メガネを長年欠けている人は誰でもある一定の水準の顔になっているように見える。おそらくメガネ顔とはそういった状態のことを言うのだろう。私はこのメガネ顔が羨ましい。
私の顔面の美醜はお世辞にも美人とはいえないレベルである。自分の顔面をまじまじと見つめてみれば、欠点ばかりが浮かび上がってくる。それは地面に例えるならば、全く人の手入れが入っていない状態で品評されるも同然である。
「あそこの土地、水はけ悪いなあ」「あそこの土地、猫がよく糞してるらしいよ」「うわ、あそこの土地セイタカアワダチソウばっか生えてんじゃん」というのが私の顔面だとするならば、顔が整っている人はまさに自然のままの絶景、グレートキャニオンやギアナ高地のようなものだろう。
しかし、メガネ顔の人は違う。メガネ顔になれば誰だって一定の水準に達するのだ。水はけの悪い土地でも野球場になれば、そこは野球場となるように(川崎の二子球場など)、どんな人でもメガネをかければメガネ顔になるのだ。メガネ顔というカテゴリーに入ってしまえば、その人はメガネ顔として評価される。メガネ顔に極端な振れ幅は少ない。なぜならば、メガネ顔というのはメガネという装飾を身にまとった、いわば整備された土地であるからだ。整備された土地はどんなコンディションだろうと、整備された土地である以上は何らかの使用目的が発生する。そこには雑草などが無造作に生えてはいないのだ。
つまりメガネ顔の人というのは、メガネ顔というカテゴリーに分類され、顔面の美醜のレベルがメガネ顔として調節されるのだ。メガネ顔の人を思い浮かべてみればわかるが、極端にブサイクな人は存在しないように思える。それは何故か。メガネ顔としてメガネ顔というカテゴリーに入っているからだ。しかしメガネ顔というカテゴリーに入れた反面、今度はメガネ顔は個性に欠けるという問題も発生するかもしれない。メガネ顔はメガネ顔として顔面を標準化してくれる一方で、メガネ顔というカテゴリーとして雑に括られてしまう可能性もある。よくマンガやアニメである感じのメガネ顔がメガネとしてしか認識されないみたいなギャグが物語っているように、メガネ顔は顔面を標準化するというのもまた事実であり、いい意味でも悪い意味でも印象に残りやすいのは、メガネをかけていない人に多いだろう。
だが、私みたいな顔面偏差値50に到達したい人間にとってはメガネ顔は魅力的なのである。そこまで羨ましいなら伊達メガネでもかければいいのではないかと思われるだろうが、私は靴下とかすぐに脱ぎたいタイプなので、必要もないのにメガネをかけるのは耐えられないだろう。要するに、「わたしぃ、メガネかけてる人うらやましー。でもメガネはかけたくなくてぇ」という死ぬほどどうでも良い話なのであった。ははは。