バスルームの憂鬱


 夕食の後片付けをいそいそと手伝っていたムウは、マリューに持ってきた皿を手渡しながら「そろそろコーヒーでも淹れようか?」と訊ねていた。
「今、食事が終わったばかりなのに、もうケーキ?」
 少々呆れたような笑顔を浮かべながら聞き返されたムウは、チッチッチッと指を振りながらニヤリと笑う。
「甘いものは別腹だろ?」
 その言い方が、さも当たり前かのように聞こえ、マリューは思わず噴出していた。
「なんだか、ムウの方が女の子みたいね」
「あっ、ひっでーなあ、その言い方」
 まだ笑っているマリューの両頬をムウの手が包み込む。
 そして、無理矢理自分の方に向かせると、唇が触れるか触れないかの至近距離まで顔を近づける。
「こんないい男捕まえて、女の子みたいはないだろう?」
 あまりにも近い距離でムウの顔を見つめるハメになったマリューは、思わず顔が火照ってしまうのに気付いた。
「そ、そんな事、自分から言わないで下さい」
「って事は、認めてくれるんだ。俺がいい男だって事」
 更にニコニコと美しい笑顔を湛えて、ムウはマリューの瞳を真っ直ぐに見つめていた。

 真っ直ぐに通った鼻筋。
 切れ長の目には、空の色を切り取ったかのように蒼い瞳。
 確かに『いい男』なのだと、マリューは改めて思う。
 しかし、その一言を口にしようがしまいが、ムウのテンションが異常に上がるのは目に見えている。
「ハイハイ。分かりましたから、コーヒー淹れて待ってて」
 と、マリューはこの日の為にと、バルトフェルドが特別にブレンドしてくれたコーヒー豆が入った瓶をムウに手渡す。
「了解しました」
 そう告げると、マリューの頬にそっと触れるだけのキスを残し、コーヒーメーカーの準備を始めた。

 しばらくすると、部屋中にコーヒーの香りが立ち込めてくる。
 ムウがお揃いのマグカップに、出来たてのコーヒーを注いでいると、チョコケーキを乗せた大皿を手にしたマリューがテーブルにやって来た。
 艶やかなチョコレートでコーティングされたケーキの上には、ムウの歳の数だけのロウソクに灯りが揺らめいている。
 改めて……と笑いながら、マリューは「お誕生日、おめでとう」と、ケーキの皿をムウの前に差し出した。
「ありがとう、マリュー」 
 そして、目の前に置かれたケーキに揺らめくロウソクの灯を、ムウは一気に吹き消した。

 マリューに切り分けてもらったケーキを、ムウは美味しそうに口に運ぶ。
 だが、飾り付けに使ったビターチョコレートのトリュフは、何故か皿の上に転がったままだ。
「これ、嫌いだったかしら?」
 マリューは不思議に思い、ムウに訊ねる。
「これは後で食べるから、取っておこうと思ってさ。マリューの分も頂戴」
 珍しい事もあるものだわ……とマリューは思いながらも、そのトリュフを入れる為の小皿を取りに行く。
 そして、その小皿をムウの目の前に差し出すと「サンキュー」と言いながら丸いトリュフをコロコロと移し替えた。

「ごちそーさま。美味かったよ」
 マグカップの中身を飲み干したムウは、そう言うと自分の指に付いていたチョコレートをペロリと舐める。
「いえいえ、どういたしまして」
 マリューは返事を返しながら、テーブルの上に先程のトリュフが残されたままだという事に気付く。
「これ、食べないのならば、冷蔵庫に片付けておくわね」
 そう言いつつ、トリュフの乗った小皿に手を伸ばそうとしたのだが、ムウの手が一瞬早く、その小皿をすくい上げた。
「これは、まだ片付けないでくれない?」
 これから食べるの〜と笑いながら言うと「バスタブにお湯を入れてくるよ」と、ニコニコしながら席を立った。
『お風呂』の準備に行ったムウを見送りながら、マリューの心臓が少しばかり早い鼓動を刻み始めた。
「と、とりあえずお皿を片付けなくっちゃ」
 一緒にお風呂に入るという約束を思考の隅に追いやり、食器を洗い始める。

