文・宮崎亮、写真・天田充佳、早坂元興、高橋雄大
2015年9月24日13時29分
■元プロ野球選手(44歳)
■打撃向上、3度日本一
ヤクルトで3度、セ・リーグ優勝を経験し、すべて日本一になることができました。中でも2001年の優勝は、一番印象に残っています。
初めて優勝を経験した1995年は新人で、補欠でした。97年は初めて規定打席に達し、ゴールデングラブ賞をとったシーズンですが、何とかレギュラーをつかもうと必死だった中での優勝です。
3度目の優勝はレギュラーとしてシーズンを迎え、年齢的にもチームのことを考える立場になってのことで、格別でした。途中でけがで抜けたり、楽に優勝できそうだと思ったら最後に苦しんだりしたのでなおさらです。あとは、強いヤクルトを作った野村克也さんがいなくなっても優勝できたうれしさがありました。
打率が上がりにくい2番打者で2割7分だったから、打撃でもまあまあ貢献できたかなと。課題だった打撃が良くなったのは若松勉監督が1年目の1999年に臨時コーチをされた中西太さんのおかげです。97年に2割8分2厘を打って、98年は2割5分8厘に下がり、このままじゃあ、ちょっと打つやつが入ってきたらレギュラーを取られると思っていたところでした。中西さんについて行こうと思い、今までやってきたものを全部ゼロに戻しました。
僕は力がなかったので、詰まるのを怖がって体の前で打ちたがっていた。でも、中西さんは引きつけて打たないと力強い打球は行かないよと。
前で打とうとすると体が開いたり、変化球のボール球を振ってしまったりする。それを防ぐため、一番力の入りにくいアウトローを力強く打てるようになろうと。色んな反復練習をやりましたね。アウトローが打てれば、そこから内側の球は全部同じスイングで打てると。そこから詰まるのを怖がらなくなり、球の見極めもよくなりました。1年かけて練習し、2000年に初めて3割を打てたんです。
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