川上 新刊の『こだわりバカ』では、飲食店での「こだわり」に代表される、様々な分野で安易で横並びな「空気コピー」が蔓延している現状と、その中で広告による差別化戦略に成功している事例を多く取り上げました。中でも大学の広報では、「世界にはばたく」とか「未来をひらく」といった言葉が溢れていて、具体性もなく、かつ目新しさもないものが大多数です。その中で圧倒的なインパクトがある広告により実績を出されているのが近畿大学で、現在は志願者数で日本一を達成。その改革の立役者の世耕さんにお目にかかる機会を得て非常に光栄です。
世耕 こちらこそ、近大の広報について取り上げていただいて、本当にありがとうございます。川上さんの前作である『1行バカ売れ』での「近大マグロ」というネーミングに引き続いて、今回は広告コピーについて取り上げていただけたことが、私としてはとてもありがたかったです。
川上 まずは世耕さんが近大の広報にかかわられた経緯をおうかがいできればと思います。おじいさんが近畿大学の創設者、お父さんやお兄さんも近畿大学の理事長を務められてきた、そんな環境で育った世耕さんにとって、近畿大学とはどんなイメージの大学だったんでしょうか。
世耕 子どもの頃から近くで見続けている立場として見ても、やっぱり面白い大学だなと思っていました。いわゆる「関関同立」の次の「産近甲龍」と呼ばれるポジションにいながらプライドをまったく見せないカラー、そしてさまざまな環境の積み重ねから培われてきたパワーについても、純粋に凄いなと。この認識は広報として携わる前も、携わってからも変わらないです。
川上 大学進学の際、ご家族から近畿大学を勧められませんでした?
世耕 それはやっぱり勧められました。でも親が働いている学校に進むなんて、ただでさえ成績から何から分かってしまって嫌なのに、うちは名前が珍しいから周囲にも絶対に息子や孫だってバレてしまうじゃないですか。しかも高校の時はちょっとヤンチャだったので、違う大学に行ったのは良い選択だったと思います(笑)。
大学を知らないことが強みになる
川上 大学を卒業後、近鉄に入社されたそうですが、お仕事はずっと広報だったんでしょうか?
世耕 いえ、元々ホテルマンに憧れていました。念願叶って入社から7年半ほどホテル部門で営業などの業務に携わった後、鉄道広報に異動しました。
川上 鉄道会社の広報というのは、どういったお仕事をされるんですか?
世耕 主にプレスリリースと危機管理です。当時、JR西日本で脱線事故があったこともあり、鉄道会社に向く社会の目はとても厳しい時期でした。
当時私が接していたのは押しが強い社会部の記者ばかり。ひとたび鉄道でトラブルが起こると、「早く情報出せ」という圧力も強く何かと大変な思いもしましたが、一方で「マスコミの人たちがどういう意識でものを書いているのか」をかなり近い場所で感じることができました。彼らがネタだと思うモノの「温度感」を身近に感じられたことは、後々に役立つ貴重な体験だったと思います。
川上 そしてその後、近鉄を退職して近畿大学に広報担当として入られたわけですが、当初世耕さんご自身はどういった状況だったのですか?
世耕 まず、僕自身は同志社の内部進学だったので、そもそも大学受験をしていません。だから最初は入試の仕組みすらわからない状態だったんです。「世耕さんの時って共通一次だったんですか?それともセンター?」と聞かれてもわからないくらい(笑)。だから最初は「これはどうしようか……」と思いましたね。
一方、近畿大学の規模だからこそできることはあるな、と思いました。
近鉄で広報をやっている時は、少子化の影響で、毎年輸送人員が減っていくなか「年間輸送人員8億人を3%伸ばす」と言われても、広報として具体的に何からやればいいのか、数字の単位が大きすぎてわかりませんでした。
でも近畿大学で最初に「現在の志願者数は約7万人」と聞いて、「これは非常に取り組みやすい、動きやすい規模感だな」と感じたんです。
川上 いやいや、7万人ってかなりの数ですよ(笑)
世耕 そうなんですよね。でも直前までいたところが莫大な数字を扱う企業だったために、「7万人なら何とかなりそうやな」って思って(笑)
川上 当時の近大については、どういった状態だったんでしょうか?
世耕 僕はいつも「入れ替え戦のないリーグ戦」という言葉を使っているんですが、一部リーグが京大、阪大、神大で、二部リーグが関関同立、三部リーグが産近甲龍。その三部リーグのなかでも下の方にいるようなイメージでした。そして、当時はその序列に甘んじている面もありました。
川上 広告・広報についても、世耕さんが入られる前はそんなに攻めた内容ではありませんでしたよね。当時のコピーって、覚えていらっしゃいますか?
