でんぱ組.inc クロニクル
でんぱ組.incは2013年、快進撃を続けた。
日比谷野音でのワンマンライブ。
主演映画の公開。
発売したシングルは何れもオリコンでベスト10入り。
BS朝日の冠番組も毎週続く。
もが、ねむのCM出演など個々の活動も増えた。
私は行き詰っているので、過去を振り返る。
でんぱ組.incとは、そもそも何だったのか。
クロニクルということで、敬称略で迫ってみる。
今たまにディアステージへ行くと、
ベテランのディアガールから、アバン時代の客が戻ってきたと冷やかされるが
実はアバン店舗を、私は知らない。
アバン店とは、ディアステがオープンして最初の1年弱、営業していた店舗だ。
初めてディアステの面々に会ったのは、2008年の8月にあった夏コミで
そのときにディアステージの存在を知った。
庭園のコスプレ広場には、りさ、もふく、などディアガールの面々が、コスプレイヤーとして登場した。
何も知らず撮影する私。
この娘達が毎日コスプレして給仕してます、と宣伝されたが、
一度もメイドカフェなど行ったことがなかったので、抵抗あった。
そして8月の夏コミは終わり、
9月に、でんぱビルがオープン。
現在のディアステージの店舗がスタートした。
ほんの短い間だけ、旧店舗と新店舗が同時に営業されたが
11月にアバン店は閉鎖した。
こちらはその後、モグラというアニソンDJのクラブとして生まれ変わる。
というわけで、私はアバン店に行ったことがない。
2008年12月28日、年末の冬コミ1日目。
コスプレ広場が終了して、カメコ達は企業ブースに雪崩れ込む。
あと1時間でその日のコミケは終了。
私はらんらんを撮りたくて、らしんばんのブースにいたが
その向かい側で、音楽ライブが始まった。
そのブースは、どこかの企業とディアステージがコラボして出展したところだった。
歌っている女の子達より、ファンのおっさん達が一斉に打つヲタ芸が
注目を集めた。
それはそれで、テレビなどでも見かける光景で、なんとも思わなかった。
だがライブが終わったあと、
歌っていた女の子達と、ファンのおっさん達が、普通に触れ合い始め、
お喋りし出した。
私はアイドルとファンは一線を引いた、かけ離れた存在だと思ったので
そのことに感銘を受けた。
みりん、りさ、あかり、その他のディアガール達は
戦闘服と呼ばれる、透け透けのカラフルなコスチュームを身にまとっていた。
そこにカメコが集まり、私も撮りまくった。
彼女達の戦闘服集合写真は、その回のコミケ写真で、最も上位に検索されるものとなった。
りさ、あかりとは、その場で個撮もした。
ただ、撮影より、彼女達と対等にお喋りしているファンの男達の存在が非常に気になり、
自分もそれが可能なのかと思った。
受け取ったディアステージのチラシに心が動かされる。
みりんとあかりによる初代でんぱ組が作ったファーストシングル「Mirror Majic?」の
発売日でもあった。
発売日とはいっても、コミケのそのブースだけで売られた自主制作CDだ。
たまたまミラーマジックの発売日イベントに出くわすあたり、
でんぱ組とは縁があったようだ。
年が明けて2009年の1月。
メイドカフェや秋葉原にまるで接点がなかった人間なので
初めて行くときは緊張した。
特に初めて行った日が、ディアステージの一階ライブハウスを貸し出していて
スカパー番組の収録を行っていたりして
余計に混乱した。
その番組は森下悠里や松嶋初音が登場し、女の子達が私服からスクール水着に生着替えするというものだった。
いかにも秋葉原な印象を受けた。
だがどうも前情報と違う。
番組収録後、同じように番組を観覧していたおっさん達が
中央通りに出ていったので付いていったが
それはタクシーに乗る松嶋初音を見送りに行っただけで、
やはりディアステージではなかった。
だが、そのおっさん達の後についていくと、
石丸電気というところに辿り着いた。
その上層階ではインストアイベントをやっていた。
今週発売されたばかりの光のキャンベル。
ピヨラビのライブはすでに終わりかけていたが、
その後のツーショットチェキ会や握手会に参加できた。
何もかもが始めてだ。
光のキャンベルは一枚500円のシングルCDで、
三枚購入すると、ツーショ一枚と握手券一枚がついてきた。
それらを仕切っていたのは、ジョー山中のような影のある中年男だ。
