今だってソフト開発を手掛けている会社や個人は、膨大な数に上る。でもあの頃は、少なくとも感覚的には、敷居が今よりずっと低かったように思う。誰もが「ソフトで一発当ててやろう」というチャンスがあると考える雰囲気があったように思う。今のソフトは大規模化、複雑化しすぎている。

「前編」で述べたつボイノリオ氏も、DJ業の傍ら、ソフトウェア開発を手掛けていた。PC-8801の日本語ワープロソフト「ユーカラ」に搭載する手書き風フォント「手書き連合」というのを開発したのだ。氏の番組の中でも、商品名を連呼し宣伝していた。残念ながら「ユーカラ」がワープロソフトのデファクトスタンダードの座を射止めることはできなかったので、「手書き連合」もヒット商品となることはできなかった。

堀井雄二氏が手掛けた「ポートピア連続殺人事件」が、そうした膨大なソフトの中で突出した存在だったとは、当時は思えなかった。「推理小説を読めばいいじゃないか」と醒めた目で見ていたように記憶している。ウィキペると最初のプラットフォームはやはりPC-8801だったそうだ。それがファミコンに移植され、「FC初のアドベンチャーゲーム」という称号を獲得した。

「ポートピア」が一頭地を抜く人気を獲得していた痕跡としては、「犯人は▽▽」という伝説のネタバレが、ネットジャーゴンとして残っていることが思い浮かぶ。ぐぐるビートたけし氏が「オールナイトニッポン」で発した言葉が元ネタとされる。オールナイトは様々なプロモ(今でいうステマ?)を仕掛けることがあるから、人気を獲得したから番組で取り上げられたのか、人気をあおるためにどこかが仕掛けたのかは、ネットで検索しただけではわからない。いずれにしろ、結果として「ポートピア」が80年代半ばの人気ソフトとして記憶されている事実は動かせない。

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ロトのテーマ

この頃私はもう「月刊OUT」の読者ではなくなっている。堀井氏が、どのような経緯で作画の鳥山明氏、音楽のすぎやまこういち氏という錚々たる顔ぶれと組んで、「ドラゴンクエスト」シリーズの開発に当たることになったかは、知らない。調べればわかるだろうから、本稿ももう少し調べてから書くべきだったかも知れない。

確信を持って言えることは、もし堀井氏が「ポートピア」を作っていなかったら、「ドラクエ」に参画することもなかっただろう、ということだ。

それまでの時代に影も形もなかった商品が、突然登場して世の中を一変させることは、我々はしばしば経験している。もしできることなら、そういう商品を、消費者として受け取るだけではなく自ら仕掛け人として世に出したいという夢を抱く人は、少なくないんじゃないだろうか。

今回、前後編で述べたのは、私がヨシのズイから覗くような狭い個人の視野から見たRPG誕生期の世相である。実は「影も形もなかった」わけではなく、必要なものは自ずと用意されていたことを述べたかったのだ。「機が熟した」というやつだ。ただしそれに気づきチャンスをゲットできるのは、限られた一握りであり、しかも誰が成功するかを予想することはできない。もしわかったら、その誰かに先行投資すれば大金持ちになれるだろう。

柳の下の二匹目のドジョウを狙うというのはアリのようだ。「OUT」とは比較にならぬ大部数を誇る「週刊少年ジャンプ」で、当時、読者投稿コーナー「ジャンプ放送局」を担当していたさくまあきら氏は、堀井氏の盟友でありライバルでもあったそうだ。「ドラクエ」のヒットにならい「桃太郎伝説」「桃太郎電鉄」というヒット作を生み出したことは周知の通り。「ジャンプ」の力添えも大きかったのかな。

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私だったら、どうだろう。そもそもソフトを作ろう、という意思がなかったことはさて措いて、仮定として。

スーパーマリオは、とても作れたとは思えない。

RPGだったら、作れたかも知れない。

実は当時、テキストRPGというのもあったのだ。ゲームブックをそのままプログラムにしたようなものだ。不正コピーのFDが研究室にあったが、バカにして手も出さなかった。手を出さないのはともかく、バカにする態度は最悪だったと反省している。

ドラクエになると、個人の力ではとても無理だ。だから飛躍が必要になる。会社の力を借りるということだ。

会社の力を借りるためには、実績が必要なのだ。

そして現在の知識として、企画書を書いて持っていけば、会社は力を貸してくれることがあるということを知っている。もちろん断られることもある。

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今にして思えば「月刊OUT」は、今でいうところの優秀なインキュベータのような存在だったようだ。当時のライターの一人である霜月たかなか氏は、コミックマーケット初代代表という称号を勝ち得ている(霜月氏には『コミックマーケット創世記』という著書もあるが未読)。霜月氏も「それまでなかったもの」を世に送り出した一人なのだ。しかし霜月氏も堀井氏と同様、「OUT」が抱えていたライターの中では、飛びぬけた存在ではなかったように思う。一方、「OUT」には多数のセミプロやアマチュアのマンガ家がいたが、ゆうきまさみ氏はその中で傑出していたという印象がある。画力は抜群だし、作り出すストーリーも際立って垢抜けていたように思う。そう感じるのは私だけではないことは、当時「OUT」に掲載されていた作品が、現在でも「ゆうきまさみ初期作品集」として入手できることが、傍証にならないだろうか。 いやこれも所詮は結果論かも知れない。

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言い訳っぽくて恐縮だが、ヒット作品を生み出すことができなかった人々を、一概に「成功しなかった」と断ずる意図は一切ないので念のため。世の中ではそういった人々のほうが、圧倒的多数なのだ。「OUT」の学生ライターだった南田操氏や花小金井氏、それに「OUT」に描いていた多くのマンガ家さんたちを、引き立て役のように書いてしまったが、彼らもやはり才能のある人々だったと思うし、ましてや彼らの幸不幸を断ずるような高慢の過ちを犯すつもりは毛頭ないことを記しておきたい。

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月刊OUT」本体は1995年に休刊し、版元のみのり書房も解散してしまった。内輪受けが昂じて新規読者が参入できない雰囲気になったと噂を聞くが、真偽のほどはわからない。もしそうなら、これもまたネットで繰り返されている光景である。

2014年の末に届いた人気編集者R2氏の訃報は、「はてな」のホッテントリに入った。胸の痛む内容だった。

takazaka-enokino.blog.so-net.ne.jp

上掲記事は、こう締めくくられている。

 明日書こう。
 いつか、書こう。
 そのうち、書こう。

 もう、その言い訳は、やめよう。

 今日、書こう。
 今、書こう。
 書ける時に、書こう。 

 同じ条件を与えられていても、誰もが成功するとは限らない。誰が成功するかを予測することもできない。最低限言えることは、何かに成功する者は、何かを実行した者だけだ。今のところは、この言い尽くされたことを繰り返すことしかできない。