ビエンナーレやトリエンナーレとしばしば呼ばれる数年ごとのアートフェスティバルが、地方や地方都市を舞台として、さかんになっている。
今秋にも、あいちトリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭や山形ビエンナーレ、岡山芸術交流、さいたまトリエンナーレなど数多くの開催が予定されている。
絵画や写真が美術館で展示されるだけではなく、野外インスタレーションや住民や観客の参加を求めるパフォーマンス的アートが国内外から地方や地方都市に観客を引き寄せているのである。
こうしたアートフェスティバルに対する筆者の立場をあらかじめ示しておけば、基本的には喜ばしいことと思う。
少子高齢化のなかで移動が減少し、経済の沈滞がみられ、モールを除けば新たな出店もまれな地方では、これまで以上にあたらしい出来事が少ない。そのなかでアートという「何でもあり」の余白をもった活動や表現は、地方に外部につながる窓を開くことで大きな意味をもつと考えられるのである。
ただし現状に完全に満足かといえば、腑に落ちないのは、①アートフェスティバルが国や自治体の支援を受け、多くの税金が投入されていること、さらにより本質的には、②そこで本当に「何でもあり」な活動が実現されているかという問題である。
税金の効率的使用を議論したいわけではない。アートが国や地域によって支えられ、それがそのあり方を変えられてしまうという事態のほうがむしろ気にかかる。
こうした問題は利害関係者ごとに異なる姿をみせるために、その是非は一筋縄では判断しがたい。それを少しでも解きほぐしていくために、アートフェスティバルが現在のように林立している経緯と歴史をまずたどっていこう。
その林立の源流を探れば、直接的には80年代なかば以降の企業メセナの拡大にたどり着く。
1987年のセゾン文化財団や、1989年のアサヒビール芸術文化財団設立を代表として、バブルのなか膨大な富を抱えた企業は、ひとつにはやっかみを回避するために、ひとつには広告戦略として、音楽を中心に芸術に支援を始め、それが1990年の「社団法人企業メセナ協議会」の発足につながった。
メセナ活動は地方企業にも飛び火したが、ただしバブル崩壊によって、一時停滞する。企業のメセナ活動費総額は、1991年度の253億円から1994年度の159億円まで急落し、2000年代なかばまで従来の規模に回復しないのである(「メセナ活動実態調査」)。
それを補い、芸術支援の新たなプレイヤーとして力を振い始めたのが、地方自治体だった。とくに平成の大合併に伴い拡大した合併市町村が、アイデンティティを補い、また地方経済の沈滞や公共投資の減少に対処するためにアートに期待を寄せたのである。
この意味でアートフェスティバルが、同時代に盛り上がりを見せる官製の「まちづくり」や「地域おこし」の一環としてあったことは否定しがたい。
道路や橋や学校などに対する高額のインフラ的投資が実質的に難しくなるなかで、より安上がりな投資として、アートによって地域のイメージをブランド化することが狙われる。
それがよくみてとれるのが、2000年に新潟県十日町周辺地域で始められた「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」である。
十日町市、津南町、川西町、松代町、松之山町、中里村の合併が模索されるなかで、地域のアイデンティをまとめる文化事業が企画され、総合ディレクターを北川フラムとして、公的事業費3億1千万円が投下される(「第1回展(平成12年)総括報告書))。
田中角栄の時代にさかんになされたインフラ的投資では立ちいかなくなった地域に、イメージにかかわるより安上がりな投資が実施されたのである。
そうして始まったトリエンナーレは、第一回に16万3千人、2003年の第二回は20万5千人、さらに第三回には34万9千人を集めるなどの期待した以上の成果を収める。加えて2001年に始まり35万人を集めた「横浜トリエンナーレ」を成功事例として後追いすることで、日本各地でアートフェスティバルが開かれることになった。
この意味でアートフェスティバルには、バブルの崩壊後、衰退していく地方によって都市間競争を勝ち抜く手段として利用されてきた側面が色濃い。
地域への利益誘導や観光客の増加を狙って、比較的格安で、また政治家のイメージアップにも役立つアートフェスティバルが今やバブル的に乱立しているのである。
そのことは、アートやアーティストにとってたしかに悪いことばかりではない。これまで一部の人にしか注目されていなかったコンテンポラリーなアートに、世間の関心が寄せられ、資金も回る。
ただしその一方で、国家や地方自治体の後押しが、アートのあり方を静かに変えていることが気にかかる。アートフェスティバルでは、「地域おこし」があらかじめ目的として割り当てられており、個々のアートもその枠をなかなか出ない。
問題は、地方や地方都市で開催されるアートフェスティバルでは、そのあからさまな政治的目的を議論し、批判することがめったに許されないことである。「地域おこし」のために人や金が動員されるなかで、その政治目的を懐疑し、非難することは、「空気が読めない」行為としてしばしば黙殺される。
アーティストにとって、より世知辛いことに、グローバル経済の膨張は、アーティストを世界中から取捨選択可能な「非正規労働者」に変えてしまった。そのため当該アートフェスティバルに批判的なアーティストはそもそも選ばれないか、少なくとも次回から排除される。
そのはてに日本全国で、代わり映えのしない、大政翼賛的なアートフェスティバルが、くりかえされている。その背景には、アートやアーティストを「消費」可能な存在に変え、萎縮させる、「地域おこし」という名のリアルポリティックスが潜んでいるのである。