その後、再びディアステージに戻ると
通常営業がなされていて
一階の椅子に腰掛け
激しいヲタ芸ライブを眺めた。
毎晩アイドルライブをこのステージで数本やっている。
吉本の劇場みたいだなと思った。
ジョー山中のような男は、ディアステのPAをやっていた。
ピヨラビの二人も、インストア後にディアステにやってきてライブを展開した。
初めて体験するヲタ芸の打ち合い、MIXの絶叫、
壁際の椅子に避難しながら、おっさん達の暴れぶりに衝撃を受けた。
入口にはディアステージ祝1周年と掲げられ、
チュッパチャップスを差し入れるようにと、スタンドが置かれていた。
よって、ディアステージが誕生して最初の1年、
アバン店時代について、私は何も知らない。
2009年の1月から通い始めたディアステージ。
でんぱ組は実のところ余り存在感はなかった。
当時のでんぱ組は、みりんとあかりによる二人コンビのユニット。
ほぼ毎日ディアステに出勤していたみりんと違い、
あかりはレアキャラであり、
あかり出勤時にはステージで、シングル曲のミラーマジックが歌われた。
この曲はヲタ芸を打たず、ファン達が二人の振り付けを真似て踊っているのも特徴だった。
比べて、当時の祝1周年だったディアステで
最も推されていたのは、ピヨラビだろう。
ピヨラビは、うさぎのなみ平とすなおによる二人コンビのユニット。
この二人がお店の顔だった。
光のキャンベルのインストアには、私も何度か参加したわけだが
ヲタの盛り上げようという雰囲気が凄まじく、
同時にそれがアバン時代の終焉でもあった。
すでにアバン店舗は潰れていたのだが、
アバン最後の流れを汲んだ、光のキャンベルのインストアだったと思う。
光のキャンベルはヲタの大量買いに支えられ、
オリコンインディーズチャートで1位を獲得。
一般のウィークリーチャートでも30位台と健闘した。
たぶんピヨラビの二人が
ディアステージ代表として、世の中に打って出るのだろうと思っていた。
比べて、年末の冬コミで発売された、でんぱ組のデビューシングル、ミラーマジックは大人しく、
あかり出勤時にステージで行われる曲披露も、
ファン達はヲタ芸を打たずに静かに踊っていたし、上品なものだった。
2009年初頭のでんぱ組のイメージは弱いものだった。
むしろソロとしての、みりんの存在感が大きかった。
通うようになって、ディアガール達から色々話を聞くようになったが
みりんが前に所属していたメイドカフェは、一番人気のみりんが辞めたあと即潰れたとか
数々の伝説が届けられた。
りさ、あかり、黒崎真音なども、みりん同様、ディアステージオープン当初の
加入組だが、
みなオープンしたばかりのディアステージに客としていき、ここしかないと当時の所属店を辞め
ディアステに入ってきているようだ。
オープン当初のアバン店時代は、各メイドカフェのナンバー1キャストが
なぜか集結したということで
大変人気だったようだ。
そして2009年1月、
光のキャンベルのインストアが終わったあとのディアステージは、一気に空いた。
インストア時はあんなに混み合っていたのに
潮が引いたように閑散とした。
押し合い圧し合いでステージ近くに詰め掛けていた客達が消え、
ディアガールが、お願いだから近くに来てくれとマイクで頼むぐらい、客が少なかった。
それはアバン時代の終焉であり、
当時ついていた客達の大半が、ディアステージ1周年とアバン店閉鎖をもって
離れていったのだ。
アバン時代の客の人に会うと、必ず「あの頃は楽しかった」と言われた。
確かに楽しかったようだ。
そして楽しくなくなった、でんぱビルのディアステージを離れていった。
じゃあ自分が行こうかと、私はステージ最前に被りついてライブを盛り上げるようになった。
みりんがほぼ毎日、フルタイムでシフトに入っていたのだが
毎晩一回目のライブで必ず行われていたのが
古川未鈴のヲタ芸講座。
これはヲタ芸を知らないファンのために
細かく一つ一つの技を説明していくというもの。
Aメロはオーバーアクションドルフィン。
BメロはPPPH(ぱん・ぱぱん・ひゅー)。
そしてサビはサンダースネイクの説明だ。
これにより私もヲタ芸をすっかりマスターすることができた。
まだディアステに入ったばかりで
挙動不審なことが多かった夢眠ガチねむ(当時の名前)が、
みりんの代わりにヲタ芸講座をやろうとするも
