あまい時間



 それは3日前の出来事だ。
 いつものように仕事が終わり、待ち合わせをして駅までの道を一緒に歩いていたムウが、突然「あ、コレ……」と、何かをマリューに手渡した。
 それは1枚のメモ用紙とラインストーンのチャームが付いた鍵である。
「……コレ、どう見ても鍵ですよね?」
 掌に乗せられた鍵を、マリューは指先で拾い上げながら聞き返す。
「ほら、俺の誕生日にマリューさんが手料理作ってくれるって約束したじゃん」「えぇ」
 ニコニコとしながら、ムウはマリューに話しかける。
「当日も一緒に帰る事が出来れば問題ないけどさ、外回りとかで遅くなったりしたら、マリューさんをずっと外で待たせることになっちゃうだろ?」
「どうしても遅くなるならば、どこかで時間潰しますよ?」
 鍵を受け取って良いものかどうかという迷いから、マリューは「大丈夫ですよ」と言葉を返す。
「いや、寒空の下でマリューさんを待たせて、風邪なんかひかれちゃ申し訳ないし」
 そう言うとムウは、再びマリューに微笑みかける。
「でも……」
「だから、もし俺が遅くなるようだったら、その地図と鍵で俺の部屋に入っててくれていいから」
 いわゆる保険ってヤツ?と、おどけながら言うムウの勢いに押されたのか、マリューもしぶしぶ「じゃぁ、どうしてもの時に使わせてもらいます」と、そのメモと鍵を大切にハンドバックの中に入れた。
 多分、使う事はないだろう……と、思いながら。




 いつもの時刻に目覚ましを止め、いつものように朝を迎えたムウは、大きく伸びをしながらベッドから立ち上がった。
 いつもと違うのは、今日はマリューさんの手料理が食べられる……ムウにとっては大事な日だと言う事。
 ところが……嬉しいはずの朝なのだが、なんだかいつもと違い身体が重く感じる。
「やっぱ、昨日の接待が長引いたせいかな?」
 そんな事を思いながらも服を着替え、顔を洗う。
 そして、これまたいつものように、焼けたばかりのトーストにバターを塗るのだが、ムウはそれを1口齧ると目の前の皿の上に置く。
「飲みすぎた訳じゃないけど……食欲ねぇな……」
 ボソッとそう言うと、とりあえずマグカップのインスタントコーヒーを強引に一気飲みし、食べかけのトーストと空のマグカップを片付けるとムウは自宅を後にした。

 まともに食事を取らないで仕事に来るなんて、俺にしちゃかなり珍しいな……と思ったムウは、とりあえず重い身体に喝を入れようと会社近くのコンビニで栄養ドリンクを買い、それを流し込むようにして口にした。
 そして「これで今日1日、なんとかなるかな?」などと思いつつ、会社へと向かった。


 同じ頃、マリューも出勤途中であった。
 いつものハンドバッグと一緒に、今日は小さめのトートバッグも手にしている。
 その中には、ずっしりとした重さの茶色い紙袋が入っており、時おり何か固い物同士がぶつかり、カチャカチャと音を立てていた。
 
 今日はムウの誕生日。
 随分前から、ムウの誕生日には何か手料理を……と思っていたマリューは、ムウのリクエストもあり、彼のアパートで晩ご飯とデザートを作る予定でいたのだ。
 その材料の一部……黄桃のタルトを焼く為の耐熱皿と、すでに下準備済みの粉と黄桃の缶詰が入っていた。

 そんな重いものを持っているにも関わらず、マリューの足取りは軽い。
 しかも、微笑みながら何かを呟いている。
「駅ビルの地下で、必要な材料を買えばいいし……」
 卵は冷蔵庫にあるって言ってたわね……と考えながら、マリューはタイムカードを押した。



