そろそろお風呂にでも入ろうと思ったマリューが、買ってきたばかりのバスキューブを手にした時だった。

 突然、来客を告げるチャイムが部屋中に響く。
「こんな時間に誰かしら?」
 不思議に思いながら玄関のインターホンのモニターを覗いたマリューは「うそっ?!」と叫んでいた。
 そこに映し出されていたのは、大きな荷物を手にしたまま、肩で息をしているムウの姿。
 驚いた彼女は、慌てて玄関の扉を開けると、何故か懐かしくて甘い香りがほんのりと鼻をくすぐる。
「あぁ……良かったぁ、マリューさん起きててくれて」
 額にうっすらと汗をかいたムウは、驚いたマリューの顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「フラガさん、どうしたんです?こんな時間に?」
 明日、会う約束をしていた人物が突然目の前に現れた事で、マリューは玄関先で立ち尽くしていた。
「さっき<オアシス>に立ち寄ったら、マスターから今日がマリューさんの誕生日だって聞かされて……」
 よかったぁ、なんとか12日に間に合ったよ〜と、自分の腕時計を見ながらホッとした様子のムウに、マリューはとりあえず……と、言葉をかける。
「中に入りませんか?お隣さんの迷惑になるといけないし」
 そう促されたムウは「あぁ、そうだよな」と肩をすくめ、手にしていたスーツケースをゴロゴロと引っ張って玄関の中に入った。
 そして、靴を脱いだ瞬間、そのまま目の前のマリューをギュッと抱きしめる。
「フ、フラガ……さん?」
 思いもかけないムウの行動に、マリューが驚く。
「1週間ぶりのマリューさんだ……」
 そう耳元で囁きながらマリューの髪に顔を埋めるムウからは、再び甘い香りがしていた。

「あ、あの……とにかく、座りませんか?」
 しっかりと抱きしめられて、しばらく身動きが取れなかったマリューが、やっとの思いでそう告げると、さすがのムウも「そうだな」と苦笑し、その腕を解放した。
 そして大きなトランクと一緒に持ってきた紙袋を手にすると「あのさ……」と、先程とは違い、少し戸惑ったような声を掛ける。
「はい?」
 再び不思議そうに振り返ったマリューに、ムウは紙袋の中にゴソゴソと手を入れる。
「まさか今日がマリューさんの誕生日だなんて、俺、知らなくてさ。何も準備してなかったんだよ」
 だから、こんな物しかなくて……そう言いつつ紙袋から取り出したのは、どこかで手折ってきたらしい一振りの枝。
 その瞬間、先程からムウに纏わり付いていた物と同じ、甘い香りが部屋一面に広がる。
「この香り……金木犀!」
 懐かしい香りに嬉しくなったマリューは、差し出されたその枝を受け取ると、大きく息を吸い込む。
「本当は、もっといい物をマリューさんに贈りたかったんだけどさ、なんせこの時間だろ?店なんてコンビニぐらいしかやってなくてさ……」
 そう言いながら頭を掻くと、ムウはもう一度紙袋から何かを取り出す。
「コンビニに行っても、ケーキも売り切れだったし。ケーキの代わりになりそうな物は、コレしかなくてさ」
 紙袋から取り出したのは、何やらいっぱい買い込んだ様子のコンビニの袋。そして茶色い箱が2つ。
「別に気にしなくても良かったのに……」
 そうマリューが苦笑交じりで告げると、ムウは「いや!」と少し語尾を強く言い切る。
「俺の大切なマリューさんの記念日、何もしない訳にはいかないよ」
 そう言うとジャケットを脱ぎながら「あ、キッチン借りるよ」と微笑んだ。
「あの、何するんです?私も手伝いますけど?」
 マリューがムウにそう声を掛けると「いいから、マリューさんは向こうで待ってて」と、脱いだジャケットと外したネクタイを手渡され、背中をリビングの方に反転させられる。
 そのままムウを振り返ると、彼は鼻歌交じりでキッチンに向かっていた。
 向こうで待つしか、私の選択肢はないみたいね……そう思ったマリューは、手にしていたムウのジャケットとネクタイをハンガーに掛けた。
 そして、洗面所から持ってきた花瓶に金木犀の枝を飾ると、それをリビングのローボードの上に置き、自分はソファーに腰を下ろした。

 待つ事30分。
「お待たせ!」
 その間なんだか落ち着かず、手にした雑誌をただめくっているだけだったマリューが、ムウの声でハッとして顔を上げた。
「こんな物だけどさ……とりあえず、ケーキの代わりって事で……」
 苦笑しながらムウがテーブルに置いたのは、2つのマグカップ。
 その中からは、ふんわりとしたスポンジケーキが盛り上がっている。
「冷めてからじゃないと、ケーキの上に生クリーム飾れないからさ、ちょっと時間かかっちまった」
 そう言うと、マリューの目の前に置かれた夕焼け色のマグカップのケーキの上に、生クリームで装飾を始めた。
 ムウの大きな手が、器用にケーキの上にハートを描く。
「えっと……誕生日おめでとう、マリューさん」
「ありがとう、フラガさん」
 目の前でそう言われたマリューは、少しくすぐったいような気持ちではにかんだ笑顔を見せる。
「あ、味は心配ないと思うから食べてみて」
 そう言いつつ笑うムウは、海の色をしたマグカップのケーキの上にムニュムニュと生クリームを搾り出している。
「フラガさんって、お菓子作りが得意なんですか?」
 マグカップを手に持ち、フォークでケーキを掬い上げたマリューが、不思議そうに訊ねると、それをぱくりと口にする。
「いや、お菓子なんて作った事ないよ」
「え?でも……美味しいですよ!」
 ふわふわのスポンジケーキはしっとりしていて、バニラの良い香りもする。
「だってコレ、混ぜてマグカップに入れて、電子レンジでチンするだけのケーキだからさ」
 そう言ってヘヘヘッと笑うと、ムウもマグカップのケーキを口にする。
「そういう事だったのね」
 素直に白状するムウに、思わずマリューも笑ってしまう。
「でも……ありがとう、フラガさん」
 出張から帰ってきたばかりなのに、私の為に即席とは言え、わざわざケーキを作ってくれた事に、マリューは心の中が暖かくなりお礼を言う。
「いや、お礼を言うのは俺の方だよ。産まれてきてくれて、こんな俺と出会ってくれてありがとう」
「私こそ……ありがとう」

