「内なる異文化」を見据える民俗学者に、PTAはどのように映ったのか。
今回は、「入会」をめぐるセクションから。
ここでは、強制的な入会の問題と、PTAがとことん「従属的」な存在であることが述べられる。
大々的に引用しつつ、ぼくの実体験・取材体験に基づいたコメントをつけていく。
まずは、岩竹氏のお子さんが入学し、PTA会員になった際の強烈な違和感から。
新入生の親に配られる『P.T.A.規約』を読んでも、活動の具体的内容はわからない。PTA会長の名で書かれた「PTA入会について」が加入申込書と共に渡される。そこには、PTAは「民主的に組織された団体」であり、「子どもが入学したら自動的に会員になるのではなく、本人の意思により入会していただく形をとっておりますが、PTAは大切な役割を担っていますので、全員入会される事が望ましい」ことが書かれている。
岩竹氏が住んでいたのは杉並区。
杉並区は、全区の区立小中学校のほとんどで、入退会が自由であると述べている希有な地域。
しかし、この小学校PTAでは、せっかく任意性を伝えても、活動内容を伝えなかった模様だ。もったいない。
とはいえ、PTAの活動はあまりに多岐にわたり、「ひと言で言えない」のが悩みなのだが。
この場合、全員の入会を「望ましい」と感じているのは、PTA会長であり、加入前の非会員に、説明もなく「加入が望ましい」とするのは、やはり乱暴であろう。
とはいえ、ほとんどのPTAでは、入会の任意性は明かされない。
自動的に入会するのが当たり前になっているから、会の説明についても、テキトーに済ましてしまえる。
だから、ここだけ読むと、むしろ、岩竹氏のPTAは「ずいぶんまし」にも感じる。
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ちなみに岩竹氏は、入会確認書の「入らない」に○をして提出した。
その直後──
副会長と名乗る女性から電話があり、冷ややかな口調で「全校で加入しないとなど言っているのはお宅だけ」で、「加入しないのなら、お子さんはPTA主催の催しに参加できない」と告げられた。参加できないというのは参加させないということであり、参加させないというのはのけものにするということである。それは、いじめの手法の一つであり、脅しでもある。
加入に関しては、選択肢があるかのような申込書を用意しながら、実際には選択はできない。また、入会しないと言っているのは親であるにもかかわらず、不利益は子どもに与えられる。いわば親の「身勝手」によって、子どもが困らされるという連帯責任的手法をとる。学校に「子どもを人質に取られている」という発言は、その後何度か聞いたが、これもそのケースであるだろう。
ここで、重要だと感じるのは、まず、「参加できないというのは参加させないということであり、参加させないというのはのけものにするということである。それは、いじめの手法の一つであり、脅しでもある」という認識だ。
そうだよな……あれを子どもがやったら、我々は「いじめはいかん」と言わなきゃならないところ。
しかしながら、実は、入会時に「入らない」を選択した保護者が、まったく同じ文言で入会を事実上強要されたケースを同じ杉並区で聞いており、「任意加入を周知しても、全員が入るためのノウハウ」(いじめ手法を駆使したノウハウ?)を杉並区のPTAが発展させてきたのでは?という疑念にとらわれる。
「入会しないと言っているのは親であるにもかかわらず、不利益は子どもに与えられる」ことの不当性は、当たり前だが「入会しない親」ではなく、そのような仕打ちをする団体側にある。あまり当たり前のことなのだが、それがPTAでは見えにくいことを再確認。
岩竹氏はのちに、この時、説得した副会長に関してこのように書く(「入会」のセクションではなく、もっと後の方だが、ここで紹介するのが相応しいと感じる)。
後になって聞いた話では、その副会長は態度が甘いとして硬派の役員から過去につるしあげを受け、精神性の下痢が止まらなくなった経緯があったという。
つまり、抑圧されている側が、抑圧する側にまわるという構造がある……(中略)……その元副会長と2003年になって直接会う機会があった。会ってみるとその人は、意外なことに私の考えに理解を示し、PTAのあり方に疑問を持つ悩める母親の一人なのだった。
抑圧されている側が、抑圧する側にまわるという構造!
この分析の適切さときたら!