 この日は朝からハイネと一緒に外回りに出たムウは、仕事で走り回る事で身体の重さを忘れていた。
 が……。
「おいフラガ。お前さぁ……体調悪いんじゃないのか?」
 少し遅い昼食を取ろうと立ち寄った定食屋で、ハイネがムウの異変に気付いたのだ。
「ん?そうか?」
 そう言いつつ、ムウは目の前の肉じゃがを食べるでもなく箸でつついている。
「そうか?じゃないだろ!大食漢のお前が、飯を食わないなんて、ありえないだろ!」
 はぁぁ〜と、わざとらしく溜息をついたハイネが、ほとんど手を付けられていないムウの食事を指差す。
「……いや、ちょっと朝から食欲なくってさ」
「ってか、お前……顔は赤いし、変に汗かいてるぞ」
 険しい表情でムウの顔をマジマジと見るハイネに、ムウは少々たじろぎながらも、手の甲で額を拭う。
「うわっ、ホントだ」
 もうすぐ冬到来だというこの時期に汗をかくなんて普通じゃありえない……たいした事ないとばかり思っていたムウは、自分の手の甲にベッタリとついた汗に、少々戸惑っていた。
「とりあえず、今日の営業はあと1件だから……お前は帰れ」と、冷たく言い放ったハイネに、ムウは慌てて「あと1件なら、それだけでも……」と、仕事を継続する事を主張する。
 が、それを言い終わる前に、ハイネが「次の約束の時間までには充分時間があるし、ヤマトを呼び出すから心配ない!」と畳み掛ける。
「だがなぁ〜」
 反論しようとして椅子から立ち上がったムウは、立ち眩みでも起こしたかのようによろけて、テーブルに手を付く。
「そんな状態で、まともに仕事出来る訳ないだろ」
 全く〜と、再び大きな溜息を付くと「おばちゃん、お代はここに置くよ」と、食事代をテーブルに置き、椅子に座りなおしていたムウの腕を掴んだ。
「おい、行くぞ」「え?」
 赤い顔をしたムウを無理矢理引っぱり、ハイネは店を後にした。



 終業時刻まであと30分となった頃、仕事をしていたマリューの元にキラがやって来た。
「あら、キラ君?」
 いくつかのファイルを抱えたキラは「あ、マリューさん……これ、フラガ主任から預かってきた書類です」と、それらをマリューに差し出す。
「悪かったわね。ありがとう」
 キラに微笑みながら受け取ったファイルの一番上に、4つ折にされたメモが貼り付けてある事にマリューは気付いた。
「これ、何?」
 そのテープを剥がしながら、マリューは隣に立ったままだったキラを見上げる。
「あっ、それは、ハイネ主任からの伝言です」「ハイネさん?」
 ハイネさんって確か、フラガさんとコンビ組んでる人だったかしら?……そう思ったマリューは、剥がしたメモを広げた。

『フラガが風邪で倒れた。もし良かったら、様子を見てやってくれないかな? ハイネ』
 
「えっ?」
 書かれていた内容に驚いたマリューが、思わずキラを見上げた。
「そういう事なんで」
 少し苦笑しながら、驚いた表情のまま固まっているマリューに「よろしくお願いします」と頭を下げると、キラはそそくさと立ち去った。

 フラガさんが風邪?!じゃあ、何か身体に優しい物を作ってあげなきゃ……そう思ったマリューは、終業時間を告げる鐘が鳴ると同時に「用事がありますので!」と、大慌てで会社を後にする。
 そして、駅ビルのデパートに駆け込み、食品売り場と薬局で買物をすると、すぐさま電車に飛び乗った。




 マリューの最寄駅から2つ目。
 その駅で降りたマリューは、ハンドバックの中から1枚のメモ用紙を取り出した。
 それは3日前にムウから渡された、アパートまでの地図が書かれているもの。
「まさか、このメモが本当に役に立つなんて……」
 そう呟きながら、マリューは駅の北へと歩き始めた。

 駅前の大通りを横切り、美容院の角を曲がる。
 地図の通りに足を進めていたマリューの目の前に、すぐに青い屋根のアパートが見えてきた。
「ここの3階ね」
 そう言うと、アパートの門をくぐり階段を登る。
 そして302号室の前に立つと、マリューは躊躇いながらもインターホンを押してみた。
 かすかに室内でその音が鳴るのが聞こえるのだが、一向にドアが開く様子はない。
 やっぱり寝てるわよね……と思ったマリューは、再びハンドバックの中に手を入れるとラインストーンのチャームが付いた鍵を取り出す。
「失礼しまーす」
 何か悪い事をしているかのような錯覚を覚えながらも、マリューはその鍵を使いドアを開けた。

