「テトリスをつくった男」の知られざる物語

誰もが一度はプレイしたことがあるであろう「テトリス」。この伝説的ゲームはどのようにして生まれ、なぜ世界中の人々を魅了するまで広まったのか? その裏には、テトリスを生んだ科学者の情熱と、彼のゲームを愛した人々の存在があった。

TEXT BY DAN ACKERMAN

WIRED (US)

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テトリスを生んだコンピューター科学者、アレクセイ・パジトノフ。PHOTO: NOTTINGHAMGAMECITY (CC BY-NC 2.0)

9月6日に出版された書籍『The Tetris Effect』のなかで、テクノロジージャーナリスト界のヴェテラン、ダン・アッカーマンは、ヴィデオゲーム史で最も興味深い物語を伝えている。世界で最も人気があり、不朽かつ完璧なヴィデオゲーム「テトリス」が、どのように“鉄のカーテン”を乗り越えていったのかを。

多くのライヴァルがその権利を巡り熾烈な争いを繰り広げたが、テトリスは最終的に、任天堂ゲームボーイのキラーアプリとなった。本書では、テトリスの創造者であるロシアのコンピューター科学者アレクセイ・パジトノフが、世界を変革したコンピューターゲームをどのように思いついたのかを知ることができる。

子どもの世界

当時ソヴィエトでつくられていたコンピューター「Electronika 60」や自らが研究所で使用していたようなマシンでのゲームエクスペリエンスを再構築しようと考えていたパジトノフは、モスクワで最も有名なオモチャ屋「Children’s World」をぶらぶらしているときにインスピレーションを得た。

商品棚の中を探しているとき、ある有名なものが彼の目をひきつけた。ペントミノのパズルピースセットである。彼はそのセットを手に取り、すぐに研究所のデスクに戻った。パジトノフは何時間も費やしてピースを合わせ、単純な幾何学模様と、彼が研究していたコンピュータープラットフォームを接続しようと試みた。彼は、机上にある四角いパズルのアイデアを、コンピューター画面に置き換える方法があるはずだと確信していた。パックマンなどのアーケードゲームに使用されていた、(当時の)最高のグラフィック技術を使用しなくとも、だ。

最初の結果は、野暮ったいものに終わった。しかし、テトリスとなるものの基本的コンセプトはかたちづくられていた。問題は、パジトノフが使っていたハードウェアが、世界のアマチュアゲームプログラマーが使っているものより10年近くも古いものだったということだ。ペントミノパズルを(コンピューター上で)再現するには視覚的なシズルが必要であったが、Electronica 60には、初歩的なコンピューターグラフィックスを描く能力さえ備わっていなかった。

彼が最初に行った決して完璧とはいえない解決策は、唯一使えた「ペイントブラシ」によって図形をつくることだった。それぞれの図形はカギカッコのような形となり、美しさこそなかったが、少なくとも動くことは動いた。

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『The Tetris Effect』。IMAGE COURTESY OF PUBLICAFFAIRS

何かが足りない

6日間で制作されたこの初期ヴァージョンは、「遺伝子工学」(Genetic Engineering)と名づけられた。5つの正方形から構成されていたペントミノの図形から、より扱いやすいよう正方形の数は4つに減らされ、彼が「テトロミノス」と呼んだ7つの基本形がつくられた。

彼が制作した初期ヴァージョンは、ペントミノの正確な再現だった。プレイヤーは、ただただスクリーン上でテトロミノをすべてがはまるように動かすというものだ。空間操作パズルゲームの最初の試みとしては大きな進化だったが、パジトノフ自身でさえ、2〜3回最後まで遊んでみると、このゲームがどう考えてもぱっとしないことに気づいた。そこには何かが足りない、と。

紙やプラスチック、木のパズルなら、時間制限なく新たな動きや戦略を考えてプレイすることができる。だが、コンピューターパズルは違う。コンピュータースクリーンとブラウン管はプレイヤーに相互作用を求め、そこではより巧みな操作が必要とされる。コンピューター上でプレイするパズルは単なるゲームを超える必要があり、そのゲームはタイミング、危険、アクションに対して絶え間なくボタンを操作するものでなければならなかった。

そしてブロックは消えた

パジトノフのような専門プログラマーにとって、ゲームを制作する実際のメカニクスは簡単だった。しかし、正方形の箱に単に図形を落としていくというアイデアは、優れたゲームに必要な中毒性を欠いていた。初期のアイデアでは、箱の中に何個の図形を入れることができたかでスコアを付けており、最善のソリューションを導き出すにはたった数分しかかからなかった。いったん成功してしまえば、もう一度プレイしようという気にはならなかったのだ。

パジトノフは、時間をかけてプログラミングの課題に取り組み続けた。そしてそのあとの数週間で、ゲームの要素をそぎ落としていった。厳しく詰められた必要最低限のデザインは、突破口となるアイデアに結びついた──コンピューター画面全体を必要としなかったらどうだろう?と。モニターが正方形であるからといって、そこに映し出されるものがすべて正方形である必要はない。

この小さなイノヴェイションは、ゲームの雰囲気を変えることになった。彼がもともと5つの正方形から構成されていたパーツを4つの正方形で構成される図形にしたのと同じように、パジトノフは、スクリーンのほぼ全体を使っていたプレイフィールドを通路へと狭めた。ブロックがいちばん上からスタートして底まで落ち、プレイヤーがその過程で、速く、正確な選択を行なうことに集中できるように。

