乗務員にとって辛いこと。
安全を担う仕事なので、ミスが業務上過失○○罪などの刑事罰につながりかねない…。
と、今回はそんなまじめな話ではない。
乗務員にとって辛いことは、乗務中にトイレに行けないことである。
(特急列車の車掌なら別だが)
本人にとっては深刻だが、不謹慎ながらこの手の話は面白い。
その日、御手洗(みたらい)さん(仮名)は、いつものように中距離の普通電車に乗務していた。
季節は梅雨前のさわやかな春。やわらかい日差しが運転室を満たし、鉄板に囲まれた薄緑の狭い空間も、建物の中のオフィスより快適に思えるぐらいだった。
この路線は、終点が近くなると車窓から山の連なりが見られ、木々の変化が無聊の慰めとなる。
ラッシュ時間でもなく、乗客や列車本数も多くない昼下がり。落ち着いた気分の御手洗さんは、ぼんやりと非番の日の予定を考えていた。
(またハイキングにでも行くか)
変化が乏しい仕事の御手洗さんにとって、季節を感じられるハイキングはささやかな楽しみであった。
みずみずしい青葉を愛でながら山を歩けば、爽快な気分になるに違いない。
それに、ハイキングを励みにハンドルを握れば、見慣れた(見飽きた)風景も楽しくなるというものだ。
さて、もう少しで終点、折り返し。もう一度上って、次に下りを"持っていく"ときには、帰宅する人たちで込み合う時間だ。だが、まだまだ気持ちに余裕はあった。
ズン!
そんな平和な勤務は、何の前触れもなく地獄になった。
地獄と言っても事故ではない。自分の腹が急変。突然便意が襲ってきたのだ。
(うっ。大便だ…。ちゃんと済ませてきたはずなのに。)
御手洗さんは特にお腹が弱い性質でもない。それでもベテランなので、乗務前にトイレに行くのはしっかり習慣になっている。この日もその点は抜かりなく、前の晩に深酒したわけでもない。
(次にトイレにいけるのは、終点の折り返し7分か。)
運転台に置いた行路表を見るまでもなかったが、一応確認してみた。しかし、縦長の行路表には、見落としていた希望などない。終点以外にチャンスはなかった。
単線ローカルであれば、列車の行き違いの数分間でダッシュするという手もあるが、ここから終点まではそんな運転時間の余裕はないのだ。スピードを上げて運転しても、結局終点までトイレに行けるところはない。
また、終点が近いこの辺になると、代わりの乗務員の手配も無理だった。
列車を遅らせずに途中でトイレに駆け込む手段はない。
(うーん、でも便意の周期はまだ長いし、大丈夫だろう。)
便意の周期から、我慢の限界は想像できる。終点まではまだ時間がかかるが、耐えられるだろうとこのときは思った。
体調が悪いときには、指令に連絡してトイレに行ったり、代務を頼んだりしても良いのだが、自分の大便で列車を遅らせるのはやはり気後れする。
また、後で嫌な助役に
「前の晩は飲んだのか?」
などと、痛くもない腹を探られるのも癪だった。終点までこの腹を持たせるのがベストである。
指令に通じる無線機に目をやったが、すぐに視線を戻した。晴天の下、今日は普段以上に信号機がはっきり見える。
つづく
笑い事ではないですよね。