 音を立てないようにゆっくりとドアを開けて、恐る恐る中に足を踏み入れる。
 薄暗い室内には、カーテンが開けられたままの窓からかすかに街灯の光が差し込んでいて、ベッドで丸くなって寝ているムウの姿をうっすらと照らし出していた。
「やっぱり寝てる」
 なんとなくホッとしながら静かにドアの鍵を閉めると、マリューは部屋に上がり荷物をキッチンの片隅に置く。
 そして少し考えてキッチンの蛍光灯だけを点けると、開け放たれていたカーテンを閉めようとリビングに足を踏み入れた。
「こんな所で……」
 仕方ないわねぇと溜息を付くと、部屋の真ん中に脱ぎ捨てられているスーツを手に取る。
 どうやら帰宅して寝る前に着替えたのだろう。だが、さすがにそのスーツをハンガーに掛けるだけの気力は残っていなかったようだ。
 辺りを見渡したマリューは、クローゼットらしき扉の前に掛けてあったハンガーを見つけ、それにムウのスーツを吊るす。

 スーツと一緒に脱ぎ捨てられていたワイシャツを拾い上げようとしたマリューは、ゆっくりとベッドを覗き込んだ。
 そこには、まだ多少赤い顔で額に汗をにじませたまま熟睡しているムウの姿があった。
 マリューは、なんとなくその汗ばんだ額に手を当てる。
 じんわりと暑いムウの体温が、マリューの掌越しに伝わって来た。
「まだ少し熱があるみたいね」
 そう呟くと、汗で額に張り付いていたムウの前髪を優しく整える。
 そしてカーテンを閉めると、洗濯物をキッチンの隣に備え付けてある洗濯機に放り込んだ。

 キッチンの明かりの下で、マリューは買ってきた物を取り出す。
 新品のハンドタオルをお湯で洗い、額に貼る冷却シートも手にすると、熟睡しているムウの元に行く。
 そして、汗ばんでいたムウの額をハンドタオルで拭き、冷却シートを貼り付ける。
 冷却シートを貼り付けた瞬間、その冷たさに反応したのか、ムウの顔が一瞬だけ歪む。
 が、すぐに先程と同じ様子で眠り続ける様子にホッとしたマリューは、再びキッチンに戻った。

 シンクの周りには、病院で処方されたらしき薬の袋と、水が入ったままのグラスが放置してある。
「病院には行ったみたいね」
 そう呟くと、手早くグラスを洗い「フラガさんが起きたら食べられるように支度しなきゃ」と、キッチンを見渡した。


 どれくらい眠っていたのだろうか?
 そんな事を思いながらムウはゆっくりと目を開け、目に掛かっている髪の毛を払おうと手を伸ばす。
「ぁ……れ?」
 その時、ムウの手に覚えのない物が触れた。
 額に何かが貼られている?と思ったムウは、それを恐る恐る剥がした。
「冷却シート?」
 俺、こんなの貼って寝たっけ?そんな事を、まだぼんやりしたままの記憶で辿っていると「あら、起こしちゃいました?」という優しい声が頭上から降りてきた。
 聞き覚えのあるその声に驚いたムウは、ベッドの中で勢い良く身体をねじり、声のした方を見上げた。
「マ……リューさん?」
 何が何だかイマイチ理解出来ない状態のムウは、呆然としたままマリューを見つめている。
「ハイネさんから教えてもらって……びっくりしたんですよ」「……あぁ、アイツかぁ」
 マリューのその言葉で、ムウはようやく現状を理解し始めた。
「そっか……」
 納得したのか、ほうっと溜息をついて目を閉じたムウに「まさか、あの鍵とメモが本当に役に立つなんて」と、マリューは苦笑交じりに告げる。
 そして、マリューはベッドの隣にひざまづくと「熱はどう?」と、ムウの額に自分の手を当てる。
「ぁっ?!」「さっきよりは、少しは下がったかしら?」
 突然のマリューの行動に目を見開いたムウは、口をパクパクさせたまま言葉が出てこない上に、顔が赤く上気してくるのに気付いた。
「あら?でも、まだ顔は赤いみたいですね。とりあえず、熱を測りましょうか?」
 マリューはそう言うと、真新しい体温計をムウの目の前に差し出す。
「あ……あぁ」
 布団の中からゆっくりと手を出しマリューから体温計を受け取ると、ムウはそれを自分の腋の下に挟み込んだ。

