「誰もが彼女に一目ぼれしていた」小野清子さん、チャスラフスカさんをしのぶ
- 5年前に再会した際、チャスラフスカさんから小野さんにプレゼントされたサイン入りの東京五輪当時の写真
- チャスラフスカさんとの思い出を語った小野清子さん
- 1964年、東京五輪の平均台の演技で観客を魅了し、金メダルを獲得したチャスラフスカさん
1964年の東京五輪の体操女子個人総合で金メダルに輝くなど、3大会で計11個のメダルを獲得し、華麗な演技から「五輪の名花」とたたえられたチェコのベラ・チャスラフスカさんが8月30日、膵臓(すいぞう)がんのため74歳で亡くなった。東京五輪の女子団体で日本代表として戦い、ソ連(当時)、チェコに次ぐ銅メダルを獲得した小野清子さん(80)は、日本のファンだけでなく選手全員にも愛されたチャスラフスカさんをしのぶと同時に「2020年の東京五輪を一緒に観戦したかった」と死を惜しんだ。
チャスラフスカさんと初めて国際大会で顔を合わせたのは、60年のローマ五輪。ただ、その時の記憶は定かではないという。「彼女はまだ18歳。チームの中で下の立場でしたし、私も他人に気が回らないくらい一生懸命で、余裕がなかったというのもあったでしょうね」。それから4年、東京で再会した際にはチャスラフスカさんは人気・実力ともにトップに上り詰めていた。
東京五輪ではチャスラフスカさんも含めた他国の選手に対して、「ライバル」という感覚は全くなかったという。「言葉はあまり通じませんでしたが、『お互い、自分の力を精いっぱい出せるように頑張ろうよ』という感じでした」。そして、それを身をもって示していたのがチャスラフスカさんだった。
「大会が始まる前は各国ごとに時間を区切られて練習をするんですが、その時に彼女は私たち日本チームの演技のまずい部分を見て、『ニエット』(ロシア語で『いいえ』の意味)と指摘してくれたんです」。それを聞いてチェコの選手の練習を参考にし、「あの動きだと点が取れるんだ」「あんな表現があるのか」などと学んだという。「普通は、自分の演技さえ最高にできれば、他人のことになんか気を配らないと思う。でも、彼女は違った。それでいて、自分の能力を鼻にかけるところもありませんでした」
選手の間では、親しみを込めて「チャス」と呼ばれていた。「あの時、大会に出ていた誰もが、彼女に“一目ぼれ”していたのではないでしょうか」。その魅力は、一般のファンにも伝わっていった。
「彼女はモデルのように細くなく、どちらかというと丸い体をしていたんだけれど、それが弾んで美しく見える。ふくよかさと柔軟さがあるのに、シャープな動きもできる。加えて、素晴らしい笑顔の持ち主ですから」。演技以外での控えめな態度も、日本人の気質に合っていたとみている。「それに、彼女が髪をアップにしていたのも、かわいらしかった。私たちが同じ髪形にすると頭が大きく見えて、バランスが悪くなる。見栄えが良くないから、やれなかった。羨ましかったですね」と笑った。
チャスラフスカさんは、68年のメキシコ市五輪の頃から、当時のチェコスロバキアの民主化運動に携わっていく。「彼女が台所に立っていた時、ふと窓を開けたら見張りの人が立っていたという話を聞いたことがありました」。国の“英雄”でありながら、社会主義政権下ではさまざまな圧力を受けたが、89年の「ビロード革命」以降は社会的地位を回復。その後、チェコ五輪委員会の会長などを務めたほか、日本とチェコの友好のためにも尽力した。
最後に会ったのは5年ほど前のこと。東京五輪時のメンバーと在日チェコ大使館に招待された。「お互い、すぐに顔は分かりましたよ。彼女が『オノサン』とか『イケダサン』(池田敬子氏)と、日本語で名前を呼んでくれて。英語ではないので、通訳を通じてもなかなか意思疎通が難しかったんですが、お互いの子供の話などをしました」。誰からも愛されるキャラクターは、当時と全く変わっていなかった。その時にプレゼントされた、サイン入りの東京五輪当時のお気に入りの写真は、今でも宝物だ。
笹川スポーツ財団の理事長として、現在も日本のスポーツ界に関わり続けている小野さんは、4年後にチャスラフスカさんとともに2020年の東京五輪を見ることを楽しみにしていた。「今は道具なども大きく進化しているし、技の難易度も上がっている。チャスとそれを見て『私たちの頃とは、ずいぶん変わったわね』と話しながら、会場で競技を観戦したかったのに…」
ただ、無念さをかみしめつつ、つぶやいた。「でも、海外の選手で、亡くなった後もこれだけ話題に上る人っていうのは、あまりいないですよね。それだけ、皆さんに愛されていたということなんでしょうし、同じ世代に競技をともにした自分としては、うれしくも思います」
◆ベラ・チャスラフスカ(Vera Caslavska)1942年5月3日、チェコスロバキア・プラハ生まれ。60年ローマで五輪初出場。64年東京、68年メキシコ市では個人総合で連覇するなど、3大会で団体、個人合わせて金7個、銀4個の計11個のメダルを獲得する。社会主義政権下で圧力を受けながら、89年の「ビロード革命」後に社会的地位を回復。チェコ・オリンピック委員会会長などを務めたほか、2010年には日本とチェコの友好促進に貢献したとして旭日中綬章を受章。16年8月30日、膵臓がんのため74歳で死去。
◆小野 清子(おの・きよこ)1936年2月4日、宮城県岩沼市生まれ。80歳。秋田県で育ち中学生の時に器械体操を始める。58年に東京教育大(現在の筑波大)を卒業。60年ローマ五輪に女子体操で初出場。64年の東京五輪では団体銅メダル。86年の参院選に自民党から出馬し初当選。90年に環境政務次官、2003年には小泉政権の下で国家公安委員長、内閣府特命担当大臣に就任。07年に政界を引退。08年、旭日大綬章受章。夫はメルボルン、ローマ、東京五輪の男子体操金メダリストの小野喬さん。