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多数の高校生MCがカメオ出演し、様々なヤンキー漫画へのオマージュが捧げられたミュージックビデオで話題をさらったAKLO『RGTO feat.SALU,Kダブシャイン』、PUNPEEが加山雄三の往年の名曲をREMIXした『お嫁においで2015』、ドローンを活用して川崎サウスサイドの若手MC集団<BAD HOP>のヒストリーを映像化した『BADHOP EPISODE』シリーズ、そして自身も所属するグループ<SD JUNKSTA>の盟友NORIKIYOの『夜に口笛』やBRON-K『Paper,Paper』などなど、一癖も二癖もある個性的なアーティストたちのMVを数多く手掛ける人気映像作家“Ghetto Hollywood”ことSITE。自身もラップやグラフィティをシーンのど真ん中で経験し、現在は映像を通してその貴重な体験をアウトプットしている、数少ないRAWな感覚を持つクリエイターだ。

SITEがこのハードな業界で生き抜くことができたのは、HIPHOPをはじめとするストリートカルチャーに対する深い愛情はもちろん、これまでに接した膨大な情報、そしてそれらを体系化することで手に入れた正確なコンパスを持っているからに他ならない。だからこそ彼は、その時代のシーンでイノベーションを起こしつつあるアーティストたちと巡り会い、時にその才能を引き出し、自らも様々な形で才能を開花させることができたのだ。

今回は現代のクリエイターに必要とされる「編集」の才能を、ある種天才的とさえ呼べるレベルで抱えるSITE氏に、全3回に渡ってインタビューを行った。第1回目となる今回は、彼のライフストーリーにスポットを当てていこう。

 

子どもの頃からすごく影響されやすい子だった

 

― 今回はよろしくお願いします。まず、SITEくんのキャリアや生き方に一番影響を与えたものって何なんですか?

やっぱり映画とHIPHOPですね。間違いなく。あと漫画。父親は日本人だけど育ったのがブラジルで、カーニバル大好きな人で若い頃は女癖もあんまり良くなかったっぽくて、幼稚園の頃に両親が離婚して。それをきっかけに幼稚園の年長くらいから中学校3年生くらいまで、週1か2週に一度のペースで週末に父親と会って、映画を観に行ってた時期が10年くらいありました。

 

― どのようなお父さんだったんですか?

ポルトガル語や英語の通訳とか翻訳を仕事にしていたんですが、スクエアではないけどけっこう厳しい人でした。父は小学生の頃に家族でブラジルへ移住して、ブラジルの東大みたいな公立の<サンパウロ大学>に首席で入学したらしいんですけど、学生運動などを経て、学校を卒業する頃にはビートニクというか、長髪のヒッピーみたいになっていたらしくて。父がいた当時のブラジルは軍事政権下だったんですが、父の師匠であり生涯の友人でもあったジルベルト・ジルが率いた「トロピカリア」という音楽や演劇などの芸術を中心としたカウンターカルチャーが各地で盛り上がって。

そうした状況の中で、父も反政府新聞などを作ったりして活動して、大学を卒業する頃にはドロップアウト、カメラを片手に世界を放浪するようになって、その流れで日本に帰って来たときに母親と出会って結婚したそうです。しばらくは翻訳の仕事をしながら西荻窪の<ほびっと村>(※国分寺にあったヒッピーのコミューンの流れを汲む。現在もカウンターカルチャーの聖地として知られている)とか、その周辺で仲間と一緒に『やさしいかくめい』という本を出版したり、“グル”みたいな人に付いて色々やっていたみたいなんですけども。そういう環境にいたので、小学生の頃は母親に連れられて、ひと夏のあいだ長野のコミューンみたいなログハウスで過ごすことも多くて。そこにはいろんな人が集まってて、頭脳警察のローディーだった人とか、後に<JAP工房>を興すノボルちゃんをはじめとしたジャパコア系の人たちとか、ごちゃまぜで遊んでる山奥の小屋があって。そこではブルーハーツの『僕の右手』のモデルになったマサミさん(ハードコアパンクバンド“GHOUL”のボーカル。1992年逝去)っていう片手でモヒカンのパンクスのお兄さんに川で遊んでもらったり、昆虫採集したり、山菜採ったりして遊んでました。