 しばらくして、体温計のピピッという音が聞こえるとムウはそれを取り出しマリューに差し出す。
「……平熱って、どれくらいです?」
 体温計の表示窓を見たマリューが、ムウを覗き込みながらそう訊ねると「んー……普通ぐらい」という曖昧な答えを返した。
「自分の平熱、知らないんですか?」
 マリューの少々呆れたような声に、思わずムウは「体温計、持ってないし……病気なんて、ここ数年してないしなぁ」と、少し掠れた声で答える。
 そんな言葉に「男の人って、そんなものなんですか?」と、マリューは溜息交じりに問い掛ける。
「まぁ、平熱は分からないけど……」「けど?」
 よいしょ……と言いながら、ムウはゆっくりと起き上がろうとする。
 すぐさまマリューはその背中を支えると、ソファーに置いてあったブランケットをその肩に掛けた。
「病院で点滴してもらってからずーっと寝てたら、かなり楽になったのは事実」
 少し微笑みながらそう告げるムウに、マリューは「本当ですか?」と少し苦笑しながら問い返すと「うん、ホント」とすぐに答えが返ってきた。

「とりあえず、身体を拭いて着替えた方が良さそうですね」
 そう言いながらマリューは、お湯を張った洗面器とタオルを持ってくる。
「着替え、どこにありますか?」
 固く絞った暖かいタオルを差し出しながらそう聞いてくるマリューに、ムウは慌てて「そ、それくらい自分で持ってくるよ」と、ベッドを降りる。
「まだ横になっていなくて大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ!それぐらいの事は、もう出来るよ」
 そう言うと、クローゼットの中から下着一式と新しいスウェットを持ってきた。
「身体拭いて着替えるくらい、自分で出来るからさ」
 着替えを手にベッドに座ったムウは、傍らで立ったままこちらを見つめているマリューにそう告げる。
 が、マリューは「背中ぐらい拭いてあげますよ?」と、ベッドサイドに置かれたタオルを手に取った。
「い、いや、あの……マリューさん?」
「ほら、シャツ脱いで下さい」「うわっ!」
 マリューは汗で湿ったムウのシャツを少々強引に引っ張ると、頭からスポンと脱がしてしまう。
 そしてベッドの上に乗るとムウの背中側に回り込み、その背中を暖かいタオルをで拭き始めた。
 首筋から背中まで優しく滑るタオルの暖かさが、ムウの心の深い所まで染み渡って行く。
 ……小さい時、風邪をひいて寝込むと、母さんもこうやって世話をしてくれたっけ……

「はい、早く着替えて下さい」「ん、あ……あぁ」
 マリューから洗い直された暖かいタオルを差し出されて、ムウは急に現実に引き戻された。
 そんな感傷に浸っていた自分が急に可笑しくなり、クスクスと笑いながらタオルを受け取ったムウに、マリューが「どうかしましたか?」と不思議そうな顔をする。
「……マリューさんの、えっち」「なっっ?!何を言うんですかっっ!」
 思わず自分の感情を隠そうとしてそう言ったムウを見返したマリューも、目の前に上半身裸の男性がいる事実に改めて気付き、急激に顔を赤く染めた。
 そんなマリューの様子を見たムウは、更に面白くなって「だって、俺の服を脱がすなんて……マリューさんって意外と大胆なんだ」とからかってしまう。
「そ、そういうつもりじゃありませんっ!」
 焦ったように立ち上がったマリューは、ムウに背を向けると「し、食事の準備しますから、早く着替えて下さい」と言い残し、小走りでキッチンに向かってしまった。
「俺が着替えてる時に覗かないでよ〜」
 そんなマリューの背中に追い打ちを掛けるかのように、笑いながらムウが声を掛けると「絶対に覗きませんっ!」という、少々興奮した声が返ってくる。
「……からかい過ぎたかな?」
 そう呟きつつ着替え始めたムウの耳に、キッチンから「熱っ!」という小さな叫び声が聞こえ、マリューがまだ動揺している事に思わず笑みをもらしていた。

