閉会式には、選手たちのすがすがしい笑顔があふれた。

 南米初開催となったパラリンピック・リオデジャネイロ大会は、競技力が一段と向上し、これまでにも増して、アスリートの力強さを世界に印象づけた。

 「リハビリの延長」との位置づけで始まった大会は、回を重ねるごとに、高いレベルの競技会へと進歩している。

 日本の選手は24個のメダルを獲得したが、金メダルは夏季大会で初めてゼロだった。一方、中国の金メダルは107個で、4大会連続1位となった。

 中国だけでなく多くの国が強化に本腰を入れており、危機感をあらわにする声も聞かれる。だが、安易な勝利至上主義とは一線を画すべきだろう。

 強化が不要というわけではない。国の支援はもちろん大切だが、成果をメダルの数だけで評価するような考えは、大会の精神から大きく逸脱している。そう言わざるを得ない。

 残された機能を最大限に生かすという理念のもと、パラリンピックの選手たちは可能性を追い求めてきた。きのうより上の自分をめざして励む。その努力の過程が、何より大切だ。

 同時に、人びとの違いを認めあい、受け入れ、共に生きる社会を実現することも、忘れてはならない。

 パラリンピックの出場選手でつくる日本パラリンピアンズ協会の調査によれば、障害を理由にスポーツ施設の利用を断られた、あるいは条件付きでしか認められなかった経験を持つ選手が回答者の2割にのぼった。

 「知的障害者だとばれたら、いじめられる」として、パラリンピックに出ることを隠している日本選手もいるという。

 私たちが取り組まなければならないのは、メダルの多寡を論ずることではなく、こうした現実を変えていくことだ。

 多様な生き方を受け入れる社会が実現すれば、スポーツ分野のすそ野も広がり、競技力に良い影響を与えるだろう。

 パラリンピックだけではない。五輪憲章もまた、あらゆる差別を認めず、互いを理解し合うことを求めている。

 にもかかわらず、国威発揚の場ととらえ、選手に過大な荷を負わせる空気が厳としてある。その帰結がスポーツ界を揺るがしたロシアの組織ぐるみとされるドーピングである。

 相手への敬意を忘れず、自らは精いっぱい努力する。

 スポーツの意義を、いま一度確認し直して、4年後の東京五輪・パラリンピックに向けた次の一歩を踏み出したい。