母親も俺も生まれが(渋谷区)幡ヶ谷で、代々木中学校で、後にラッパーの般若が行くことになる世田谷の高校に通ってたんですが、原宿とか六本木とかに繰り出してた世代で。当時、近所に住んでいた吉田拓郎のマネージャーと仲がよかったり、学生時代は大貫憲章さんの妹さんと仲良くて、憲章さんにオススメのレコードを訊いたら。なぜかチーチ&チョンを勧められたとも言ってました。あと、原宿の<レオン>って店でバイトしてた母の幼馴染の親友がバイカー時代のクールスのメンバーと結婚したり、母はおとなしい性格だったけど、そういう何かしらが起こってる場所の近くにはいたっぽくて。あと『花子とアン』の舞台になってる東洋英和の図書館で司書として働いていたので、家には面白い児童文学や絵本が超たくさんあって、絵本大好きだったんで子どもの頃はそれをひたすら読んでました。センダックの『かいじゅうたちのいるところ』とかトミ・ウンゲラーの『ステキな3人組』とか、児童文学だとケストナー、レイ・ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』も最高ですね。

父親は、ちょうど俺が20歳のときに50歳の若さで喘息をこじらせて死んじゃったんですが、離婚してからずっと多摩川学園に住んでいたので、兄貴と二人で父親の家を片付けて、葬式の喪主をやったんです。それで父親の本棚を整理していたときに『マリファナ・ナウ』(※画像参照)を見つけて。それを持って帰って後日実家で読んでたら、たまたま通りかかった母親に「その本にあんたの父親が文章を書いてるわよ」って言われて、自分の父親が寄稿してたことを初めて知りました。父は「ディーラーと消費者と警察の三角関係 -リオデジャネイロ-」っていう、ファベーラでの大麻の売買についてのレポートみたいな章を書いていて、それこそ『シティ・オブ・ゴッド』に出てくる、草好きの大学生みたいな青春だったんだと思います。その本には小袋に入った干からびた麻の種が挟まっていたり、ちょっとおかしい寄贈本ではあったんですけども。それまで父親は酒は大好きだけどドラッグのイメージとか全然なかったし、むしろ真面目だと思っていたので、その時は驚きました。

父親はボブ・マーリーにもインタビューしたことがあると言ってました。中学生の頃に父親に「ボブ・マーリーってガンジャ吸ってるんでしょ?」と軽い気持ちで聞いた時は、「真面目に考えろ」的なことを言われて怒られたけど、否定はしてなかったような記憶があります。

11981年発刊。ダブーを破り、マリファナの真実を伝えた一冊

 

― お父さんとはどういう映画を観ていたんですか?

一番最初に映画館で観たのは間違いなく『グレムリン』(1984年)ですね。普通のクソガキだったので『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか『裸の銃を持つ男』シリーズ、ジャッキー・チェンの映画とか、エンターテイメント作品が好きで。兄貴と二人で電車に乗って新宿で父親と待ち合わせて、<ぴあ>の映画コーナーを観ながらその日観る映画を決めて、映画が始まるまでゲームセンターで時間を潰して、映画を観た帰りには喫茶店で決まってパフェを食べながら、その日観た映画のパンフレットを読んで感想を語るっていうルーティンで。『PSG現わる』のMVでも使っている「ホラーボール」っていうおもちゃを小学生の頃に集めてて、SFとかホラーが好きだったので、当時はミニシアター上映だった『ビートルジュース』を観にいって。最初は「マニアックだけど面白いな」くらいの印象だったけど、次に観た『シザーハンズ』でティム・バートンにもハマって。

 

― 最近はどういった作品を観ているんですか?