マイクを持ちながらどうやってヲタ芸を打ったらいいのかわからず
諦めてみりんにマイクを渡すという一幕もあった。
みりんは不思議なほど流暢に、マイクを握ったままサンダースネイクもこなした。
初めて出会ったときから、みりんは完全に今のスタイルが完成していて
この5年間でほとんど変化がない。
だが、おどおどして、不確かな行動ばかりだったねむは、
今とは大違いだ。
ちなみに当時、一回目のライブは無料だった。
秋葉原に遊びに来た人達が、とりあえず18時半からのディアステ一回目ライブに参加するという流れだった。
そして2009年の初夏には
ディアステージにえいたそが登場。
WWDでも歌われているように、
@ホームカフェのメイドだったえいたそを慕う形で、客だったねむがメイドとして@に加入するのだが
ディアステへの加入は、えいたそが半年ほど遅れる格好となった。
これはえいたそが何度も応募するも、不採用が続き、
しょうがないので、@時代のコネでみゆを頼って、なんとか採用にこぎつけた話が
えいたそ誕にて過去に披露されている。
当時のディアガールは、元@ホームカフェのメイドが多かったのも特徴だ。
えいたそはディアステ登場時から
今の芸風が培われていて、
この5年間でやはり変化はない。
二階のメイドカフェにシフトが入ることが多く、
私はオープンからクローズまで、二階の厨房前のお気に入りの席で
だらついたものだった。
えいたその個性にはすぐに惹かれ、
その破天荒ぶりは毎晩会うたびに衝撃だった。
また、えいたそなどからは、自分がディアステに通うようになった後から
入ったキャストであり
その点で、先輩面できて安心な面もあった。
えいたそはすぐにその才能を開花させた。
当時のディアステはナンバーワンが、ピヨラビの二人であり
でんぱ組の存在はあってないようなもので、
なかなか出勤してこないあかりを前に、みりんは中途半端な立ち位置だった。
そこへ、みりんとえいたそがコンビを組むことが決定。
水玉おんらいん、というユニットが誕生した。
二人はディアステージで毎晩歌い踊るだけではなく、
外部のアイドルフェスにも積極的に参加していき
ピヨラビに次ぐ存在として、めきめきと活躍の幅を広げていった。
反面、水玉おんらいん結成をもってして、
でんぱ組は終了したという見方が一般的だったと思う。
もちろん、たまにあかりが出勤した際は、じゃあ歌おうかとなり
みりんとあかりでミラーマジックが披露されることはあったが
たったそれだけで終わった。
逆に、水玉おんらいんの活動は秋葉原を越えて、東京全土、
そして埼玉スタジアムのコンコースでのライブなど、
あちこちで活発に行われ、
ディアステの新勢力として、認知されていった。
2009年の夏には
ピヨラビのセカンドシングル予定曲として
奇跡のエナジーがライブで発表された。
これはヲタ芸のために作ったような破壊力ある曲で
アレンジの明石昌夫も、ヲタ芸を理解してきたと、すなおは喜んでいた。
一度は少なくなった客も、
夏場にはまたぶり返し、でんぱビルでの経営はようやく安定してきた。
3Fには男装バーがあったのだが、
私が一度も行かないうちに潰れ、
その後、1、2階のみの営業が続いたが、
3階のバー営業は復活。普通にディアガールがシフトに入る店舗となった。
また週末の深夜は、
三階のバーだけでディアステの営業が続けられ、
二階はニュータイプという女装カフェに貸し出された。
こちらは男の子達が女装をして接客する店なのだが、私は一度も入らず。
だが階段ですれ違う男の娘は、とても小柄で綺麗な娘達ばかりで
戸惑った。
そしていよいよ奇跡のエナジーの発売となるかと思いきや
ここでピヨラビの片方、うさぎのなみ平が
ソロデビューシングルを出すことが決定した。
当時のディアステージのナンバーワンは、みりん、りさ、ねむ、あかり、えいたそ、みうといった
面子ではなく
圧倒的にうさぎのなみ平だった。
なみ平は神様クレヨンというソロ楽曲を作り、歌っていたのだが
余りに良い曲なので、
これをシングル化しようと、
当時、店の経営を任されていた小柄な男性が決定したのだ。
そして秋には、うさぎのなみ平の神様クレヨンが発売された。
ヲタの大量買いもあり、
数千枚を売り上げ、オリコン順位はかなり良いと思われた。
だが実際は、散々たるもので、結果が出ない。
オリコンの売り上げ枚数は、実際の売り上げの数分の一となった。