世耕 忘れもしないですよ。近大の校舎内に、アーチ状になっている部分があるんですが、それを横向きにしたところに女の子が座っていて、「見方を変えると変わる世界」みたいな感じのコピーでした。
でも「アーチが横になっている」と見た瞬間にわかる人って、近大の学生か職員なわけで、近大の外にいる人はそもそもこんなものが校舎にあるってこと自体知りませんよね。しかも横にした絵がまたキレイにハマっているから、全然違和感がない。
川上 誰に向けた広告なのかという目線が欠落したんですね。
世耕 さらに驚いたのは、広告代理店のリストを見た時です。近鉄で電通や博報堂、ADKなど、大きいところから中小までいろいろな広告代理店と仕事をさせていただいて、それなりに多くの広告代理店を知っていたのですが、大学のリストに載っている広告代理店は、どれもこれも本当に全然知らない企業ばかり。
聞いてみると「学校専業でやっている広告代理店ばかりだ」というので、どうしてこんなに狭い世界の専業だけでやっていける広告代理店なんてものが存在するんだろうと不思議に思いました。また、それまでの経験から単価の相場に関する知識もあったので、大学専門の代理店が決して安いわけじゃないということにもすぐに気付きました。
だから、近大に入っていちばん最初にやったことは、一般の広告代理店を入れ、大学の広報をやったことがないクリエイターを起用して、広報活動を仕掛けはじめることでした。
考えて作られた広告なら、人の目に触れる機会は必ず増える
川上 近大でいちばん最初に手掛けられたのは、どんな広告だったんですか?
世耕 阪神なんば線開通の際に出した広告です。これは私がたまたま鉄道会社にいたうえ、新線の広報を担当したこともあったから知っていたことなのですが、新線ができる前って新聞も新線特集を組んだりするんです。だけどまだ開通しているわけではないから、記事を作るにしても載せられる内容があまりない。そこで記者の方々も、必死でネタを探すんです。
そこで私は「新線ができることによって、神戸から梅田の壁を越え、人がなだれ込んでくる」というストーリーを盛り込み、「私たちが新線をアピールする」という意味を含めた広告を作りました。そうすると、その広告が記事として新聞に載り、結果地下鉄内の限られた人しか見なかった広告を、たくさんの人の目に触れさせることができる、そう考えたんです。 実際いくつかの新聞に記事にしてもらうことができ、入ったばかりの近大で、周囲から「お手並み拝見」と思われる時期に、目に見える成果で自分の力を認めてもらうことにつながりました。
川上 その次に手掛けられたのがこちらの広告ですね。この人形、僕は全然知りませんでした。
世耕 ブライスというアメリカンドールを使って作った新設学部の広告です。ブライスって結構マニアックな人形で、大人が写真を撮ってSNSに載せたりするような、ちょっとイケてるブランドを持った人形なんですよ。この広告も新聞にたくさん載せていただきました。
インパクトのビジュアル、ぐっとくる目力もさることながら、世代によって知名度に大きな差があることが広告に使った大きな理由です。この人形を使うことによって誰がターゲットなのかを明示できました。このブライス、おじさんたちは誰も知らないんですが、若い女の子に聞いてみると、かなりの確率で知っている人形なんです。
川上 「おじさんが知らない」っていいキーワードですね(笑)。年代によって知名度が大きく分かれるというところをうまく使ったことで、訴求する側にとっては「私たちをターゲットにこの広告を出しているんだな」と感じてもらえる。
でも、知らないものを広告にするということに対して、反対意見もあったのでは?
世耕 もちろんありました。でも「広告は結局どれだけ人に見てもらえるかだから、これが新聞や雑誌に取り上げられることによって世の中にどんどん広がっていくんですよ」というロジックで説明して通しました。
川上 実際に、この広告もかなり話題になりましたよね。
世耕 新聞に載ったり雑誌取材に来ていただいたりと、おかげさまで多くのメディアで大きく取り上げられました。「考えて作っていけば、必ず人の目に触れる機会は増えるんだ」と、この広告を手掛けたことで、改めて考えが固まりましたね。
また、ここ数年でネットニュースが発達したことによって、状況はさらに変わりました。作った広告が新聞記事になったら、その記事がネットニュースで話題になりSNSで広がって、それを私たちがさらに拡散させる。そして私たちには3万人の学生がいるので、彼らが良いと思ったらあっという間に拡散してくれます。そんな形ができてきたので、ここ数年で、波及効果はより大きくなってきたように感じます。
(第2回 9月28日公開につづく)