最近は海外のドラマが多いです。文学や音楽やアートも内包した総合芸術だから「映画こそが最強!」というのがずっと信条だったんですが、カメラとか機材の進歩でドラマのクオリティが格段に上がって、1シーズン12時間で語る物語のスケールにやられて。『AKIRA』は漫画も映画も両方ともすごい好きなんですけど、やっぱ映画だけじゃ原作のスケールの大きさの一部しか映せない。でもドラマなら長い物語でもちゃんと語れるし、何より普通に観てて面白い。一番好きな作品は『THE WIRE/ザ・ワイヤー』っていう麻取(マトリ=麻薬取締官)の刑事ドラマです。ドラッグディーラーの言葉遣いとか、細かいディテールがリアルで、マスターピースですね。最近のものだと『ストレンジャー・シングス』は80’sのホラーやSF好きのオタク心を鷲掴みで最高ですね。『デアデビル』のアクションもやばいし、『ナルコス』も面白いです。やっぱり<Netflix>は面白いですね。HIPHOPを扱ってる『エンパイア』とか『ゲットダウン』はまあ一通り観てますが、リアルなのを期待しすぎてちょっと肩透かしだったかも。

 

― そもそもの話になるんですが、Bボーイカルチャーに興味を持ったきっかけってなんだったんですか?

子どもの頃からすごく影響されやすいタチで、小学校のときに『六三四の剣』に憧れて剣道をはじめて、『キャプテン翼』でサッカーもちょっとやってみて、小5で『スラムダンク』が始まったんで中学ではバスケ部に入りました。中1の時が、ちょうど(マイケル・)ジョーダンとかマジック(・ジョンソン)の初代ドリームチームがオリンピックで大人気だった年で。そこから自然とNBAにどっぷりハマって、運動神経は鈍かったけど「俺が一番NBA好きだし詳しい!」みたいな感じでした。一番好きだったティム・ハーダウェイとクリス・マリン、ミッチ・リッチモンドの3人が、それぞれの頭文字と「RUN DMC」をもじって「RUN TMC」って呼ばれてて、中1の冬に思い立ってRUN DMCのベストとピストルズのベストを買ったんです。

 

― PUNKとHIPHOPの一騎打ちですね。

音楽を聴くのはずっと好きで、小3の誕生日に再生専用のウォークマンを買ってもらって、ドラマの『はいすくーる落書』をきっかけにハマったブルーハーツのアルバムをテープに録ってもらって、何千回、何万回とひたすら聴いてたんでパンクって言葉には馴染みがあって、そのうち親が聞いていたクラプトンやボブディラン、ニールヤングとか、小6でウッドストックの映画を見てから洋楽を聞くようになって。邦楽でも学校で流行ってる歌よりシブ専というか、家で流れてたRC(サクセション)とか高田渡とか友部正人みたいなフォークが好きで、あと憂歌団とか大阪ブルースロックを背伸びして聴いていたんですけど、中学生になって、若いんだから若者が聴く音楽をちゃんと聴こうと思って、まずRUN DMCとセックス・ピストルズを買ったわけです。それでHIPHOPはNBAとかのBGMでも流れてるし、なんか漠然とカッコいい気がしたから聴き始めたら、一気にハマっちゃって。その頃には練習しはじめて1年くらいだったエレキギターがあったんですが「Bボーイは楽器なんて弾かない!」みたいな勝手な思い込みで、勢いで友達にあげちゃって。ギターは今だに続けとけば良かったなと後悔してます。

 

― NBAつながりで、スパイク・リーにも影響を受けましたか?

スパイク・リーはやっぱ好きですね。まず、俺が初めて買ってもらったバッシュが“ジョーダン7”だったんです。父親に「なんでこんなに高いんだ」って文句言われながら誕生日に買ってもらって。スパイク・リーは当時部屋に貼ってたジョーダンのポスターの隣に写っている小さい人として最初は知りました。ハーダウェイが出てたエアレイドのCMも彼がやってて、それがまたカッコ良くて。『ドゥー・ザ・ライト・シング』とか映画を観たのは、その後ですね。スパイク・リーに限らず、『カラーズ』とか『ボーイズン・ザ・フッド』『ポケットいっぱいの涙』『フライデー』『憎しみ』とかのフッドムービーとか、レンタルビデオでそれっぽいのを片っ端から見て。チカーノギャングなら『ブラッド・イン ブラッド・アウト』『アメリカン・ミー』と『ミ・ファミリア』、白人だと『アウトサイダー』とか『キッズ』『ドラッグストア・カウボーイズ』『ハーフベイクド』とか『トレインスポッティング』みたいなドラッグ・コメディも大好きです。

2ナイキのポスターで共演するマイケル・ジョーダンとスパイク・リー

 

オザケンの「LIFE」はあの時代のサウンドトラック

 

― 日本のヒップホップシーンと絡むきっかけは何だったんですか?

