情熱クロスロード~プロフェッショナルの決断
【第3回】 2012年10月2日 坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

映画監督・瀬川昌治インタビュー
49本目の新作を準備する86歳の現役最高齢監督
「創作意欲がなくなるまでやめません」

瀬川昌治さんは、2013年に向けて3つの企画を構想し、現在準備中だ。3つの企画とは、第1に、映画「終わりのない旅」。北九州市を舞台にした兄弟の物語で、現在脚本を検討しているところだ。第2に、劇団ラッパ屋を主宰する劇作家、鈴木聡さん(1959-)の作品「阿呆浪士」の演出。これはまだ具体化していない。「赤穂浪士」のパロディである。第3に、ミュージカルの演出。これもまだ作品、主演とも決まっていないが、ぜひ実現したいという。瀬川さんはこの10月に87歳の誕生日を迎える。(ダイヤモンド社論説委員 坪井賢一)

せがわ・まさはる
1925年東京生まれ。東京大学英文科卒業後、49年に新東宝へ入社、助監督として57年まで勤務。59年に東映助監督へ。翌60年に東映から監督としてデビュー。68年末公開の「喜劇・大安旅行」から松竹へ移り、78年まで松竹作品の監督をつとめる。その後は映画3本のほか、山口百恵主演のテレビドラマ「赤い衝撃」、堀ちえみ主演「スチュワーデス物語」など多数を演出。著書に『乾杯!ごきげん映画人生』(清流出版、2007)、『素晴らしき哉 映画人生!』(同、2012)など。ジャズ評論家で雑誌「ミュージカル」編集長の瀬川昌久さんは1歳上の実兄。

 3つの企画はそれぞれ大規模で、同時に進行させるのは困難だから、順番に進める。また、毎年春と秋の2シーズン(各3ヵ月間、毎週日曜)、俳優養成のためのスクール「瀬川塾」を開き、公募で毎回十数人を指導し、世に送り出している。

 ここまで聞けば、実に精力的な映画監督だなあ、という感想で終わるのだろうが、瀬川昌治さんは1925(大正14)年10月26日生まれ、2012年10月で87歳である。現役映画監督では最高齢であろう。

 「創作意欲は衰えませんね。もし、衰えたらやめるつもりです」(瀬川昌治さん)

 と、自邸のスタジオで語ってくれた。身のこなしは軽く、やりとりも軽妙洒脱、1954年生まれの筆者のほうが心身ともにヨタヨタしているかもしれない。

 2012年3月には鈴木聡さんの喜劇作品「凄い金魚」の舞台演出で好評を得ている。筆者も観劇した。164席の中ホールだが、補助席も出して超満員の盛況だった。

 すでに舞台の演出でも10本近くを手がけており、「阿呆浪士」もその延長線上にある。また、2000年2月には舟木一夫主演でミュージカル「アイ・ラブ・ニューヨーク」の脚本、演出を行なっており、ミュージカル新作の構想も初めてではなく、2度目なのだ。

労使紛争後の「新東宝」へ新卒で入社

 瀬川昌治さんが東京大学英文科を卒業して新東宝に入社したのは1949年、映画の世界に入ってから2012年で63年目である。戦後映画産業の盛衰を全部体験し、テレビの普及後はテレビドラマの演出・監督も無数に手がけている。多作にしてジャンルを横断する大ベテランだ。

 映画産業の戦後史を自身の代表作とともに語ってくれた。

 新卒で入社した新東宝は、60歳以下の読者は存在を知らない映画会社である。東宝に「新」が付いているのだから、東宝の関連会社だったことは想像できよう。

 「入社当時の新東宝社長は佐生正三郎さんで、ハリウッドのプロデューサー・システムを導入する、と言っていたのです。大学野球部の先輩のお誘いもあったのですが、監督から俳優まで決めるプロデューサーの仕事に惹かれ、入社しました。製作部に入ったのですが、弁当の手配やスタッフのめんどうばかりで。プロデシューサー・システムなんてどこにもない(笑)。やはり監督中心だったんですね。翌年に演出部へ移り、助監督となりました。この年から新東宝をやめる1957年までの7年間が修業の時期でした」(瀬川さん)

 少し説明が必要だろう。

 東宝では戦後まもなく激しい労働争議が起き、1945年から48年まで3年間にわたり機能不全状態に陥った。ピークは48年8月で、撮影所を占拠した組合員を排除するため、東京地裁が排除の仮処分を執行するために武装した警察官と進駐軍の米兵まで動員する事態となったのである。この大混乱の収束後、11月にようやく東宝労使は争議解決の調印を行なっている。

