「どうやったら自分が昔より成長したって事を証明できるんだろう」(佐原みよこ)
- 『聲の形』の、髪の形
映画『聲の形』ではキャラクターが髪型を変えるシーンが散見される。
「聲(声)」が西宮には聴こえないものであり、また他者の心の声という意味まで含んでいることに対し、「髪」は西宮にも誰にも同じように見えるものとして存在している。
以下、映画と原作漫画の話が混在してしまうが、『聲の形』における髪型の変化についてまとめる。
『聲の形』においてキャラクターの髪型の変化が頻繁に見られる理由の一つに、メインキャラクターである石田の家が理容室であることが挙げられる。
石田と西宮、2人が出会うその前、西宮は母親から「男子のように強く育ってほしい」とベリーショートの長さまで髪を切ることを強いられる。偶然にもそれを実際に受けた理容師が石田の母親で、彼女は西宮の意思を汲み取り、ショートヘアに揃えるまでで切るのをやめてしまう。2人の出会いはこうして始まる。
その後、高校生になって石田と再会した西宮は、髪を伸ばしている(転校し年月を経たことで直接的ないじめを受けなくなったこと、また結弦の一件(後述)から、髪型について母親からの干渉が弱まったと思われる)。小6で母親に強制されるまでは同じくらいの長さであったことから、おそらくはこれが西宮の望む姿(髪の形)と見受けられる。
再会した石田と過ごす中で、小学校のクラスメイトや石田の友達など、西宮の周りに人が集まるようになる。そんな中、西宮はある日、髪型をポニーテールに変える。その件について気が付いてもふれられない石田は自分の勇気の無さを呪うが、西宮にとってもこの髪型の変化は石田の気を引くためのものであり、その時点での2人のすれ違いを示している。事実その後、西宮は自分の言葉で石田に想いを伝えるが、それが石田に伝わることはなかった。
さらにその後、あるきっかけから小学校での事件が仲間たちに広まり、彼らと衝突したことで石田は再び孤立してしまう。それでも、そのぶんも西宮のために行動する石田を見て、西宮は自殺未遂を起こす。
突然の事件の裏には植野に伝えた「私は私のことが嫌い」や、石田に伝えた「私といると不幸になる」といった想いがあったのだろう。事件後、西宮は植野から自分勝手な行動を責められる。
石田に救われ、植野に責められ、一命を取り留めた西宮は、再び生きることを選ぶ。おそらくは石田が西宮を助けたときに思った「今度はちゃんと生きます」と同じような気持ちから。決意の証に彼女は自分で髪を結う。
西宮については以上だが、他のキャラクターも髪型を変えるシーンが散見される。
西宮がポニーテールにしてきたのと時期を同じくして、川合も普段の三つ編みをやめ、髪をおろしてくる。おそらく彼女にとっての武装であるそれも、「そこに特別な意味はない」というのを額面通りの意味に石田は受け取る。
西宮の妹、結弦もかつて植野と同じようにストレートロングヘアであったが、母親に抵抗して西宮の代わりに自分が髪を切り、以来ずっと同じ髪型にしている。
西宮の母親も、最後には石田の理容室で髪を切っている。これは小学校以来、謝る謝られるの関係であった両者の仲が回復し、自然な付き合いができるようになったことを示している。
この通り、『聲の形』にはキャラクターが髪型を変えるシーンが散見されるが、それではこの作品における「髪の形」とはどのような位置付けにあるものなのか?