ラップを聴きはじめたのが洋楽だったから、Dr.ドレーの『クロニック』とかビースティー・ボーイズの『チェック・ユア・ヘッド』が凄い好きで、特にビースティーのアドロックに憧れて写真撮るとき真似してた様なキッズだったので、何も知らないくせに「日本語でラップなんてできるわけないじゃん」とか生意気なことを言ってたんですが、中2の冬に「今夜はブギーバック」をレンタルCDで借りて、今度は手のひらを返すようにスチャダラパーにどハマりして。その流れでキミドリとかソウルセット(TOKYO No.1 SOUL SET)とか、中学時代はLB周辺を中心に聞いてました。

その後、高校入って95~96年にかけて、さんピンCAMPとかのハードコアな日本語ラップブームが来て、(キング)ギドラとか(マイクロフォン)ペイジャーとかブッダ(ブランド)にもどっぷりハマって。その頃に、隣の高校に通っていたグループ時代の般若に出会うんです。高一の秋に同じ学区だった高校の学園祭で一個上の般若の初ライブを観ていて。これは後で聞いたんですが、当時は曲の書き方がわからなかったから1日2ステージ、30分くらいRUMIちゃんとヨシくん(般若)が2人でフリースタイルのショーケースをやってて。それが既に超かっこよくて名前を覚えてたんですが、半年か1年後くらいに「HIPHOPナイトフライト」で般若のデモテープが流れて「これって隣の高校の武田くんじゃん!」って超驚いた。

 

― SDPのKANEくんとの出会いは、その後になるんですか?

KANEくんは同い年で、高3のときに新宿の美大向けの予備校で出会いました。まず風体からして只者じゃないというか、スキンヘッドで、筆箱とか持っているものが全部タグだらけだし、気になって俺から声をかけた。俺も絵を描くことだけは得意だったからグラフティの真似事はしてたんですが、タグネームもないし、もちろん外に描いたこともない。でも、その時すでにKANEくんは「移動爆弾」の異名で神奈川だけじゃなくて東京中を凄い量ボムをしまくってストリートでも超有名で、桜木町で鍛えられてるからピースもめちゃくちゃうまくて。当時<Warp>で連載されていた「HANGING OUT WITH WRITERS BENCH」っていうライターの写真とインタビューが載ってたコーナーで、高校生なのに見開き2ページで特集されてるKANEくんを見て、とにかく「レベルが違う」と思いました。出会った次の日には後のSDPの面子が描いてたグラフィティの写真をアルバム30冊分くらい見せて貰いながら、ルールとかスタイルについて色々教えてもらって。それこそ『マトリックス』みたいな強烈な覚醒でしたね。

4ZAKAI HEADQUARTERSで行われたKANEのアートエキシビジョンのフライヤー

 

― SITEくんたちがBボーイカルチャーと触れるのに、アメリカからのワンクッションが入っていない最初の世代なんですね

最初ではないと思いますが高校生の頃、BAKUくんがいた頃の般若とか、KEMUIくんがいた朧車なんかが出演してた「ドゥーイングダメージ」ってイベントは、高校生でも六本木のRホールで400~500人くらいは客入れてたし、特殊な時代ですよね。その当時は未成年が普通に深夜イベントをやれてた時代で。俺らが高校の頃に最初にパーティーをやったのが新宿のワイヤー(CLUB WIRE)だったんだけど、当時はその箱があのミロス(ガレージ)だったというのは知らなくて。嫁とよく行くお気に入りのメキシコ料理屋が元ピテカン(トロプス・エレクトス)だったことも最近まで知らなかったし、そういうクラブとかの跡地も、何かのきっかけで気づくと面白いですよね。

 

― クラブカルチャーにはけっこう影響を受けたんですか?

