これどこかで語ったことがあるような?
円楽師匠の渋い落語を聴いていて思い出す。
落語というのは意外とサゲが弱い。
なかなかに破天荒な、意味不明のサゲも、場合によっては全くないこともある。
「落語=サゲ」というイメージがあるが、そうではない。
落語とはストーリーを語るものであり、「ボケ=ツッコミ」という現代的な形を期待すると、肩透かしを食う。
瞬発的な笑いでなく、じっくり、じっくり聴くのが落語だ。
僕もそこまで詳しくないのだが、一時期結構勉強した。
かつて、このサゲの方法を徹底的に分析した噺家がいる。
桂枝雀(二代目)だ。
彼はありとあらゆる演目を分析し、それを見事に分類した。
それを総括して、「緊張の緩和」と称した。
落語とは緊張状態を緩和するものだ。彼の願いもちょっと入ってたと思うが、そう分析した。
お釈迦様の悟りが「大緩和」、僕ら平民はお釈迦様のようになれないから、笑いの中で「緩和」を小刻みに達成する。そういう主張だ。
しかし、この「緊張の緩和」を、これまた見事に変奏した人がいる。
それが松本人志だ。
彼は故意的にかどうか解らないが、この「緊張の緩和」を「緊張と緩和」と、言い換えた。
「の」と「と」では微々たる差かも知れないが、これが大きい。
ベクトルで言うと全然違う。
「の」は不可逆的だが、「と」は可逆的である。
だから「緩和から緊張へ」と、ベクトルが逆に向く時があるということだ。
それが笑いになるのか?と疑問になるところだが、しかし彼はそれをやってのけた。
松本人志のかつてのコントは、まさに「緩和から緊張」への意志で作られているものが多い。
古い作品だが『ヴィジュアルバム』や、彼の監督した映画作品には、それが色濃く出ている。
「緊張するから笑ってしまう」、最近ずっと大晦日にやっている「笑ってはいけない」など、まさにそうだ。
最近はだんだんとトークやMCが主体となっているようだが、考え方としては一緒だ。
枝雀師匠と松ちゃん、どちらが正しいという訳ではない。両者ともお笑いを進化させた。
「緊張の緩和」「緊張と緩和」のメソッドは、お笑いだけじゃなくて、ありとあらゆる表現に役立つと思う。
円楽師匠の渋い落語を聴いていて思い出す。
落語というのは意外とサゲが弱い。
なかなかに破天荒な、意味不明のサゲも、場合によっては全くないこともある。
「落語=サゲ」というイメージがあるが、そうではない。
落語とはストーリーを語るものであり、「ボケ=ツッコミ」という現代的な形を期待すると、肩透かしを食う。
瞬発的な笑いでなく、じっくり、じっくり聴くのが落語だ。
僕もそこまで詳しくないのだが、一時期結構勉強した。
かつて、このサゲの方法を徹底的に分析した噺家がいる。
桂枝雀(二代目)だ。
彼はありとあらゆる演目を分析し、それを見事に分類した。
それを総括して、「緊張の緩和」と称した。
落語とは緊張状態を緩和するものだ。彼の願いもちょっと入ってたと思うが、そう分析した。
お釈迦様の悟りが「大緩和」、僕ら平民はお釈迦様のようになれないから、笑いの中で「緩和」を小刻みに達成する。そういう主張だ。
しかし、この「緊張の緩和」を、これまた見事に変奏した人がいる。
それが松本人志だ。
彼は故意的にかどうか解らないが、この「緊張の緩和」を「緊張と緩和」と、言い換えた。
「の」と「と」では微々たる差かも知れないが、これが大きい。
ベクトルで言うと全然違う。
「の」は不可逆的だが、「と」は可逆的である。
だから「緩和から緊張へ」と、ベクトルが逆に向く時があるということだ。
それが笑いになるのか?と疑問になるところだが、しかし彼はそれをやってのけた。
松本人志のかつてのコントは、まさに「緩和から緊張」への意志で作られているものが多い。
古い作品だが『ヴィジュアルバム』や、彼の監督した映画作品には、それが色濃く出ている。
「緊張するから笑ってしまう」、最近ずっと大晦日にやっている「笑ってはいけない」など、まさにそうだ。
最近はだんだんとトークやMCが主体となっているようだが、考え方としては一緒だ。
枝雀師匠と松ちゃん、どちらが正しいという訳ではない。両者ともお笑いを進化させた。
「緊張の緩和」「緊張と緩和」のメソッドは、お笑いだけじゃなくて、ありとあらゆる表現に役立つと思う。