--- 石澤兵吾 『魚釣島外二島巡視取調概略』 ---


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魚釣島外二島巡視取調概略
魚釣島久場島及久米赤島実地視察の御内命を奉し、去十月廿二日、本県雇汽船出雲丸に乗組宮古石垣入表諸嶋を経て、本月一日恙着同行の十等属久留声八、警部補神尾直敏、御用掛藤田干次、巡査伊東祐一、同柳田弥一郎と共に帰港せり依て該視察に係る取調概略左に開陳す

魚釣嶋
十月廿九日午後第四時入表島船浮港抜錨針を西北に取り近航し、翌三十日午前四時過東雲棚引て旭未だ出でず、船室は尚黒白を翔せされとも濤波は残月の為めに明光を放つの際本船の前面数海里の場に於て、屹焉として聳たるものあり。是則ち魚釣島なり。同八時端艇に乗し其西岸に上陸して周囲及内部を踏査せんと欲すれとも、頗る峻阪なるを以て容易に登る事能はす。 沿岸は又巨巌大石樅横にあり、且つ油々潮水の嵩崖に注ぎ入るありて歩行自由ならす。故に漸く其南西の海濱を跋渉して全島を相するに此嶋嶼の周囲は恐く三里を超へざるべし。而して内部は巨大の岩石より成立潟而「コバ」樹、阿旦、榕、籐等大東島の如く沖繩本嶋と同種の雑草木を以て蔽し間々渓間より清水流るとも其量多からず。平原なきを以て耕地に乏し、濱海水族に富むを認むれども前顕の地勢なるか故に目下農漁の事業を営むに便ならす。然れども其土石を察するに稍や入表群島中内離島の組織に類して只石層の大なるを覚ふるのみ依。是考之は或は煤炭又鉄鉱を包合せしものにあらざる。乎若し果して之あるに於ては誠に貴重の島嶼と言はざるべからず。御参考として携帯せし二三の石類に説明を附し左に列記す

第一是は赤砂状の土中に著しき層を成したるもの也
第二是は渣滓状の石層中所々に粘着せるものなり
第三是は沙より変性せし巨大の石層中に粘着せるものなり
第四是は石花石なり此類最も海濱に多し各種あり就中色鮮明なるを撰びしなり
第五是は軽石なれば無論火山性のものとす。然れども此は他より漂着せしものとト察せられ数甚だ僅々なればなり
第六是は船釘なり何時か船舶の漂着して木材は既に朽ち釘のみ残りたるものと見へ、今は酸化して海濱の岩石に凝結す。其数甚だ多し亦怪むべし

該嶋は本邦と清國との間に散在せるを以て、所謂日本支那海の航路なり。故に今も各種の漂流物あり。則ち小官等の目撃せし物は、或は琉球船と覚しき船板帆檣、或は竹木、或は海綿漁具[竹にて製したる浮様のものを云う]等是なり就中最も目新しく感じたるは長貳間半許巾四尺許の傅馬船の漂着せしものなり形甚だ奇にして曾て、是聞せさるものなれば之を出雲九乗組人に問うに、日く支那の通船なりと答へり。
島地素より人蹟無し樹本は前陳の如く繁茂なれども大木は更になし。野禽には鴉、鷹、[白露の候なれば本島と同じく渡りたるものと見ふ]鶯、鴨、目白、鳩等にして海禽の最も多きは信天翁とす。此鳥魚釣嶋の西南濱少く白沙を吹寄せたる渓間に至るの間、地色を見さる迄に群集す實に数萬を以て算すへく。而して皆沙或は草葉を果めて巣となし。雌は卵を抱き、雄は之を保護し又養ふが如し。此鳥和訓アホウドリ又トウクロウ又バカドリ等の名あり。素より無人嶋に棲息せるを以て曾て人を恐れず小官等共に語て、曰く人を恐れされば宜く生捕となすべしと。 各先を争ふて進み其頸を握る太く容易なり。或は両手に攫し或は翅を結て足を傅するあり。或は右手に三羽左手に二羽を攫て、以て揚し得色或は卵を拾ふ等各自思々に生捕或は撲殺射殺拾卵等我を忘れて為せとも、更に飛去する事なければ暫時数十羽数百卵を得たり。則ち携帯し以て高覧に供せしもの是なり。此鳥海禽中最も大なるものにして量大凡拾斤に内外す。嗅気あれども肉は食料に適すと云ふ。今書に就き調ふるに Diomedea 属にして英語の albatrofs と称するものなるべし。蝙蝠の大なる者は大東島等に均しく棲息すと想像すれども獣類は別に居らさるべし