 着替え終わったムウは、脱いだ服を洗濯機に入れようとキッチンへやって来た。
 その時、暖かい湯気の中に優しい香りが混じっている事に気付く。
「なんか……いい匂い」
 ポツリと漏らしたムウの言葉に、キッチンに立っていたマリューが振り返る。
「あ、洗濯物だったら私が洗濯しておきますから。フラガさんはまだ寝てて下さい」
 自分の真後ろで、くしゃくしゃに丸めたパジャマを手にしたムウと目があったマリューは、その腕から洗濯物を受け取り「もう少しでご飯も出来上がりますから」と彼の背中を押した。
「これくらい、自分で出来るよ」「まだ、少し熱があるんですから。大人しく寝てて下さい」
 半ば強引にムウをベッドの前まで押し戻すと、マリューはパタパタとキッチンに戻っていく。
 確かにまだ少し身体のだるさは取れていないな……そう思ったムウは、素直にベッドの中にもぐりこんだ。
 とは言え、さっきまで熟睡していたムウがすぐに寝られる訳もなく、ベッドの中でゴロゴロと寝返りを繰り返していた。

 しばらくして「お待たせしました」という声と共に、マリューがお盆の上に土鍋を乗せてやってくる。
「お粥、作ったんですけど……食べられそうかしら?」「んっ?」
 その声に弾かれたようにムウは再びベッドの上に起き上がった。
 ベッドサイドに置かれた土鍋の蓋をマリューが開けると、真っ白い湯気が立ち上る。
 それと同時に、懐かしく優しいお粥の香りが広がり、思わずムウのお腹がグゥと音を立てた。
「……食えるって言ってるよ、俺の腹の虫が」
 あまりのタイミングの良さに照れながらそう言うと「そうみたいですね」と、マリューも笑みを浮かべた。

 マリューは、まだクツクツと音を立てている土鍋から少量のお粥を茶碗に移すと「どうぞ」とムウに差し出した。
 が、ムウはそれを受け取ろうとせず「あのさぁ……甘えてもいいかなぁ?」と、マリューの方を振り返る。
「えっ?」
 不思議そうに首を傾げるマリューに、ムウはニコッと笑うと「俺、病人だからさ、食べさせて?」と告げた。
「えぇ〜っ?!」
 驚くマリューに対し、ムウは冷静に「あ、今日は俺の誕生日だしさ。だめかなぁ?」と話しかける。
「……もぅ……仕方ないわね」
 でも、今日だけですよ……と言うと、マリューは茶碗のお粥をレンゲで掬うと、それをふぅふぅと冷ましてムウの口元に持っていく。
「……はい、あーん」「あーん」
 少し照れながらそう言うマリューとは対照的に、ムウは嬉しそうに口を開けている。
 口に入れられたお粥を味わったムウは「美味しい!」と顔をほころばせ「もっと!」と次をせがんできた。
「はいはい、慌てるとヤケドしますよ」
 そんなムウに少し苦笑しながらも、マリューは次々と冷ましたお粥を口元に運び続けた。

 気付くと、土鍋いっぱいあったお粥は空っぽ。
「ごちそうさまでした」
 両手を合わせてそう言うムウに、マリューは「全部平らげるとは思わなかったわ〜」と笑っている。
 空になった土鍋を片付けたマリューは、暖かい白湯と薬を持ってムウの元に戻ってくる。
 それらを手渡されたムウは「あのさぁ〜」と、マリューの顔を見上げた。
「どうしたんですか?」
 マリューは床にペタッと座ると、ムウの視線も一緒に動く。
「何か、甘いものが食べたい」「え?」
 まだ食べるんですか?と、驚いたマリューに「だって、朝から何も食べてなくってさ」と、ムウは軽く笑っている。
 そんな様子のムウに、マリューは呆れながらも「ちょっと待ってて下さい」とキッチンに立った。

 シンクの上に置いたままだったスーパーの袋の中をガサガサと探る。
 が、その中にあるものといえば、マリューの朝ご飯用のコーンフレークと紅茶のティーパック。
「慌ててたから、リンゴ買うのを忘れてたわ……あ!」
 ブツブツと呟いていたマリューは何かを思いついたようで、自宅から持ってきたトートバックの中の紙袋を開けた。
「これでもいいかしら?」