「聲(声)」が西宮には聴こえないこと、また他者の心の声が聴こえないことが変わらない事実であり、その事実に対して向き合って生きて行かなければならないことに対し、「髪の形」はある程度自由に変えられる。ここまで見てきたように「髪の形」は変えられる。『聲の形』において「髪の形」とは、「自分の意志で変えられるもの」のメタファーとして機能しているように見える。
- 植野さんかわいすぎ問題
『聲の形』において「髪の形」が「自分の意志で変えられるもの」として、変えていない人物が一人いる。植野である。
小学校の時、石田と同じくかなり直接的に西宮のいじめに関わっていた植野。高校で再会してからもたびたび対立を引き起こす彼女は、その髪の長さや髪質から見れば作中で最も「髪の形」を変えられるのにも関わらず、一切それを変える描写がない(正確には原作漫画では、中学時にばっさり切ってボブカットにしていた過去の描写がある。おそらくは石田のいじめに関わってしまった贖罪だろうか?)。
「髪の形」を変えない植野には、変わらない想いがあることが思い当たる。
一つは石田に対する想い。小学生の頃から石田が気になっており、高校になっても石田と島田との関係修復を図ったり、意識不明状態に陥った石田の看病で毎日付きっ切りであったり、誰よりも石田のために行動していた。
もう一つは西宮に対する想い。小学生の頃、愛想笑いばかりで本音を見せようとしない西宮に対し、植野は拒絶の意志で西宮をいじめはじめる。高校でも直接にそれをぶつけたり、石田に負担をかける西宮を強烈に責めたり、植野は西宮のことが嫌いで、最後まで「好きになれない」「好きになりたくない」と変わろうとして変わらない想いを抱き続ける。
植野のこの悩みは、いくら自分の意志で変えられるとは言え、過去の事実が事実としてある以上、人の気持ちには変わらない部分だってあることを示している。
それは西宮の母親が石田に「あなたがいくらがんばってもあなたが小学校でしたことは変わらない」と言うのと同じように。そのことで石田が常に悩み自殺未遂まで起こしてしまうほどに悩むのと同じように。
それでも西宮の母親と石田の関係が修復し、過去の事件から他人と向き合えないでいた石田がそれでも生きていくことができるようになったことと同じように、植野もいつか変わるのかもしれない。だから今は無理して変わる必要なんてない、と石田は植野に伝える。数年後、再会した植野は変わらずストレートロングヘアでいた。
センシティブな題材を扱った作品だけに、『聲の形』は「障害」「いじめ」といった面から語られがちだが、植野さんがかわいすぎる映画・漫画でもあり、むしろ筆者としてはそちらを強く感じたことをここに記しておきたい。
まずは映像から、同じ「黒髪」でも石田や結弦の髪と比較して、植野の髪は黒の濃度が高く鮮やかで艶やかであることがはっきりと分かる。
漫画では「サラ」という擬音を伴い登場する植野の髪質は(もちろん他のロングヘアのキャラクターはこの擬音を伴わない)、映画ではゆっくりと繊細な髪のなびきを注視してしまう石田の主観視点から表現される。
登場時のインパクトも大きい。数年ぶりに石田と出会った(見つけた)際、彼の目を惹こうと街でいきなり猫耳を付け出したり。石田を見つけてすぐに自転車の後ろに乗ったり。後に石田から「嵐のようなやつ」と言われるように、毎回唐突で強烈な登場をする。
突然石田の家に乗り込んだり、久々に再会したバイト先に石田を呼んだりと。動き出せずにいる石田と西宮と対照的に、植野の石田を想うアクティブな行動と西宮に対するずばずばとした物言いは、視聴者に、おそらくは西宮にも、ひどく魅力的に映る。
観覧車や病院で植野が西宮にぶつける怒りは、自分が高校生の頃にはできるできない以前に思い至らないレベルにあり、性格的にも立場的にも、おそらく植野が作中の子どもで最も社会経験を積んでいたように思われる。
そんな植野も石田と西宮と再会し、彼女もまた何か変わろうと思い、それでも変われない葛藤を抱える。そんな植野は他ならぬ石田から「植野は今のままでいいと思うよ」という言葉(声)をもらう。
粗暴な言動なのにがさつな印象は受けない美人で、大胆でストレートで、強く変わらぬ想いをぶつける植野。彼女を愛おしく想うとともに、こう思う。『聲の形』は黒ロン映画だったのだ、と。
最後に、原作漫画には映画では削られた植野さん超かわいいエピソードやシーンが数多くあるので、映画『聲の形』を観て、「あれ? みんな障害とかいじめとか話してるけど、それより植野さんめちゃかわいすぎじゃね……」という感想を持った方がいれば、原作漫画も併せて読むことをおすすめする。
- 作者: 大今良時
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/01/17
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る