此島は銚に大城永保に就き取調候実地踏査の上、猶英國出版の曰本台湾間の海圖に照らすに彼の Hoa Pin su なる者に相当る。而して入表群島中外離島西端より八十三海里とす。故に台湾の東北端を去る大几百海里餘、東洲島を東に去る大凡貳百十四海里餘なるべし。其Sia u su を以て久米赤島に当てたるは全く誤にて久米赤島は Raleigh Rock (ラレーロック) に当り一礁なるのみ Pinnacle を以て久場島に当たるも、亦誤にて「ピンナツクル」なる語は頂と云う。義にして魚釣群嶋中六礁の最も屹立せしを言うものなり。依て彼是其誤を正さんに魚釣島は Hoa Pin su、久場嶋は Sia u su 久米赤島は Raleigh Rock なるべし。余は石垣島より雞壱番を携帯して魚釣嶋に放ち、以て将来の繁殖否を試む。復他日の證を残さんと欲するのみ

久場嶋附久米赤島
同日午后二時魚釣嶋を謝し、久場島に向て近航暫くして其沿岸に接す。本島は魚釣嶋の東北十六海里を隔てあり。先づ上陸踏査せんと欲すれども、惜むらくは日は西山に落んとし時恰も東北の風を起し倍す強大ならんとす。案外港湾はなし。風を避くる事能はす随て端艇を下す事を得す。凡遺憾傍観に止む依て先其形状を言はんに山は魚釣嶋より卑けれども同じく巨巌大石より成立たる嶋にして禽類・樹木も異なる事なしと認めらるるなり。然れども少々小なるを以て周囲恐らくニ里に満たさるへし。是より帰路久米赤島を見ん事を船長に約し進航せしに、風は愈よ強きを加へ、夜は暗黒にして終に瞭然見る事能はさりしては甚だ遣憾とす。然れども久米赤嶋は到底洋中の一礁に過ぎされば農漁業を営み、或は将来植民等を為すの念はなかるべし。幸に自今後先島航海の途次穏波の節、実地の目撃を期するにある耳

以上我沖繩近海にして古来其在を見認て、未だ航海を為さず他日植民すべきや否の考案を貯へ今日に及ひし島嶼は先般踏査を了せし。南北大東嶋と共に五とす。故に遠略の御計画は先づ右にて一段落に惟たりと。雖ども海軍水路局第十七号海圖に據れば宮古嶋の南方大几廿海里を隔ててイキマ島と称し、長さ几五海里巾二海濱里位にして八重山の小演嶋に近きものを載せて、曰く「イビ」氏は此島の探索にカを尽せしか、遂に見得さりしと云ふとあり。又英国出版の日本台湾間の海圖にも Ikima (Daubtful) と記し以て其有無疑の間に置けり。而して今回は重山島に到り土人の言ふ所に據れば、往昔波照間島の一村民挙て其南方の一島嶼に移転せりと。其有無判然せされども今に之を南波照間島と称して其子孫の連綿たる事を信じて疑はずと云ふ。以上のニ島は他日御探求相成可然申奉存候

右今回御内命二捷り魚釣島外二島実地踏査ノ概略並二見取略圖相添謹テ奉復命候頓首再拝
明治十八年十一月四日                                        
沖繩県五等属 石澤 兵吾
沖繩県令西村捨三属代理
沖繩県大書記官 森 長義 殿

別冊『魚釣、久場、久米赤島回航報告書』 進達仕候也  日本郵船会社 出雲丸船長 林 鶴松
明治十八年十一月二日
沖繩県大書記官 森 長義 殿



榕(ヨウ、ユウ)
檣(ショウ、ゾウ、ほばしら)
頸(ケイ、キョウ、くび)
翅(シ、つばさ、はね)
攫(カク、キャク、つか・む、さら・う)
蝙(ヘン、こうもり)
蝠(フク)
餘(ヨ、あま・る、あま・す)
惟(イ、ユイ、おも・う、こ・れ)
證(ショウ、セイ、あかし)