もふく社長はこのことに激怒し、
ネット上でオリコンとのバトルが展開された。
オリコンは当時、インディーズがメジャーを押さえ、イベント売りで高順位をとることを好ましく思っておらず
その対策として、一箇所でのイベント売りは数分の一にしかカウントしないことにしたのだ。
同時に、ディアステージの経営自体も
大幅に変化してきた。
当時、ディアガールと客はミクシィなどやり放題で、
繋がれるのが一番の良さだった。
だがそれを店側は禁じることに。
そうした数々の改革に異を唱えた、うさぎのなみ平は、もふく社長と対立し、
結果としてディアステージを辞めた。
このため、大きな売り上げが望めるはずだった奇跡のエナジーはお蔵入りとなった。
すでに店内やライブではやりまくっていた曲だけに
多くの人間が梯子を外された格好だ。
また、2009年、うさぎのなみ平と夢眠ねむは
フジミントというコンビを組んでいて、ダンボールアートなどを製作したのだが
それも解散。
ピヨラビが大きな存在なら、片手間でやる小さな存在としてフジミントはあり
童話迷宮のカバーが人気があったが、
大きくならないまま消滅した。
ただ、ナンバーワンだった、うさぎのなみ平がディアステージを去ったことで
みりんがナンバーワンの座に上りつめ
その後の店全体の流れは、
みりんを中心に行われていくこととなる。
そして、長らく眠っていた、でんぱ組が復興の兆しを見せる。
というか、新たに始めるプロジェクトに
なぜかでんぱ組とつけてしまった感が強かった。
パソコンのエロゲームのオープニング曲を歌う仕事がディアステージにやってきた。
CDは、これまでの自社製作インディーズではなく
ランティスより発売される。
これが多くのディアガール達の運命を変えた、でんぱ組オーディションだ。
希望するディアガール全員がオーディションを受けたし、
自らは望まないものの、スタッフに推されてオーディションを受けた娘もいた。
オーディションはディアステージで行われ、
曲の製作を任されていた、作詞家と作曲家がやってきて、その他スタッフ含め、
判断がなされた。
そのときの作詞家は涼宮ハルヒなどでも有名で、いまだに、でんぱ組の詩を書いている。
作曲家は、今は縁が薄れたが、大阪城野音では
久しぶりに登場し、ギターを生演奏したようだ。
このでんぱ組オーディションで受かったのが、
元々でんぱ組だった、みりん、あかり、
加えて、りさ、ねむ、合計四人だった。
グループ名は新たに、でんぱ組.incとなった。
私が当時、仲が良かったディアガール達も受けたが落選し、
えいたそも落ちた。
えいたそがでんぱ組オーディションで落ちたのは意外だった。
なにしろ、みりんと水玉おんらいんを組み
その活動のほとんどを共にしていたからだ。
みりんのソロシングル発売時にも
相方としてフルに営業に付き合い、
ようやくそんな裏方稼業が終わり、表に出るときが来たかと思ったが
蓋を開ければ不合格だ。
まあ、裏を返せば、ディアステージに入ったばかりの娘が
人気のあるみりんの相方として選ばれ、
つねに一緒に仕事をさせてもらえていたのが、特上の待遇であり、
他のディアガール達からすれば、羨望の的だったかもしれない。
そのままの勢いで、でんぱ組オーディションに受かるかと思えば
落選。
りさはディアステージの店舗を支える顔として
メイドさんとしてナンバーワンといった印象があったので
合格には納得だったが
ねむのでんぱ組入りは意外だった。
みりん、あかり、りさ、ねむ、そんな四人組のでんぱ組.incが誕生した。
2010年の2月、
四人になった、でんぱ組.incとしてのファーストシングル
キス+キスで終わらない、が発売された。
このCDは厳密にいえば、
一曲目を歌うでんぱ組.incと、二曲目を歌う別アーティストの
コラボシングルであり
パソコンのエロゲーからシングルカットという意味合いが強かった。
ディアステージでのインストアは成功し、大量のCDが売れたが、
やはりその枚数はオリコンにカウントされず、
オリコン圏外という結果に。
これを持ってして、でんぱ組.incもたった一度の企画として
終わりかなという見方が強かったように思う。
実際、水玉おんらいんの活動は休むことなく続けられ
みりんとえいたそのコンビは
ディアステージの一階ライブで、外のアイドルフェスにて