渋谷が近かったから身近ではありました。でも初めて通ったクラブはなぜか錦糸町のNUDEだったんですが。何より須永さんや小西さんとか高浪慶太郎さん、コモエスタ八重樫さんとか、渋谷系の中心にいた人たちの、常軌を逸したコレクター気質というか、それこそ宇宙みたいに膨大な知識量に圧倒されてました。

 

― 渋谷系は通っているんですね

世代的にはもろですね。中2で『今夜はブギーバック』、中3でオザケンの『LIFE』が出て。もともと聴いてたブルーハーツや清志郎の流れもあったし、和製ソウルの新しい理想形というか、しっくりきたんですよね。『LIFE』はあの時代のサウンドトラックです。レアグルーブ的な味があるというか、バックバンドがスカパラとかヒックスヴィルとか、その世代のオールスターで、ポップなのに凄いファンキーでグルーヴィーだった。今でも『LIFE』はRCの『プリーズ』とかシュガーベイブの『THE SONGS』と同じくらい重要なアルバムだと思ってます。

5小沢健二の2ndアルバム。無敵のポップを誇っている

 

― ストリートとの接点はなんだったんですか?

21~22歳くらいの頃、寝ても覚めてもグラフィティに明け暮れてた時代に、地元の幡ヶ谷にスケーターの先輩がいて、その先輩と一緒に洋服のブランドを始めたんです。その頃に俺は<BURST>や<Blast>、スケート雑誌の<WHEEL>なんかでグラフィティを紹介するような連載を持ってて、雑誌との付き合いもあったから、デザインから発注からプレス、営業的なことまで、ほとんど1人でやってましたね。

 

― 以降、結構タフな生活だったんじゃないですか?

うーん、まあタフでしたね(笑)。先輩だから色々やってもノーギャラだったり、個性も当たりも強い人たちが多かったし。俺は暴走族とかギャングみたいな不良の経験がなかったので、20歳過ぎてからアウトローの洗礼を受けて。あの頃を思い出すと、グラフィティとかラップとか、ストレス発散の趣味とSDPの仲間がいなかったら本当に自殺していたと思います(笑)。今でもしてもらったことやされたこと全部忘れてないけど、最終的には20年後とか、誰にも迷惑がかからなくなった頃に、そういうトラウマとかも全部映画にしたいなという感じです。トラブルで簡単に人が死んだり、西部警察ばりの40台近くのパトカーに囲まれたこともありました。もちろん俺は脇役ですが。今でこそ、そういうストリートとは二度と関わりたくないけど、昔は単純にエキサイティングだし、「自分だけは大丈夫だろう」って変な思い込みがあって、自ら足を突っ込んで結局ハマってたから自業自得というか。なので誰も恨んだりはしてないです。昔は漫画家になりたかったのに、気づいたら20代の10年間くらいはヤンマガの中の世界にいました(笑)。

 

― LBネイションとも微妙に繋がっていますよね?

99年頃に自分でも池袋のbedで「東京ブロンクス」というイベントを何回かやってたんですけど、KANE君に誘われて遊びに行った「HIPHOP最高会議」というブロックパーティーで仲良くなったうどん君(※現Donsta。Sir Y.O.K.O.PoLoGod、YO!HEY!! と共にThreepee Boys として活動中)をLIVEで呼んだ時に、バックDJとして名実ともに「最後のLB」と呼ばれているYO!HEY!!君が一緒に来て、一時期その3人でBed Room MC’sっていうラップグループを組んだりして遊んでたから、繋がっているというより、ちょっとしたLBの亜流って感じですね。個人的にもスチャダラに憧れて桑沢に入るくらい好きでしたけど、未だにシンコさん以外は緊張しちゃってちゃんと話せません。

6YO!HEY!!は、SHINGOSTARとのDJユニット「BACK TO SCHOOL」としても活躍中

 

「MC教室」を読んでリリックとやる気だけはあったから(笑)

 

― そうした中で、サイトくんの最初のBボーイカルチャーのアウトプットって絵だったんですか?

