「俺は世界をこんなに恨んでいるのに、世界はどうして俺を愛してくれないの??」
という、無茶苦茶とも言える、倒錯的な欲求がある。
それが「オタク」といわれる病の根源かも知れない。


他人事でない、僕の心の中にも確かにある。
僕の友人達にもあった。


オタク文化における「承認欲求」というのは、なかなかに難儀だ。
今の世は、その欲求に対してとにかく絶えず癒して癒して、癒し続けなければならない。
ちょっとでも刺激したら、ネットが牙を剝く。


では昔はどうだったのか?

僕は、昔はそれを「近代的な自我」で抑えていた、と考える。


アニメがそもそも護られてなかった時代だ。
そして僕らの承認欲求は、業界に届かなかった。
届ける手段がなかった。

だからオタク達は、自分で自分を護るしかなかった。
責任を自分で抱えるしかなかった。

「原罪」を、自分でちゃんと背負っていたのだ。


これが「オタクという『病』」で書いたこと。
今の「オタク」とは、違う。


だからみんな、内省的だった。
自分を一生懸命省みた。
そしてその後悔や反省を、なんとか自分の「理性」と「意志」の力で統御しようと、必死だった。

友人と酒を飲む度にそういう話になったものだ。
みんな酔っぱらうと、自分の「原罪」について愚痴り出す。
自分の遺伝子は残したくない、自分のコピーは必要ない、自分の代で終わりにするんだ、とまで言った友人がいる。

でも彼は今、ちゃんと家庭を築いている。


今はネットでぶわーっと吐き散らして、最悪は業界を脅迫する。
業界を追い詰めて追い詰めて、お前らは自分達に尽くして当たり前だ!と強弁する。


でもね、それがアニメを愛する者の態度ではないよ、と、僕らちょっとオヤジな世代のオタク達は、思っている。