花のかほりにつつまれて



 特別な日と言えば、そうなのかもしれない。
 しかしその日も、マリューは普段と変わること無い1日を過ごすつもりでいた。

 なんとなく社内公認の仲となったムウ・ラ・フラガは、1週間前から出張に出かけているが、予定では今日の夕刻、会社に戻ってくる予定である。
 午前中に彼から届いたメールで、今夜は1週間ぶりに一緒に食事に行く約束をしたばかりだった。
 ……付き合い始めてから1週間も顔を合わせなかったのって、初めての事かも……と、妙にドキドキしながら何度も時計を気にしている自分に、さすがのマリューも苦笑していた。
 しかも、彼が帰って来る今日が自分の誕生日なのだ。
 ムウと会える事が、今のマリューにとっては最高の誕生日プレゼントだと思い、彼には何も言わず、いつもと同じ時間を過ごすつもりだったのだ。
 ただ会って食事をして、他愛のない話……さしずめ今日は、お互いの1週間の報告……をするだけで、マリューは幸せだと思っていた。

 が、マリューにとって幸せな誕生日になるはずだった今日が、たった今届いたメールで、全て白紙に戻ってしまった。

 デスクの目の前に無造作に置いてある赤い携帯に、青いランプが灯り、控えめにブルブルと震えだす。
 ふと気付いたマリューがそれを手に取ると、その表示窓に最愛の人の名が表示されていた。
 今頃は飛行機に乗ってるはずじゃなかったかしら?……そう不思議に思いながらメールを開封する。
『ごめん。実は今、まだタクシーの中なんだよ。どうやら事故渋滞に巻き込まれたようで、なかなか前に進まない。おかげで、予約していた飛行機に乗り遅れちまった』
 簡潔な文面から、ムウが焦っている事がマリューには読み取れた。
「って事は、まだ飛行機に乗ってないのね……」
 はぁ〜と、小さく溜息をついたマリューは、それでも気を取り直して「焦らず気をつけて帰って来てくれればいいから」とメールの返事を返し、携帯の画面を閉じた。

 なんとなく落ち着かないまま、ムウが帰って来るはずだった時間が過ぎた頃、再びマリューの携帯にメールが届いた。
 もちろん、送信者はムウである。
『やっと、別の便の飛行機に乗れる事になったよ。でも、そちらに帰れるのは10時を過ぎそうだ。本当はマリューさんに会いたいけど……』
 落胆しながらメールを打っていたであろうムウの姿が目に浮かんだマリューは、無事にムウが帰ってこられる事にホッとしつつも、今日は会えそうにない事に同じように落胆している自分にも気付く。
 しかし、出張から遅く帰って来る恋人が疲れているという事もよく理解できる。
 そう思ったマリューは『今日はあなたも疲れたでしょうから、ゆっくりと休んで下さい。明日からお休みなんだし、その時に会えればいいわ』とメールを返す。
 ほどなくして、再び届いたムウからのメールには『本当は、マリューさんの顔を見れば疲れなんて吹き飛ぶだろうけど(笑)でも、夜遅くに押しかけるなんて迷惑だろうから、また明日に』と、少し残念そうな言葉があった。
 そんなムウの一言に少し嬉しくなりつつ『あなたに会いたいのは私もよ。でも、今日は休んで。明日は会いたいわ。会えるかしら?』と返事を送る。
 するとすぐさま『明日は絶対にマリューさんと1日一緒に過ごしたい!』というメールが届き、思わずマリューもクスッと笑みを漏らしていた。


 結局、夜の予定がなくなったマリューは、仕事が終わると近くのデパートで買い物をし、その足で<オアシス>に向かう事にした。
 買い物と言っても、翌日の朝食用のデニッシュ1個と、特別な日にしか買わない、ちょっと高級なバスキューブだけ。
 その小さな袋を手にしたまま、マリューは<オアシス>の扉を開けた。

「イラッシャイ!……あぁ、マリューさん!」
「こんばんは」
 さすが週末のディナータイムだけあって、店内のテーブルは満席。
 ぐるりと辺りを見渡したマリューは、躊躇する事無くカウンター席に座った。
「おや?ラミアスさん1人なのか?」
 奥の調理場から皿を手にして出てきたバルトフェルドが「フラガと一緒じゃなかったのか?」と、笑いながらマリューに声を掛ける。
「フラガさん、出張先から帰って来るのが遅くなりそうなんです」
 苦笑しながらそう答えるマリューに水の入ったグラスとお絞りを差し出したアイシャが「イマゴロ、フラガさん悔しがってるンじゃない?」と笑っている。
「そうかもしれないわね」
 飛行機の中でイライラとている様子が目に浮かぶようで、マリューも思わずクスクスと笑うと、グラスの水に口を付けた。