HIPHOPに関して言えばラップをしてみたのが最初です。中3のときに雑誌の<Fine>で「MC教室」って連載が始まって、一回目の講師が石田さん(ECD)で、何はなくとも「韻を踏むべし」って書いてあったので、とりあえず一人でリリックを書き始めて。その後、高校に入学してバスケ部でDJやってるやつと知り合って、俺も「MC教室」を読んでリリックとやる気だけはあったから、二人で地下男達(チカマンズ)ってラップグループを結成したんです。フィッシュマンズとアンダーグラウンドを混ぜた造語なんですが(笑)。その友達がけっこうヤバくて、中2のときに貯めたお年玉でターンテーブル買って、中学からすでに同級生とラップグループをやってた早熟なやつだったんですけど、ノーティー・バイ・ネーチャーに憧れすぎて、南京錠を首から下げて中学に登校してたという。典型的な中二病ですね。

俺らが初めて人前でLIVEしたのが通ってた高校の学園祭で、ターンテープルトスピーカー持ち込んでクラブ的なことをやってる時にLIVEもして。客は2~30人くらいしかいなかったんだけど、俺らの晴れ舞台だったはずなのに途中から遊びに来てくれたBAKUくんと般若にオープンマイクで完全に持ってかれて(笑)。「こりゃ敵わないわ」って思いました。でも、しばらくしてKANEくんを通じて20歳くらいでノリキヨとかと合流してSDP(SAG DOWN POSSE)ができる過程でずっと一緒にいたら、成り行きで俺もSD JUNKSTAに加入して、恵比寿のMILKとかで皆とライブとかしてるうちに、個人じゃラップゲームには全然通用しなかったけど、もしかしたらSDPの総力戦だったら結構ヤバいとこまでいけんじゃないのか?と思うようになって。

 

― 絵はいつ頃からはじめたんですか?

絵は物心ついたときからずっと描いてました。勉強が嫌いだから授業中もノートだけじゃなくて教科書とか机とか、ひたすら落書きしてる様な子だったから、他の子から見ても「変なやつだけど絵だけは上手い」って知られてるキャラで、子どものカーストではずっと下の方にいたけど、普通に友達はいて。「将来は絶対漫画家になるから今モテなくても大丈夫だ」と自分に言い聞かせて。

漫画家は高校生くらいで投稿作品を書くかってなった時に、俺は背景と女の子を描くのが絶望的に苦手で、「本気出してないだけ」って思いながらも、漫画家は挫折するんです。でもその頃からグラフィティの真似して文字とかキャラを描くのにハマってて。高校生の当時俺がいた界隈には、今ミディクロニカって覆面のラップグループをやってるワース君がグラフィティ風の絵を描いてて、最近もカウンター界隈でラップしてるAKURYO君てMCと一緒にエクソシストってラップグループをやってて、その学校の同い年にグラフィティライターのEKYS君がいたんですよ。その頃はまだ誰も外に描いたことない時期だったから、お互いにスケッチの見せ合いとかして。高校のときにはなんとなく横のつながりが出来始めてて、そんな感じで当時流行ってた「東京ストリートニュース」に出てた様な私立のBボーイ達とは別に、都立の高校生の結構コアなBボーイネットワークというのがあったんですよね。EKYSくんは、のちに桑沢デザイン研究所に一浪して入ってきて再会するんですが、98年頃に俺が壁に書き始めた頃にはすでにライターとして道で名が知られていて、最初はボムの仕方とかチンプンカンプンだったけど、隣り合って一緒に描きながら教えてもらったので、KANEくんに続く第二の師匠でした。


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(左)最近は人気番組「フリースタイルダンジョン」出演で話題を集めている般若
(右)東京ストリートに点在するEKYSのタグ

― Bボーイカルチャーの2大エレメントのアンダーグラウンドを体験していたんですね

正直、どっちかひとつでは一番になれなかったっていうか、通用しなかったっていうのが現実ですね。でも、『デカスロン』みたいにHIPHOPの10種競技があれば誰にも負けないって自負はあるし、遠回りもしたけど失敗も含めて片っ端から全部を通ってこなければ今の自分はないと思ってて。総合力っていうか、例えば井上三太の『トーキョートライブ』は「だせー、あんなのフェイクだ」ってずっと言ってきたんですが、あっちは超ハイプだけどブランドがあって、園子温と映画も作ってる。じゃあ、それをブーブー言ってるだけじゃなくて覆すにはどうしたらいいかって考えたら、やっぱり自分だけじゃなくてこれまでに出会ったクリエイターやアーティストたちと手を組んで、集合体を作っていかないと勝てっこないって思って。ビートたけしとか、違うジャンルから映画に入っていった人たちは皆が通る道だと思うんだけど、職人の洗礼というか、自分の頭で想像するだけじゃなくて、そのアイデアを元にプロの集合体を動かせないと映画みたいな総合芸術は到底作れない。「TRUE 2 THE GAME」という言葉が座右の銘なんですが、HIPHOPやカルチャーに対して真摯な姿勢で、ピュアでいることを常に心がけてます。

― というわけで、いきなり濃密な内容となった第1回。最後はSITE氏が思い出深いと語る自身の仕事3本のバックエピソードを紹介してもらいつつ、幕を閉じたい。次回の更新をお楽しみに!

