小学生の頃、Jリーグガムというものがあった。ガムはペラペラの薄いものだが、サッカー選手のカードが一枚入っている。それを楽しみに購入する。カードが本体でお菓子はオマケと揶揄されるようなものだ。私と弟はそれを集めていた。
ある時、学校から帰って冷蔵庫をあけるとJリーグガムが二つあった。親が買ってくれたんだろう。私のぶんと弟のぶん。どちらも開封されていない。私は自分のぶんの袋を開け、カードを確認し、ガムを噛んだ。カードはショボイものだった。「こいつ誰だよ」と言いたくなるような選手。
当時の私はヴェルディ川崎のファンだった(今は別の名前に変わったようだ)。だからヴェルディの選手がよかったし、できればラモスか北澤か武田、というかカズがよかった。カズのカードがほしかった。私はガムをクチャクチャやりながら二階の部屋に上がった。おまけのガムといえど甘くて良い。
しばらくして麦茶を飲むためにふたたび居間に降りて冷蔵庫を開けた。弟のJリーグガムが目に入った。ふと思った。中のカードだけ確認しておこう。弟は友達の家に行っていなかった。どうせ二人で集めているんだから問題ないだろう。袋を開けてカードを確認した。あまり良いカードではなかった。地味なチームの無名の選手。誰これ要らね、というかんじ。
その時、ガムの香りが鼻をついた。
ダメだ、と思った。弟のガムだ。それを勝手に食べちゃいけない。しかし良い香りだった。ガムの甘い香り。我慢できない、と思った。それにカードは二枚ともスカだった。私はガムの甘みになぐさめられたかった。ガムのすみっこをちょっとかじってみた。しかしもちろん、何の味もしない。あいかわらずガムの芳香は私を誘惑していた。
瞬間、悪魔的な閃きがあった。
ガムは長方形だ。うまく歯でかじって、すこし小さな長方形にすれば、食べたことはバレないんじゃないのか? つまり、ガムの周囲を削るように食べていくことで、たとえば一辺10センチのガムを一辺8センチのガムにした場合、その微妙な違いは弟に見抜かれないのでは?
三十をすぎた今なら言える。こんなものは悪魔的閃きとは言わない。馬鹿の思いつきという。しかし当時の私は実行に移した。うまく歯を駆使して、ガムの周辺を削るように食べていった。
結果、各辺がガタガタになったガムがそこにあった。どう見ても歯型だった。何者かに削り取られたあとだった。弟が馬鹿でも気づくだろう。いびつになったガムを見て変な汗が出た。しかし冷蔵庫に戻して部屋に帰った。なんとかなる、なんとかなる。頭の中で唱えた。削り取った少量のガムを噛みながら。甘くておいしい。なんとかなる。
夜、「兄ちゃんに食べられてる!」という声が居間から聞こえた。一発でバレた上に犯人も特定されていた。我々は四人家族であり父と母はガムなど食べない。となれば犯人はガムへの欲望を共有している兄だけ。こんなものは名探偵の登場を必要としない。なけなしのIQでいける。
居間に降りた私は、弟と母親を相手に文法の破綻した日本語をしゃべりつづけた。「要するに食べたのね?」と母親は何度も確認してきた。私は見苦しい抵抗をつづけた。しかし最後は認めた。要するに食べた!
弟のガムは母親が新たに買うことになった。あれは本当に最悪の出来事だった。
書いているうちに連鎖的に別の記憶も思い出してきた。あの頃、うちの家族と親戚の家族でどこかの温泉に行った。イトコたちも同年代だった。全員で旅館の広い和室に泊まった。部屋にはすでに布団が敷かれていた。大人たちは酒を飲んでいた。われわれ子供は適当に遊んでいた。旅先だから大人たちが普段ほど厳しくない。夜も更けていたが寝ろとは言われなかった。それが嬉しかった。
当時、『夜もヒッパレ』という歌番組があった。三宅裕司司会の人気番組だった。旅館のテレビで『夜もヒッパレ』が始まった。それに気づいたイトコの一人が「これ毎週みてる!」と言った。すると弟が「ボクもみてる!」と言った。しかし私は弟が本当は見ていないことを知っていた。当時の弟には放送時間が遅すぎたのだ。だから言った。
「いや見てないじゃん、うそつくなよ」
すると弟が泣きだした。最初はぐすぐす言い、最終的には号泣していた。あれは本当に最悪だった。嘘くらいつかせてやれ。小学校低学年の子供にとっては夜更かししてテレビを見ていることが誇りになるんだから。「ボクは友達が寝てる時間に『夜もヒッパレ』を見てるんだ!」。それで胸を張れるんだから、無神経にその気持ちを踏みにじるな。書いているうちに当時の自分に腹が立ってきた。本当に弟がかわいそうだ。
「いや見てないじゃん、うそつくなよ」
冷たすぎる。最低。こいつは真実を指摘すればそれでいいと思っている。優しさゆえの嘘というものを知らない。だから弟は泣いた。当然だ。イトコたちの前で少しだけ見栄を張ってみたら、実の兄にとんだ恥をかかされたんだから。
今ならば弟の強がりに気づいたうえで絶対に何も言わない。それどころか嘘がばれそうになれば助け船を出してやりたい。弟の嘘を縁の下で支えてやりたい。それに弟のガムの各辺を歯で削り取ろうともしない。それはほんとうにしない。
もしこの世にタイムマシンというものがあったなら、私はまず台所でガムを削り取ろうとしている自分の肩に手をおき、それは悪魔的閃きじゃなく馬鹿の思いつきだからやめろと言う。そして千円札を握らせる。ガムならこれで買え。それからあの日の旅館に飛んで、弟の嘘を暴露しようとする自分の口元を手のひらでふさぐ。そして千円札を握らせる。これで旅館の自販機の妙に高いジュースを買え。
科学者たち、早急にタイムマシン頼む。