しかし、このゲームの問題はまだ残っていた。その狭いプレイフィールドはすぐに埋まってしまい、再びプレイしようとは思えないほど早くゲームは終わってしまうのだ。

パジトノフはディスプレイを見つめ、新しく改良したゲーム画面上の無駄なデッドスペースを嫌った。そこで彼が思いついた見事な解決策は、それからの30年以上にわたって、テトリスに何百ものヴァリエーションと海賊版が生まれることになる唯一の要因となった。横一列がテトロミノのブロックでいっぱいになると、列は消滅し、次のピースで埋まるために空く。それは図形を組み合わせスクリーン内に収めるだけではなく、できるだけ多くの列を消すというゴールをも生み出した。

テニスとテトリス

パジトノフはかつてRASコンピューターセンターで学術プロジェクトや新たなコンピューターハードウェアの試験のため、数えきれないほどの夜更かしをし、時には朝早い時間から終電を逃す覚悟でいたが、彼は再び、同じくらいの時間を新しいゲームの開発、微調整、そしてプレイに費やしていた。そのような日でさえ、自分がつくったゲームで何度も遊び、指をキーボードから離せなくなっている間も、ソフトウェアデバッグのプロジェクトに取り組んでいるふりをしていた。

一進一退のブロックとプレイヤーとの戦いはパジトノフにテニスを思い起こさせ、彼はこのゲームを「テトリス」と名付けた。ロシアでは、テトリスは「Тетрис」と表記され、テニスは「теннис」と表記される。

(彼が当時所属していた)ドラドニーツィン・コンピューティングセンターでは、パジトノフの裏プロジェクトは気づかれないままではいられなかった。ほかの学生や研究者はスクリーンに集まり、我慢強く順番を待ってゲームの腕を試していた(本来やるべき仕事が終わっていないにかかわらずだ)。内輪で制作したゲームがクリエイターだけに留まらないというケースは、ロシアにおいてはそれまでにないことだった。

ひと握りのパックマンマニアを除けば、ロシアでは、アメリカや日本のゲーム機に触れる機会は稀だった。したがって、テトリスと比較するゲームがほとんどなかった。このヴァージョンは真にテトリスと呼ぶに相応しいいちばん最初のヴァージョンであり、今日わたし達が思うテトリスと比較すると至らない点は多くあるものの、図形の形と基本的なルールは変わっていない。

鉄のカーテンを超えて

彼の初期のテトリスには音楽がなかった。まるで真空の中のように、図形が落ちていく時のサウンドすらなかった。完全な横一列をつくりブロックを消す、というアイデアは、得点を数えるわかりやすい方法であるにもかかわらず、当初はスコアも存在しなかった。レヴェルも分かれておらず、(難易度が)次第にレヴェルアップしていくこともなかった。

数年後、ニンテンドーエンターテインメントシステムから発表されたヴァージョンに、テトリスの玄人たちを苦しめた「レヴェル99」が生まれた。これによって、小さいけれど熱心なテトリスマニアたちのコミュニティが生まれ、彼らは最高スコアや最高レヴェルの記録を出し合った。

初期の段階では、テトロミノはブロックのイラストで飾られていなかった(ポロンポロンというロシアの民謡のBGMもなかった)。こうした装飾はずいぶんとあとから付け加えられたものだった。

実はこれは、“鉄のカーテン”の向こうで、外国のコンピューター風味を求める西側諸国のユーザーに向けたものたった。パジトノフと彼の同僚にとって、テトリスはロシアのゲームであり、ロシアのコンピューターでロシアのプログラマーによりつくられ、これまでもっぱらロシアのコンピューター研究所の内部でのみプレイされるものだった。彼らがそのことを覚えておくのに、クレムリンの絵など必要としなかった。

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2010年8月に米ロサンゼルスで行われたテトリスの世界大会。いまやテトリスは世界中の人々に愛されている。PHOTO: ZUMA Press / AFLO

まるでウィルスのように

テトリスは、わずかな専門家たちが自分たちのためにつくった、数あるコンピュータープロジェクトと同じようなものだと思われていた。数日あるいは数週間で忘れ去られ、何か新しいものに取って代わるだろうと。というのも、当時は一般の人々はゲームを共有するためのオンラインネットワークを利用できなかったからだ。モスクワでさえ、当時はパソコンを利用できる市民はほとんどいなかった。

職場や家庭で幸運にもパソコンを所有している一握りのモスクワ市民が、どうにかアレクセイ・パジトノフが作成したコードのコピーを手に入れたとしても、それはまったく役に立たなかっただろう。Electronica 60はRAS内でさえ珍しいマシンであり、オリジナルの27キロバイトのファイルはElectronica 60で動作するようつくられていた。それは西洋のスタンダードになりつつあったIBMのコンピューターとも互換性をもっていなかった。

それにもかかわらず、ドラドニーツィン・コンピューティングセンター内の好奇心旺盛な研究者やマネージャーの間では、ウイルスのように何週間もテトリスに関する話題が飛び交った。もしRASの建物内でこれほど人気になっていなかったら、テトリスはElectronica 60コンピューターにアクセス権をもつひと握りの人に飽きられた時点で滅びていただろう。この閉鎖した空間から一般の社会まで跳躍をするため、テトリスはほかのウイルスと同じく「キャリアー」(運び屋)を必要としたということだ。

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