 

■SD JUNKSTA – 人間交差点~風の街~/モノクローム

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https://www.youtube.com/watch?v=Nw1Mrih0NLg

これを撮った時は初めて使ったCanon5Dの画が衝撃的でしたね。一眼レフだし、フォーカスも1.8とかで、被写体深度が2~30cmくらいしかない世界観。昔は高いカメラじゃないと出せないと思ってたような画だったんで。俺は常に機材は廉価版を買うんですが、最近までずっと使ってたのも7Dっていう8万くらいのカメラで。100万、200万の機材はレンタルして、自分のは一番安いヤツ。高いのよりガシガシに使えるヤツを手元に置いておきたい感じです。人間も動物だから、ちゃんとしたスタジオで照明当てて人が沢山いると、被写体が緊張して硬くなっちゃう事がよくあるんです。だから、俺はアーティストが一番リラックス出来る場所、実際に住んでる部屋から撮り始めて、一緒に移動して、誰かと会うところを順に撮っていく構成のMVが多くて。この作品はそのプロトタイプって感じです。

 

■PSG – PSG現る 1972(M×A×D)

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https://www.youtube.com/watch?v=XgtG-cWSkC0

自分のお気に入りのオモチャを使ってコマ撮りで撮影したいというのが前提にあって、それならSD JUNKSTAよりPSGの方がしっくりくるなと思って、当時ファイルレコードの社員だった増田さん(SUMMIT)に企画を持ち込んで。ノーギャラでもいいと思ってたけど予算が5万円出たんで、2.5万円かけて安い連続撮影ができるデジカメを買って、写真を大量に現像してハサミで切ってまた撮影するという、地味な作業を自分の部屋の一角を使って何週間もやってた。スチャダラの『大人になっても』のMVとか、ヤン・シュバンクマイエルの影響もデカイです。でも、一番最初にコマ撮りを意識したのはレイ・ハリーハウゼンとか、中学の頃毎朝見てた『ピングー』でした。

CGがあんま好きじゃないんですが、そもそもホラー世代だからモンスターとかゾンビとか、クリーチャーが好きです。トム・サビーニとか、リック・ベイカーの生み出したクリーチャーが最強ですね。うちの父親はメイクアップアーティストのスクリーミング・マッド・ジョージさんと仲が良かったらしくて、俺がいつもホラーボールとか集めて怪物の絵ばっか描いてたので、「将来マッド・ジョージさんのところに弟子入りするか」と言われたことがありました。

 

■AKLO – RGTO feat.SALU, 鋼田テフロン & Kダブシャイン

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https://www.youtube.com/watch?v=TnJMBcQFNME

最初は「ヤンキー漫画のパロディを撮ろう」と思ってコンテを描いて、日野の学校で1日で撮影しました。「さあ編集だ!」ってタイミングで撮影を頼んでたMr.麿くんと一緒に『トーキョートライブ』の映画を観たんですが、良いラッパーがあんなたくさん出てるのに凄いつまらなくて、二人で散々文句言って、その勢いで山梨の麿くんの家で一気に編集しました。今まではオマージュとかする時はちょっとマニアックなところを狙っていたけど、この時はT-Pablowくんとダースレイダーに高校生のラッパーの子たちを大勢集めてもらって“ラップ学園”の雰囲気を出して、とにかく若い子たちのバズを狙って作りました。SALUくんの『翔丸』、Kダブさんの『ビッグマグナム黒岩先生』とか、AKLOくんの『ろくでなしBLUES』のマーシーのバンダナのくだりとか、細かいネタは結構おっさんにも向けてます。

※第2回に続く。