その存在を大きくしていった。
ただどうしても、水玉おんらいんは、
みりんとえいたその力が不均衡であり、えいたそが影に回った。
サエキけんぞうプロデュースで、ソロCDを出し続けるみりんに対し
ただのえいたそであり、
みりんが一人で仕事をするための補助役との見方も強かったように思う。
もう活動はないかなと思っていた、でんぱ組.incだったが
6月に新メンバー発表。
えいたそとみうが加入し、六人組となった。
ピヨラビがオリコンで高順位を上げた頃と違い、
でんぱ組.incはオリコンに測定してもらえず、閉塞感が漂っていたが
それを打ち破る、えいたそ、みう、二人の加入だった。
そして六人組になったことで安心したのか、
あかりが脱退した。
ほんの僅かな期間だけ6人組だったでんぱ組.inc。
その姿をほとんど見ることがないまま
五人組として、新たな船出となった。
みりん、りさ、ねむ、えい、みう。
この五人の初代でんぱ組.incと言っていい面子が、2010年の6月に揃った。
ここがそもそものスタートラインかもしれない。
だが、ここから一年間、
でんぱ組.incの活動よりも
みりんのソロ活動が多かったように思う。
実際、みりんのCDは大変よく売れた。
そして水玉おんらいんの相方として、えいたそは営業に付き合った。
そんな人気ある、みりん+四人という見方がまだ強く残っており
みりんのソロ活動に、でんぱ組.incの活動が勝つには
まだまだ時間がかかった。
実際、でんぱ組.incのセカンドシングルが発売されるのは、それから一年以上も先のことだ。
2010年の6月に誕生した、5人組のでんぱ組.inc。
ただ、CDの発売予定もないため、
たまにメンバーのシフトが被ったときに、ディアステで歌われる程度で
余り存在感はなかった。
それより個々の活動が相変わらず活発であり
8月には夢眠ねむのファーストシングル、魔法少女未満が発売され、
白のスクール水着姿で、ステッキを持って歌われた。
2011年の3月には
東日本大震災があり、津波に多く人々が浚われ、
1万5千人を越える死者を出した。
また福島の原発がメルトダウンし、
放射能の流出はいまだ続いている。
2011年7月、
前作より1年5ヶ月ぶりのセカンドシングル
ピコッピクッピカッって恋してよ、が発売となった。
ディアステでのインストアは好評で、オリコンは104位という結果が得られた。
そしてこのインストアに参加したのを最後に
私はディアステージと距離を置くようになる。
ディアステに通い始めて、二年半、
初めてのライブアイドル文化、それを吸収し続け、目覚めさせてくれた。
だが二年半も通い詰めると、煮詰まってくるものもあり、
多くのシガラミや、関係性を断ち切るべく、通うのをやめた。
それ以後、ディアステには、半年に一度ぐらい、
ふと思い出したように立ち寄ることがあるが、通ってはいない。
私が知らない間に、でんぱ組.incは育っていった。
11月に三枚目のシングル、フューチャーダイバーを発売し、オリコンで46位。
クリスマスには、初のワンマンライブが原宿で開かれた。
そこでは、みうが就職のため脱退し、
もが、ピンキーの二人が新たに加入した。
2012年の5月には、4枚目のシングル、でんぱれーどJAPANが発売され、
オリコンで37位。
7月には、5枚目のシングル、キラキラチューンが発売された。
このインストアに参加することで
私は一年ぶりに、でんぱ組.incの面々と再会した。
一年ぶりのえいたそは相変わらず元気いっぱいだった。
9月の恵比寿リキッドでのセカンドワンマンには、私も参加した。
もはやヲタ芸も一切打たず、端で眺め見るだけの自分と化したが、
彼女達の成長ぶりに感化された。
2013年1月には、6枚目のシングル、WWDが発売され、このインストアにも参加。
発売週の最終日には、お台場のZEPP東京にてワンマンライブがあり、参加した。
WWDはオリコン10位となり、
ディアステージがオープンして丸5年かけて、
ようやくオリコントップ10に自社アイドルを送りこめた。
2013年はまさに、でんぱ組.incの年となった。
この先、どんな展開が待ち受けているのか。
まだ今年も三ヶ月残っている。
私は生きる糧を見つけられず彷徨う。
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