 マリューが洗い物を終え、食器棚に片付けているところで、ムウがリビングに戻ってきた。
「なぁ、マリュー。こっちこっち」
 そう言いながら、自身が座っているソファーの隣を、パフパフと叩いている。
「はいはい」と苦笑しながら、マリューがその隣に腰を下ろすと、すかさずムウの腕が身体を絡め取ってくる。
「ちょっとムウ、どうしたの?」
 いつもの事だと言えばいつもの事なのだが、マリューは何かが違うような気がした。
「口、開けて?」「はぁ?」
 突然、そんな事を言われてマリューは怪訝そうな顔で振り返ると、そこには、先程のトリュフを手にしたムウが妖しげな笑顔でこちらを向いていた。
 少々ドキッとしながらも、マリューは再びムウに問いかける。
「トリュフ、くれるの?」
「そう。だから……口、開けてよ」
 言ってる事は、ありふれた言葉なのだが、それを言っている本人の表情が何かを企んでいそうである。
「ほら、早くしないと、俺の手でトリュフが溶けちまうよ」
 そう急かされて、ついマリューは口を開けていた。
 コロンと口に入れられたトリュフは、マリューの舌の上でゆっくりと溶け出して行き、ビターチョコのほろ苦さと優しい甘さが、口の中いっぱいに広がる。
「ムウは食べないの?」
 やわらかく溶けて行ったトリュフを飲み込むと、マリューはトリュフを手にして、ムウの前に差し出していた。
「マリューが食べさせてくれるのなら」「ばか……」
 開けられた口に、マリューはトリュフを転がし入れる。
 ゆっくりと口の中で溶けていく様を楽しんでいるかのように、ムウの口がもごもごと動く。
「これ、もしかして……駅前の専門店のトリュフか?」
 よく分かったわね〜と、マリューが笑いながら答えると、ムウはすかさず2個目のトリュフを口に放り込む。
 そして、そのままマリューの唇に自身のそれを重ねる。

 突然のキスは、ムウにとっては当たり前の行動だという事を理解しているマリューでも、さすがにこのキスには驚きを隠せなかった。
 ゆっくりとマリューの唇をこじ開け、そこにムウの舌が侵入する。
 いつもと変わらないムウのキスだが、今日のは少し違っていた。

 それは、いつもとは比べ物にならないくらいの甘いキス。
 ムウが口にしたビターチョコが、マリューの口内を支配していく。
 カカオの香りが鼻をくすぐるのと同時に、頭の中心部がじんわりと痺れていくような感覚に襲われていた。
「ん……っ」
 ほろ苦いはずのビターチョコが、ムウの舌先から痺れるほどの甘さに変化していくのをマリューは感じていた。
 チョコレート1つで、いつものキスが全く違うものになっている。

 ゆっくりと唇を離したムウはまた1つトリュフを手にすると、今度はそれを半開きになったままのマリューの口にそっと入れる。
「俺にも、ちょうだい」
 そうマリューの耳元で囁くと、再び唇を重ねる。
 ムウはマリューの後頭部を手で支えると、口の中に転がっているトリュフを自分の舌で探し出す。
 そして、トリュフと一緒に、マリューの舌を絡め取る。
 その痺れるような感覚に、マリューは酔い始めていた。
 ムウの動きに合わせて、自分の舌を逆に絡めていく。
 彼女の変化に気付いたムウは、更に激しくマリューの口内を攻めた。

 トリュフと共にマリューを味わったムウが再び唇を離すと、耳元で囁く。
「チョコレートって、大昔は媚薬だったって事、知ってる?」「えっ?」
 マリューがぼぅっとした頭で、ムウが言った事を理解しようとした矢先、三度トリュフを口にしたムウが噛み付くようなキスをする。
 ムウの体温で軟らかくなったトリュフをマリューは舌で受け取る。
 チョコレートが絡み付いたムウの舌先が、マリューの口内を描き混ぜ、その行為にマリューの思考が溶け始めていた。

 マリューの変化に気付いたムウが、このまま押し倒そうかと思った時だった。
 キッチンに設置してある、バスルームの給湯器から華やかなメロディーが流れ出す。
 その音を耳にしたムウは、少々残念そうな表情で、マリューの唇から離れて行く。
 突然、自分から離れたムウを、ぼぅっとしたままの表情でマリューが見上げていた。
「マリュー、お風呂入ろう。約束だしな」
「あ……」
 今のキスですっかりお風呂の事を忘れていたマリューは、急に恥ずかしさが込み上げてきたようで、ふっとムウから視線を外す。
「ほら、立てるか?」
 すっかり力の抜けていたマリューは、ムウに支えられてのろのろとソファーから立ち上がると「着替え、取ってくるから」と寝室へ向かった。

 少し意識がはっきりしてきたマリューは、2人分の着替えを手にバスルームに繋がるリビングに戻ってきた。
 てっきり、もうバスルームに行ったと思っていたムウが、ソファーに座ったまま携帯で何か話している。
 どうしたのかと思いつつ、マリューはムウの顔を覗きこんだ。
 そして小声で「今度はなあに?」とムウに訊ねてみる。
 すると、朝と同じように「ちょっと待っててくれ」と電話の相手に伝えると、マリューの方に向き直る。
「今度は虎さんから仕事の電話だよ。もう少しで片付くから、先にお風呂へ行っててくれないか?」
「そう、分かったわ」
 マリューは、少しだけホッとしながらムウに返事をすると「じゃぁ、お先に」とバスルームに向かった。