「にしてもさ……なんで今日が誕生日だって事、俺に教えてくれなかったのさ?」
 一口二口とケーキを頬張ったムウが、改めてマリューに問いただした。
「だって……」「だって、何?」
 少し小さな声でそう言うと、マリューはフォークを持っていた手を止める。
「この歳になって自分の誕生日を教えるなんて、まるで「祝ってくれ」って言ってるみたいでイヤだったの」
 俯き加減でポツリと答えたマリューに、ムウはフッと笑うと「ばかだなぁ」と、彼女の頬にそっと触れた。
 その感触に気付いたマリューが顔を上げると、優しい笑みを浮かべたムウの瞳とぶつかる。
「俺、マリューさんの事、知ってるようで知らない事の方が多いんだ。だから、どんな些細な事でも教えて欲しい」
「フラガ……さん」
 少しずつムウが近付いて来て、マリューの頬がポッと赤く染まる。
「2人の時ぐらい、ムウって呼んでよ」
 耳元でそう囁いたムウは、そのままマリューの赤い頬にキスを落とす。
「うれしい時でも悲しい時でも、俺はいつでもマリューの傍にいるから」
「ムウ……ありがとう。私も、あなたの傍にいたいわ……」


 なんとなく、そのままムウの胸に抱きしめられていたマリューは、疑問に思っていた事をフラガに聞いてみる事にした。
「あの……」「ん?」
 自分の頭上から返事をしたムウに「2つほど、聞きたい事があるんですけど」と問い掛ける。
「何?」
 マリューはぐいっと顔を上げると「あのマグカップ、どうしたんですか?」と、テーブルの上の夕焼け色と海の色のそれを指差す。
 ゆっくりと腕を解きマリューが身体を起こすと、ムウは海の色のマグカップを手に取った。
「実はコレ、出張先のお土産でさ……自分用とマリュー用にって思って買ってきたんだ」
 そう言われたマリューは、ムウの出張先が焼き物の産地として有名だった事を思い出す。
「ちょうど<オアシス>のマスターから頼まれててさ。ペアのマグカップが欲しいってね。その時に見つけたんだ」
 俺たちのはペアって訳じゃないんだけど……と苦笑するムウに「コレ、私がもらっていいの?」と、マリューは夕焼け色のマグカップに手を伸ばす。
「あぁ、コレはマリューの為に買ってきた物だから」
 そのマグカップを両手で包み込むようにして持ったマリューは「ありがとう、ムウ」と、嬉しそうに微笑んだ。


「それと……あの金木犀、どうしたんです?」
 マリューはそう言いながら、今度はローボードの上で甘い香りを放っている金木犀の花瓶に視線を動かした。
 同じように金木犀を見たムウは「あぁ。あれは、オアシスのマスターから貰ってきたのさ」と笑う。
 そう言われたマリューは、つい数時間前までいた店の事を思い出す。
 ……確かに、オアシスの近くに来たら金木犀の香りがしたわ。でも……
「オアシスのどこに金木犀の木があったの?」
 首を傾げるマリューに、ムウは「それはな……」と説明し始めた。

 大慌てでオアシスを飛び出したムウは、駅への近道を走ろうと思い、店の裏手に方向転換をした。
 その時、店の裏庭から甘い香りが漂ってきたのだ。
 思わず足を止めたムウの目に飛び込んできたのは、可憐な黄金の花を満開に咲かせた金木犀の木。
 そのままオアシスの裏口から店内に飛び込んだムウは「なぁ、マスター!あの金木犀、一枝貰うぜ!」と大声で叫んだ。
「なっ?!フラガかっ?」
 意外なところからしたムウの声に驚いたバルトフェルドが裏口を覗いた時、すでにムウは金木犀の枝を手に走り去っていたのだ。

「それって、マスターから許可もらってませんよね?」
 強引なムウの行動が目に浮かんだのか、マリューがクスクスと笑う。
「ん……そうかなぁ?」
 ムウは、ハハハッと軽く笑って頭を掻く。
 が、急に声のトーンを落とすと「けどさ……」と、マリューを見つめる。
「きっと、マリューさんが生まれた時も、こうやって甘い香りで包んでいてくれたんだと思うな。あの花がさ」
「えぇ。小さい頃から、誕生日の頃になると金木犀の香りがしていたわ」
 部屋中に広がるキンモクセイの甘い香りに包まれた2人は、お互いに見詰め合って優しく微笑みあうのでした。



なんとかマリューさんの誕生日に間に合ったかな?(苦笑)
そんな訳で、金木犀です。
この時期になると、窓を開ければ香ってくる花の香りで、ムウを誘ってみました(ぇ?

きっと、翌日<オアシス>へ、昨晩のツケを支払いに行ったムウに
バルトフェルド達は金木犀の枝の代金も加算すると思われます(爆)



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