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結果的に入会した岩竹氏は、実際の活動を目の当たりにする中で、当初分らなかったPTA活動の内容を理解していく。
その中で、PTAが非常に従属的な立場に置かれていることを見いだす。
地域組織に従属するPTA活動のあり方は、意図的なものである。たとえば、東京都小学校PTA協議会(都小P)のホームページは、「主催する事業はなるべく減らして、各地区の行事・事業の後援をさせていただこうと思っています」という考えを発信している。そこには、「滅私奉公」的志向が感じられ、PTAが本来目的としたはずのものとの乖離はあまりにも大きい。実は、主体性を持たず後援を主眼とする方向性は、PTAの歴史より長い。都小Pの発信は、社会教育の分野で1930年代を通じて強い影響力を持ち、連婦の系統と組織を体系化した片岡重助[1886-1962]の主張を想起させる。片岡は、「今日までの婦人会は単に事業のみに走ってその根底たる婦人の奉仕力を高めると言うことに無関心であった」が、これからは奉仕力を高めるべきだと説くのである。
たしかに、多くのPTAでは主体的な事業が少なく、従属的なのだ。
その年の会員が自発的に始めることなど皆無だし、「前例踏襲」を含めても、他団体に従属しない/依存しない事業は少ない。
家庭教育学級のように、本来のPTA活動のキモともいうべきものも、自治体から予算がつき、委託事業となることで、逆に単なる義務と化すことがある。
その背景に戦前、文部省が組織した連婦(連合婦人会)の系譜をみるのは岩竹氏の発見であり、この論文の目玉の一つなのだが、ここではこの程度で。
なお、都小Pが「主催する事業はなるべく減らして、各地区の行事・事業の後援をさせていただこうと思っています」とするのは、岩竹氏の「読み」がやや滑っている感じがする(原文を確認していないので、確信は持てないが)。
ここで言う各地区とは、区・市単位のP連をさしていると思われ、むしろ、個々のP連が、都小Pに従属的な立場で行う事業をすくなくしようとする意図とも取れる。
また目下の東京都の教育委員会の施策の中で、PTAが主体的にかかわりうる余白があまりに少なく、緊急避難的に「主催する事業はなるべく減らし」となってしまったのかも、という邪推もする。
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ともあれ、岩竹氏はとことん「従属的である」PTAについて、変われない理由ととしても、この従属性を挙げている。
2001年度のアンケートの回答を一つ引用してみよう。「私が学校に望んでいるのは、『安心して静かに学べる場』です。それすら危ぶまれているのに、町会とのつきあいのもちつきなどなくてもけっこうです。町ぐるみ運動会、バスハイクも歩こう会もラジオ体操も講演会もいりません。しっかりとした授業があり年1-2回の遠足があり、休み時間に子供達が仲良く遊べればいいのではないでしょうか。なぜそれ以上母親が時間をけずってPTAの仕事をしなければならないのかわかりません」。それは、会員同士の会話でもしばしば耳にする意見である。
会員の意見がどうであろうとPTAには手伝いをやめる権利、或いは手伝いの内容を変える権利はない。2002年度のPTA広報誌には、育成会行事のスリム化を図りたいが、PTAが育成委員会に付随した立場であることから、大きな改革はむずかしいことが書かれている。また、会長の話では、教育委員会が示してくる年間計画は、区内の小学校の計画の一端としてのものであり、A小学校だけ変える、或いは減らすことはできない、それは育成会行事に限らないという。
毎年事業内容についてのアンケートがあり、それを公開するというのは、ぼくは実はうらやましい。
ぼくが知っているPTAではそれを怖がってやらない。また、すったもんだの末にアンケートをとった上で、「いいとこ」しか公開しないこともある。
岩竹氏が引用している保護者の声は、非常に示唆に富むと思う。
学校での子ども生活について、「しっかりとした授業があり年1-2回の遠足があり、休み時間に子供達が仲良く遊べればいい」というのは、ミニマム(に近い)要望だと思うのだが、「しっかりとした授業」がままならないケースは、いつの時代にもあり、そんな時に、それをなんとかしようとする保護者側からの働きかけよりも、「町ぐるみ運動会」や「バスハイク」「歩こう会」や「ラジオ体操」や「講演会」に、労力を吸い取られるのは本末転倒だろう。
そして、「会員の意見がどうであろうとPTAには手伝いをやめる権利、或いは手伝いの内容を変える権利はない」というのは本当にそうだ。
これについては、本当にひどい実体験(身近な者の体験)を事例として持っており、身につまされる。
(つづく)