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幸福の観測所

反社会的宗教団体「幸福の科学」の批判を中心としたアンチカルトブログです。

「幸福の科学」元信者の立場から佐々木俊尚氏の見解を批判する

既にあちこちで取り上げられて話題になっています。

こちらの記事と、そこに貼られているリンクから辿っていくと色々な意見を読むことができます。佐々木氏の意見を読むと、完全に「幸福の科学」のシンパになっていることが分かります。こうやって「炎上」することで、色々な人が宗教について考える機会を得たというのは悪いことではないと思います。
佐々木氏は宗教全般を肯定し、宗教の代表として「幸福の科学」を肯定しているようです。私も「幸福の科学」を宗教の代表として扱う点については、佐々木氏と同じです。ある意味、伝統宗教から迷信や伝統を取り去って純粋化したものが新興宗教なのだと思っています。
宗教を純粋化すると「幸福の科学」(或いはオウム真理教)みたいになる、というのが私の考えです。だからあらゆる宗教は悪であり、不要なものだと私は考えます。
さて、個別に佐々木氏の意見を見てみます。

「現在の幸福の科学はカルトではない」という主張

現在の幸福の科学はカルトではないと思いますよ。またカルトの定義も国や時代によって変わるし、教団の形態も変化します。世界宗教だって原始段階ではだいたいカルトです。 RT @sakichan 単に新興宗教というより、カルトと認識している人が多いからでは?

「カルトではない」と主張しながら、「カルトの定義は国や時代によって変わる」、また「教団の形態も変化します」、「世界宗教だって原始段階ではだいたいカルトです」と言う。
要は、「幸福の科学も原始段階ではカルトだったが、現在の幸福の科学は、教団の形態が変化し、カルトではなくなった。」と言いたいのでしょうか。佐々木氏の「カルト」の定義は何なのでしょう。

カルトの定義をしないための予防線を張る佐々木氏

カルト論議をし出すと、「こういう裁判が起こされてる」「こういう批判がある」だからカルトだ、と重箱の隅をつつきはじめるので、議論にならないですけどね。

どこが重箱の隅なのでしょうか。現実に、信者が苦しんでいる姿を見て戴けばよいのでしょうか。私のブログには、数々の信者の事例が紹介されています。最近強烈だったのは、自殺未遂を繰り返す二世信者の子たちの例です。

他にも被害の事例はこのブログで幾つも紹介してきました。
佐々木氏は、「幸福の科学」の教えや信者の表面だけを見て、間違っていないと信じ込まされてしまっているのでしょう。オウム真理教に騙された知識人たちと全く同じです。
一見正しそうに見える教えの中に隠された思想的害毒や、一見幸せそうに見える信者たちの姿の陰に隠されている苦しむ信者たちの姿をきちんと直視すべきです。その上で「幸福の科学はカルトではない」と言えるものならどうぞ言ってみて下さい。
佐々木氏は

宗教団体の人とトークするというだけで、中身も聞かずに非難するというのは異常ではないでしょうか?

などと言っていますが、教団の中身についてよく知らずに教団側からの言い分だけを聞いて納得してホイホイ広告塔を買って出てしまっている佐々木氏の方が異常です。非難囂々なのは当然です。

「キリスト教やイスラム教もカルトだった」という主張

原始キリスト教も原始イスラム教もカルトでしたが、あなたはキリスト教やイスラム教も馬鹿を騙す商売だと思っていますか。

こうやって過去の世界宗教と比較するのは、「幸福の科学」内部でよく見られたの議論の進め方です。ところで、イスラム教は置いておくとして、「原始キリスト教がカルトだった」という主張は本当なのでしょうか。どういう定義で「カルトだ」と言っているのでしょうか。当時、キリスト教は何か反社会的な行動をしたのでしょうか。住民を大量殺戮したでしょうか。信者の家庭を崩壊させたでしょうか。信者の人生を狂わせたでしょうか。信者の子供が自殺未遂を繰り返したりしたのでしょうか。そういう事例はどこかに示されているのでしょうか。
更に言うと、仮に佐々木氏の「原始キリスト教がカルトだった」という主張が正しいとしても、だからカルトが許されるということにはなりません。佐々木氏が言いたいのは、「原始キリスト教はカルトだった。だが、キリスト教は世界宗教になった。幸福の科学も今の基準ではカルトかも知れない。だが、キリスト教と同じように、幸福の科学は世界宗教になるかも知れない」ということでしょうが、カルトであることは世界宗教の必要条件ではありません。一カルトのまま世界宗教にはならずに消えていった宗教の方が遙かに多いです。
佐々木氏の論理は破綻しています。

「宗教怖い」みたいな昭和の常識?

これまでの社会の常識が根底からひっくり返り、すべてを再定義していかなければいかない段階に来ていると思う。だから「宗教怖い」みたいな昭和の常識ももう終わり。もう一度私たちの間で「宗教って何なんだろう」「必要なんだろうか」ということを考えるべき時に来ていると思います。

そんな「常識」があったのか、初めて知りましたが、この部分は佐々木氏の素直な述懐だろうと思います。宗教が必要なのかどうか、佐々木氏自身がよく分かっていないのでしょう。しかし、「私たちの間で」「考えるべき時に来ている」という表現が個人的には気持ち悪いです。佐々木氏が考える時に来ているだけであり、他の大多数の人は、とっくに考え終わっていることです。だから非難囂々なのです。
私の二十年来の「幸福の科学」信仰歴から得た結論は、宗教は必要ないということです。仮に宗教が必要だとしても、私の経験から言って、「幸福の科学」という選択肢はあり得ません。オウム真理教に入信するのと同じぐらいあり得ないことです。「幸福の科学」は思想的にオウム真理教と同類だという指摘も宗教学者の大田俊寛氏によって既になされています(大田俊寛著『現代オカルトの根源』(ちくま新書)読書感想文 - 幸福の観測所等参照)。

私も最近思いますよ。「超越的な何かに託せる安心感って確実にあると思いますし、あったほうがよいのではと感じてます」

佐々木氏も大人になりきれない大人な人なんでしょうね。こういうことを言う人にはエーリッヒ・フロム著『愛するということ』をお勧めしたいです。佐々木氏は宗教というものに対して、極めて浅い幼稚なイメージを持たれているようです。

ペラペラ適当なことは言っていません。 RT @3e5r4r4h @sasakitoshinao そうであったなら、宗教についてベラベラ適当なことを書かない方が良いのでは? ご自分のツイートを一度読み返してみた方がいいですよ。

「自分は物事をよく知っている、自分を批判する奴らは宗教についてよく知らずに批判してきている」というような思い上がりが見受けられます。バカにつける薬なし、とはよく言ったものです。自分が利口だと思い込んでいる利口馬鹿というやつです。こういう傲慢な方には、何を言っても無駄でしょう。「幸福の科学」とはまさに「波長同通」で、お似合いの性格をしていらっしゃる方だなあと思いました。相思相愛でいいんじゃないでしょうか。
あと、私自身の反省点としては、もっと「これが幸福の科学の被害だ!」ということを誰が見ても分かるようなものについて、分かりやすく纏まったものを作るべきだと思いました。そういうものがあれば、もしかしたら、佐々木氏も翻意できたかも知れません。いずれ時間がとれたら作ります。