 この間、東宝は第二製作部(一部の俳優と第3組合員)を中心に新東宝を設立し、東宝が映画製作を新東宝に委託することで本数をそろえることにしたのである。

 瀬川さんが入社したのは争議解決の翌年秋ということになる。すでに撮影所は落ちついていたそうだ。

 ところがこの年(1949)3月、東宝は映画製作を新東宝に一任する、としたものの、9月には東宝本体の映画製作再開を決める。

 強気になって独自路線を敷きはじめた新東宝は11月に自主配給することを決め、東宝と対立するようになる。徐々に予算割れを起こすようになったものの、映画産業は急速に成長していたので1950年代は東宝と対立と妥協を繰り返しながら事業は続いていたが、経営者は頻繁に交代し、しだいに窮乏していった。

 瀬川さんが修業していたのはそんな時期だった。助監督として師事したのは、阿部豊、松林宗恵、中川信夫監督である。阿部豊(1895-1977)は「細雪」の映画化で知られる。松林宗恵(1920-2009)は生涯に68本の映画を残した。中川信夫(1905-84)は当時、怪談映画の監督が多かったという。

 ところが1955年、映画館の経営者だった大蔵貢1899-1978)が社長に就任する。

 「大蔵さんはワンマンでしてねえ、エログロ低予算路線で行け、ということになったんです。嫌気がさして2年後に退社しました。1957年のことです。新東宝は61年に倒産します」(瀬川さん)

東映で監督デビュー後、8年で24本
谷啓、渥美清の喜劇映画で有名に

 新東宝退社後はシナリオライターとして新東宝や東映の作品を書いていたが、2年後の59年に東映と助監督契約を結び、60年に監督デビューすることになる。

 日本の映画産業のピークは58年で、この年の映画人口(年間観客動員数)は11億人を超えた。これ以降、テレビに押されて減少していくことになるが、瀬川さんが東映で量産し始めたのは映画黄金時代の後半だった(2010年の映画人口は1億7000万人)。

 東映は60年に第二東映(のちにニュー東映)を設立し、東映京都撮影所の時代劇と合わせて製作本数の倍増を狙っていた。瀬川さんはこのときに東映監督となる。ちなみにニュー東映の運営はうまくいかず、62年にやめてしまったが、60年からは週に4本公開していたというからすごい。

 瀬川さんは最初に喜劇をまかされるが、これを契機に大量の喜劇映画をつくることになる。デビュー作は「ぽんこつ」(公開:1960年11月 東映東京)で、主演は江原真二郎と佐久間良子だった。

 2作目「拳銃野郎に御用心」(1961年2月 同)、3作目「次郎長社長と石松社員」(1961年5月 ニュー東映)と続く。

 けっきょく、東映で監督した映画は1960年から68年の8年間でなんと24本を数える。年間3本である。大半は喜劇で、その後の日本の喜劇映画の一典型を造形した。

 クレージーキャッツの谷啓(1932-2010)主演「図々しい奴」(1964年1月 東映東京)とその続編「続・図々しい奴」(1964年6月 同)は柴田錬三郎原作の文芸喜劇として評価が高かった(61年に松竹が先に映画化しており、テレビドラマもあった)。

 瀬川さんが当時盛名を馳せたのは、渥美清(1928-96)主演の「喜劇・急行列車」(1967年6月 同)だった。シリーズ化されて「喜劇・団体列車」(1967年11月 同)、「喜劇・初詣列車」(1968年1月 同)の3作が7ヵ月の間に上映され、観衆を沸かせた。車掌や駅員に扮した渥美清とマドンナ佐久間良子が繰り広げる人情喜劇で、舞台は国鉄の駅や車両である。旅行好き、鉄道好き、喜劇好きの観衆を集めたのだ。

 筆者は中学1年生で見た2作目の「喜劇・団体列車」をよく覚えている。マドンナの自宅(宇和島)でウドンを出された渥美清の食べ方が今も忘れられない。ちゃぶ台に落としたウドンのかけらを取り上げ、口に入れるディテールに笑った。「男はつらいよ」(第1作1969年8月 松竹)の直前である。

 また、同時期に撮っていた「喜劇・競馬必勝法」(1967年9月 東映東京)のシリーズも面白かった。主演は谷啓で、競馬狂いの平社員と社長の軽妙なやりとりを覚えている。これらの喜劇を年間3本撮っていた。

 「東映では24本も撮りましたが、68年になると人情喜劇や文芸ものから引くようになり、『温泉あんま芸者』シリーズのような喜劇に移ります(笑)。70年代になると任侠路線や実録路線に行くことになる。68年後半に私が準備していた喜劇は企画が流れてしまいます。すると、当時『喜劇・列車』シリーズを見ていた松竹の城戸四郎さん(1894-1977、当時社長)から声がかかり、松竹の正月映画に私の喜劇映画を譲ってくれというのです。東映の岡田茂さん(1924-2011、当時常務映画本部長)も『じゃあ、ちょっと松竹へ行って来い』と。それでフランキー堺(1929-96)主演の『喜劇・大安旅行』が松竹で公開されたのです」(瀬川さん)