<解説>
沖縄県令は9月に『第315号 久米赤島外二島取調ノ儀ニ付上申』を内務卿へ提出したが、沖縄県令は翌10月に日本郵船の出雲丸で尖閣諸島へ派遣したのが分かる。メンバーは石澤兵吾に加えて、久留声八(県十等属)、神尾直敏(警部補)、藤田干次(御用掛)、伊東祐一(巡査)、柳田弥一郎(巡査)である。そして港湾の形状、土地物産の開拓見込みなどの有無を調査させ報告させている。この報告書には2つあり、一つは上記石澤兵吾の『魚釣島外二島巡視取調概略』と、もう一つは出雲丸船長の林鶴松が提出した別冊の『魚釣、久場、久米赤嶋回航報告書』である。







----- 林鶴松 『魚釣、久場、久米赤嶋回航報告書』 -----


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魚釣、久場、久米赤嶋回航報告書
右諸嶋は屢々外船も往航し、其の景状は諸海路誌に詳悉せるを以て今日特に報告を要するものなし。請ふ左に海路誌の記する處の要旨と聊か実地験歴せしところを挙けし 本船は初め魚釣島の西岸に航着し、其の沿岸三四「ケーブル」の地に屡々測鉛を試みたるに海底極めて深く、且つ其の浅深一ならす四十乃至五十尋にして更に投錨す可か地あるを見す。魚釣群島は一島六礁から成り、其の最大なるものは魚釣島にして六礁は其の西岸凡そ五六里内に併列し礁脈の水面下に運絡するが如く。六礁の大なるものを「ピンナツクル」礁と称し、其の形状絶奇にして円錐形を為し、空中に突出せり。右「ピンナツクル」と本島間の海峡は、深さ十二三尋にして自在に通航するを得、唯潮流の極めて速かなるを以て、恐くは帆船の能く通過す可き處に非らす

魚釣島の西北西岸は峻岸屹立し、其高さ干百八十尺にして漸く其の東岸に傾下し遠く之を望めば、水面上に直角三角形を為せり。本島は極めて清水に富み、其の東岸清流の横流するを認めたり。海路路誌に據れば其の沿岸に川魚の住するを見たりと、本島は那覇河ロ三重城を距る、西七度南二百三十海里に在り

久場島は魚釣嶋の北東十六海里に在り、海中に屹立して沿岸皆な六十尺に内外し、其の絶頂は六百尺なり。本島も魚釣島に同じく更に船舶を寄泊すへきの地なし。 右二嶋は共に皆な石灰石に成り、暖地普通樹草の石間に茂生するも嘗て有用の材渠なく其の魚釣島の各礁の如きは僅かに海辨の繁茂するのみ、更に樹木あるを見す。特に海島(鳥)の群集するは各礁島極めて夥しく魚釣島の如きその清流に富むも、其の地味恐くは人住に適するもに非らず。要するに右諸島は天の海島(鳥)に其の住所を賦與したるものと謂ふも可なり。 本船は久場島より慶良間峡に直航せしを以て、途上久米赤島を認めんと欲し、之に接航せしも適す。夜半之を航過し當時殊に曇天暗黒にして之を実験するを得さりしは誠に遺憾なり。海路誌に據れば本島は一岩礁に過ぎずして其の位地、東径百廿四度卅四分、北緯廿五度五十五分、即ち那覇三重城を距る両六度南百七十海里にして四百屹岸屹立して、其の高さ二百七十尺遠く之を望めば日本形船の装帆せしに異ならすと、本嶋は外船も屡々之を認めたるも、其の位地を報する。各々異なり蓋し、其の黒潮の中流に孤立せるを以て各船皆な其の推渕を異にしたるや必せり



嘗(ショウ、ジョウ、な・める、かつ・て)
與(ヨ、あた・える、くみ・する)



<解説>
出雲丸船長・林鶴松が著した『魚釣、久場、久米赤嶋回航報告書』は、石澤兵吾の『魚釣島外二嶋巡視取調概略』と共に沖縄の東京出先機関の沖縄県大書記官・森長義へ報告された。そのことは『地学雑誌』にも掲載されている。