「で、キョウは何にする?」
 カウンターの中で忙しそうにしているアイシャにそう聞かれて、マリューは「う〜ん」と考えながら、メニューをパラパラとめくる。
「今日はせっかくだから奮発して……ヒレステーキセット!」
 勢い良く言い切ったマリューの様子に、バルトフェルドが思わず「今日は何かいい事でもあったのかな?」と聞き返す。
「別にいい事なんてありませんよ。約束してたフラガさんとは会えなさそうだし、私はまた1つおばさんになっちゃったし……」
「エッ?!マリューさん、キョウが誕生日なの?」
 黙ってるナンて、水クサイわヨ〜……と、言いながら、アイシャがワイングラスを取り出している。
「だって、もうお祝いするような歳じゃないわ」
 あっという間にワインのコルクを抜いたアイシャが、照れたように笑うマリューの目の前に、深い赤色のワインを注いだグラスを差し出す。
「誕生日は、産んでもらえた事を感謝する日でもあるしな」
 そう言ってマリューの目の前に、バルトフェルドがスープの皿を置く。
「そうですよね」
 目の前に置かれたワイングラスに困惑した様子のマリューに、アイシャが「コレは、ワタシ達からのプレゼントよ」と、無理矢理マリューの手に握らせる。
 そしてバルトフェルドにも同じワイングラスを手渡すと「マリューさんが産まれてキテくれて、ワタシ達と出会えたコトに、カンパイ!」と、自らのグラスを目の前に掲げる。
「マリューさんと出会えた事に、乾杯!」
 バルトフェルドもそう言うと、同じようにグラスを掲げた。
「あ、ありがとうございます」
 こうして自分の誕生日を祝ってくれる人がいる事に、少し喜びを噛みしめつつ、マリューも手にしたグラスを目の前に掲げていた。


 マリューのささやかな誕生日パーティーが終わり<オアシス>の営業時間もそろそろ終わりに近付いた頃、大きなトランクをゴロゴロと引いたムウが白い扉を開けた。
「おや、やっと帰ってきたのか?」
 すっかり疲れきった様子で店に入ってきたムウに、バルトフェルドが笑いながら声を掛ける。
「おぃ、俺も一応お客なんだけどなぁ」
 そんな出迎え方あるのかよ……と、深い溜息を付きつつ、いつものようにカウンターの席に腰を下ろすと手にしていた紙袋の中から茶色い箱を取り出す。
「ほら、コレ……頼まれてたヤツ」
 そう言って差し出された箱を受け取ったバルトフェルドは「悪いな」と言いつつすぐさまその中から、タンポポ色のマグカップを2個取り出し、嬉しそうに眺めている。
「フラガさん、ココでこんなコトしててイイの?」
 一応、お客サンだから……と、水の入ったグラスとお絞りを差し出しながら、アイシャが溜息交じりでそう切り出す。
「こんな事って言うけど、やっとコッチに帰ってきて、腹ペコなんだぜ。何か食わせてくれたっていいだろ?」
 頼まれてた物も買ってきたんだしさぁ〜と、ムウは頬杖をつきながら、目の前の水を一気に飲み干す。
「だったら急いで食べて、行く所あるんじゃないのか?」
 そう言うと、まだ何も注文していないムウの目の前に、バルトフェルドはサンドイッチを差し出す。
 それを掴んですぐさま齧り付いたムウは、モゴモゴと口を動かしつつ「行く所って?」と、不思議そうに聞き返した。
「アノねぇ〜、キョウ約束してたンじゃナカッタの?マリューさんと会うって」
 あきれ返った様子でそう言い放ちながら、アイシャがムウの目の前にオレンジジュースを差し出す。
「あぁ、約束してたけどさ、帰ってくるのが遅くなるし、そんな遅い時間まで彼女を待たせてるのも悪いだろ。仕方ないから、約束は明日に変更したワケ」
 そこまで話すと、手にしていたサンドイッチを一気に口に放り込み、ジュースに手を伸ばした。
「……お前、今日が何の日か、本当に知らないのか?」
 ジュースを飲みつつも、2切れ目のサンドイッチに手を伸ばしていたムウに、バルトフェルドが少し驚いたように問い掛ける。
「ん?何の日って言われてもなぁ……」
 首を傾げてそう言うと、ムウは再びサンドイッチに齧り付く。
「マリューさん、何も言ってなかったンだ……」「えっ?マリューさん?」
 アイシャの口から、溜息交じりでマリューの名が出てきた事に、ムウは驚いた表情になる。
「今日は、マリューさんの誕生日だそうだ」
「ん、ぐっっ!はっっ!?」
 バルトフェルドの言葉に、ムウは驚いて飲み込みかけていたサンドイッチが喉に詰まりそうになり、慌ててジュースで流し込む。
「お、おい!今、何て言った?!」
 思わず立ち上がり、カウンター越しのバルトフェルドに詰め寄るようにムウが問い掛けると、今度はアイシャが「ダカラ、今日はマリューさんの誕生日なのヨ」と、苦笑する。
「そ、そんな事、俺……知らなかったぞ!」
 そう言うと、ムウは自身の腕時計を見る。
 時間は10時半。
 今からならば、日付が変わる前にはマリューのアパートには着けるはず。
 そう考えたムウは「マスター!今日の代金ツケといてくれ!」と言うと、スーツケースを掴んでドタバタと店を後にした。

「なあアイシャ。今日の分のアイツの代金、いくらもらうかな?」
 勢いよく閉められ、カランカランと甲高く鳴るドアベルの音に苦笑しながら、バルトフェルドが切り出す。
「ソウネ……サンドイッチとオレンジジュース、それからマリューさんのジョウホウ料で1000円ってところカシラ?」
 クスクスと笑いながらアイシャがそう言うと「なるほど。明瞭会計だな」と、バルトフェルドも笑っていた。