 この作品は68年12月28日から公開される正月映画となった。大ヒットし、松竹は「男はつらいよ」と同時期にシリーズ化することにした。「喜劇・旅行」シリーズはすべてフランキー堺主演で、72年までの4年間で11本製作されている。

松竹の喜劇作品は10年間で21本
テレビでは「赤い」シリーズ、「スチュワーデス物語」を

「喜劇・旅行」シリーズを覚えている読者はやはり50代以上だろうが、喜劇役者フランキー堺の代表的な作品として映画史に残る。

「ちょっと行ってくる」つもりが、けっきょく松竹では「喜劇・旅行シリーズ」を含めて78年までの10年間で21本、平均年に2本以上の喜劇を量産することになる。

 しかし、映画の黄金時代は終わっていた。映画人口は往時より85%減少し、瀬川さんの出番も急減していく。このころ、請われてテレビ映画の監督を増やしている。すでに60年代からテレビドラマの脚本を書いていたそうだ。

 「テレビドラマを演出した初めての作品は『国際事件記者』(1965年、TBS)でした。毎週放送されるテレビドラマは何人かの監督が交代で撮影します。次が『キイハンター』『ガードマン』(いずれも1970年、TBS)かな。『トリプル捜査線』(1973年、フジテレビ)もかなり演出しました。『Gメン75』(1975年、TBS)も多かった。そして山口百恵さん主演の『赤い衝撃』(1976年、TBS)と『赤い絆』(1978-88年、TBS)ですね。視聴率が30%を超える人気ドラマでした。ちょうど私が松竹で最後の作品『喜劇役者たち 九八とゲイブル』を公開した年ですね。赤いシリーズは大映テレビの製作でした」(瀬川さん)

 山口百恵さんの引退直前、「赤い」シリーズの数々を演出していたのが瀬川さんだったのである。

「2時間のテレビ映画もたくさん撮りましたよ。連続ドラマでは80年代に『赤かぶ検事奮戦記』(フランキー堺主演、1980年、ABC)、『スチュワーデス物語』(堀ちえみ主演、1983年、TBS)を何本も演出しました」(瀬川さん)

 このあたりになると40代以上がよく覚えているドラマであろう。

 「90年代は『HOTEL』(1990-98年、TBS)が多いね。石ノ森章太郎さん原作のシリーズです。数十本は演出しているでしょう」(瀬川さん)

「終わりのない旅」が続く

 映画の全盛期後はテレビドラマを無数に演出し、10代から50代以上の視聴者まで包んでいたことになる。恐るべき映画監督である。

 一方、映画は84年に「トルコ行進曲 夢の城」(にっかつ 1984年)を監督している。にっかつロマンポルノで映画界に復帰し、世間を驚かせたもので、筆者も見ている。続いてビートたけし主演「哀しい気分でジョーク」(1985年 松竹)、片岡鶴太郎主演「Mr.レディー 矢明けのシンデレラ」(1990年 日映・東宝)を撮っているが、やはり80年代以降は3本と、非常に少ない。

 東映で24本、松竹で21本、その後3本の映画を撮り、合計48本! テレビ映画(ドラマ)はご本人も数え切れないという。

 2012年3月に自伝『素晴らしき哉 映画人生!』(清流出版)を上梓、これで2冊目の自伝である。そろそろ店じまいして映画人生の記録をまとめておこうという意図だろうか。

 「いや、創作意欲はまだありますねえ。なくなったらやめますが、まだまだ意欲があるんです。2013年には3つの企画を実現させたいと考えています。映画『終わりのない旅』の企画はだいぶ進んでいるんですよ」(瀬川さん)

机上の「アーロン収容所」シナリオ第1稿。1970年11月19日の日付が入っている。

 まだあきらめきれない企画もある。

 松竹から声がかかった1968年、東映監督の瀬川さんは松竹に条件を出していた。会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書、1962)の映画化である。ビルマ(ミャンマー)の捕虜収容所で体験したカルチャーショックを描いた歴史家、会田雄次さん(1916-97)のベストセラーだが、瀬川さんはこれを渥美清主演で映画化したいと考えていた。

 68年当時、松竹は企画を受け入れ、70年11月にはシナリオの第1稿が完成していたそうだが、けっきょく71年にロケーション・ハンティングのタイ旅行まで実現していながらボツになった。

 あれから40年以上、スタジオの机に「アーロン収容所」のシナリオ第1稿が置いてある。

 創作は瀬川昌治さんの「終わりのない旅」なのである。

 参考文献:瀬川昌治『素晴らしき哉! 映画人生』(寺岡ユウジ編、清流出版、2012)、『松竹九十年史』(松竹、1985)、『東宝五十年史』(東宝、1982)