 しばらくしてマリューが持ってきたのは、ガラスの器に入った黄色い果物。
「甘いものは何も買ってこなかったから、これしかないけど……」
 そう言ってムウに、ガラスの器を差し出す。
 そして、申し訳なさそうにフォークを差し出すマリューに、ムウは「これ……缶詰の黄桃?」と聞き返した。
「えぇ」と、マリューは苦笑したが、逆にムウは嬉しそうに「ありがとう」と礼を述べた。
 そしてすぐさま黄桃を1切れ口にする。
「本当はこれ、タルトに入れようと思って持ってきた物なんです」
 そうマリューが説明すると、黄桃を味わっていたムウがフッと笑みを浮かべた。
「懐かしい……」
 もう1切れの黄桃をフォークに刺し、それをマジマジと見つめながらムウがそう呟く。
「え?」
 てっきり呆れられると思っていたマリューは、ムウの言葉に拍子抜けする。
 するとムウは「実はさ……」と、苦笑しながらマリューの方に向き直る。
「俺が小さかった頃、風邪を引いて寝込むたびに、必ず母さんが缶詰の黄桃を食べさせてくれたんだよ」
「風邪をひいた時って、すりおろしたリンゴとかじゃないですか?」
 普通はそうだろうけどさ……と言いながら、ムウはまた黄桃を頬張る。
「あの頃は貧乏でさ。リンゴよりも安い缶詰……その中でも食べやすい黄桃を選んでくれてたんだよ」
 そんな告白をされたマリューは、以前少しだけ聞いたムウの生い立ちを思い出していた。
「そう……だったのね」
 それ以外にムウに掛けられる言葉が見つからなかったマリューは、やっとの事でその一言を発する。
 が、予想外にムウはあっけらかんとした様子で「俺にとっては黄桃の缶詰って、風邪の時だけのご馳走だったんだよな」と、嬉しそうにフォークに刺した黄桃を見つめていた。
「じゃぁ……」
 マリューはそう呟くと、黄桃を刺したままのフォークを持ったムウの手を、自分の手で包み込む。
「これからは、フラガさんが寝込んだら私が看病しますから」「……ホントに?」
 今更ながら驚いた顔をしたムウがそう聞き返すと「ちゃんと黄桃の缶詰も食べさせてあげます」と、マリューがニッコリ微笑みを返す。
 そして、包み込んだ両手の先にある黄桃を、ムウの口元に持っていく。
「はい、どうぞ」「ありがと」

 黄桃を口にしたムウは嬉しそうにそれを味わうと「風邪ひいて最悪かと思ったけど、マリューさんが傍にいてくれるなら、最高の誕生日だな」とマリューを見つめる。
「フラガさんが寝込んだって聞いた時は驚いたけど、でもこうして貴方の生まれた日に一緒に過ごせて良かった」
 そう言ってマリューは頬を少しだけ赤くした。
「ありがとうな、マリューさん」
「いえ……フラガさんこそ、産まれてきてくれてありがとう」
 そう感謝の気持ちを表そうと思い、マリューの肩を抱きしめようとする。
 が、その腕はマリューを抱きしめると思った瞬間、すっと引かれてしまう。
「抱きしめたいけど、マリューさんに風邪をうつしちゃマズイから……ガマンする」
 ぐっと手を握って、口をへの字に曲げたムウがそう言うと、思わずマリューがクスクスと笑い始める。
「フラガさんの風邪ならば、貰ってもいいわ」「じゃぁ……」
 マリューの言葉に少し驚いたものの、ムウはすぐにその腕で彼女を抱きしめた。
「私が風邪をひいたら、今度はフラガさんが看病してくれますよね?」
 相変わらずクスクスと笑っているマリューに、ムウは「当たり前だろ!」と、更にその腕に力を込めたのだった。


 それから2日後。
 マリューが風邪をひいて会社を休んだのは、また別のお話。



なんとか間に合いました!
とりあえず、今回のコンセプトは、ズバリ『弱ムウ』(爆)
マリューさんに、風邪をひいたムウさんの看病をしてもらおう!と思い立って書き始めました。
が……最後の方は、あまり『弱ムウ』じゃなくなってしまったかも?(苦笑)

って事で、ムウさんハピバ!!
来年も、こうしてお話を書けたらいいなぁ〜(願望



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