そして、ムウとマリューの間に何も進展がないまま、バレンタインの当日を迎えた。

 終業時刻の鐘が鳴ったのは、今から1時間程前の事である。
「よし。これでOKだな」
 部長に提出する書類の作成をしていたムウは、プリントアウトされたそれに目を通すと、うーんと大きく伸びをする。
 そしてその書類やパソコンを片付けると腕時計をチラリと見やる。
「6時10分か……。もうパーティーが始まってるな」
 そう独り言を呟くと、荷物を仕舞った鞄を手にし、すっかり誰もいなくなった部屋を出た。

 所々明かりが落とされ薄暗くなった廊下を歩きつつ、ムウは小さく溜息を付いた。
 そして「俺があの場に行くと、他の男どもが引くよな……」と、そんな事を思う。
 社内じゃ有名なプレイボーイ……同性からは、あまり良くは思われちゃいないだろう……。
 そんな俺が、バレンタインのパーティーなんかに顔を出したら、嫌味を言ってくる輩もいるんだろうなぁ。
 「女漁りにでも来たのか?」……ってな具合にさ。

 そんな事を考えつつ、ムウは会社の玄関を出て足を止めた。
 ……マリューさん、ホントに来てるのかな?だったら行かなきゃなぁ……
「でも……な」
 ムウは立ち止まったまま、星が瞬き始めた薄紫色の空を見上げる。
「確か、パーティが終わるのは8時だったよな……じゃあ、7時頃に行きゃぁいいよな」
 白く輝き始めた月を眺めながらそう呟くと、ムウは『オアシス』とは別の方へ歩き出した。

 近くのファーストフードに入ったムウはハンバーガーのセットを頼み、そこで1時間ほど時間を潰した。
「そろそろ頃合かな?」
 腕時計で時間を確認し、鞄を抱え立ち上がると、トレイを片付け店を後にする。
 そしてゆっくりとした足取りで『オアシス』へと向かった。


 『オアシス』の近くまでやって来ると、そこからは楽しそうな笑い声が聞こえる。
 その扉の前に立ったムウは、少しだけ躊躇してからドアノブに手をかけた。
 扉のベルが鳴らないようにと、ゆっくり扉を開け、中の様子を伺うようにして店内に足を踏み入れる。

 いい程遅刻をしてきた自分をその場にいた全員が見るだろうと思っていたムウは、誰もコチラを振り返らなかった事に少し驚いた。
「あ……れ?」
 ちょっと拍子抜けしたムウは、それでも足音を忍ばせるかのようにしていつものカウンターの席へと移動する。

 中庭に面した窓際のテーブルでは、顔を赤らめたイザークにフレイが何やら楽しげに話しかけている。
 そのフレイと背中合わせのようにして座っているのはミリアリア。
 彼女の正面では、ディアッカが両手を合わせて彼女に謝っているようだ。
 ……アイツ、またお嬢ちゃんを怒らせるような事をしたんだな……そんな事を思いながら誰も座っていないカウンターの椅子に腰掛けた。

「アーラ、来ないのかと思ったワ」
 そう言うなり、アイシャがムウの目の前に細長いシャンパングラスを置く。
「いや、ちょっと残業しててさ」
 フロアを見ていたムウは、その声でカウンターの方を振り返りながら言い訳をする。
「まぁ、みんなそれぞれ意中の相手と、楽しくやってるようだな」
 奥の厨房から姿を現したバルトフェルドが、ムウのグラスにシャンパンを注ぎ、チーズを盛り合わせた皿を目の前に差し出した。

「サンキュ」と、そのグラスに口をつけたムウは改めてフロアを見渡し、目的の人物の姿を探す。

 入り口の反対側のテーブルには、ノイマンとナタルが。
 フロアの真ん中では、カガリとアスランの姿を見つけた。
 それ以外にも、何組ものカップルがフロアのあちらこちらで話しに花を咲かせている。
 が、ムウが探している人物の姿は、フロアのどこにも見つからない。
「やっぱ、来てないか……」
 そう小さく呟いたムウに、アイシャがクスッと笑いながら声を掛けた。
「マリューさんならば、カイギが長引いてるって、ミリィちゃんが言ってたワ」
「え?」
 その言葉に、ムウは驚いて再びカウンターの方に向き直る。
「心配するな。彼女はきっと来るよ」
 もう少し待ってみろ……そうバルトフェルドに言われたムウは「ん……あぁ」と、少しばかり気の抜けた返事を返すと、再びフロアを振り返る。
「ダメねぇ。タマシイ抜けてるヨ」
 フロアを眺めて肩を落とすムウの姿にアイシャが苦笑しながらそう言うと、すぐさまバルトフェルドも「確かにな」と苦笑しながら相槌を打った。


 ムウがカウンターで20回目の溜息をついた頃、ようやく会議から解放されたマリューは、ヒールの音を響かせながら暗い廊下を走っていた。
「もぅ、やだぁっ!」
 泣きそうな表情で小さな紙袋を抱えたマリューは「もしかしたら?」と思い、営業課の部屋の前を通る。
 が、すでにその部屋には灯りはなく、物音1つ聞こえない闇の中。
「……フラガさん、やっぱり帰っちゃったわよね」
 そう小さく呟くと、非常灯の緑色の灯りが灯る廊下で深いため息を付く。そして抱えていた紙袋を見つめると、トボトボとした足取りで玄関に向かった。

 こんな時間じゃパーティーもあと30分で終わっちゃうし……って、フラガさんが来てるとは限らないし……
 そう考えたマリューは、やっぱり帰ろう……と思い、駅に向かって歩き出した。
 その時、携帯からメロディーが流れ出す。慌ててバックから取り出し通話ボタンを押すと「あー!ヤット出てくれたワー」という声が聞こえた。
「あら、アイシャさん?」「ソウヨー」
 予想外の人物の声に驚いているマリューに対し、声のトーンを落としたアイシャが「モゥ、今どこにイルの?待ちクタビレてるわよ、フラガさんが」と小声で告げる。
「えっ?!」
 人通りの少なくなったとは言え、大通りの真ん中でマリューは思わず大声をあげていた。
「ウソジャないヨ。マリューさんがクルのを、ずーっとマッテルわ。って、モシカシテ……今日のパーティー忘れてた?」
 そう聞かされたマリューはハッとして、胸元に抱えていた紙袋をギュッと握り締める。
「わ、私……会議が長引いちゃって、時間も遅くなったし。だから、もう帰ろうって……」
「モー、イイワケは後!早くコッチニ来て!」
 もうすぐ、コクハクタイムの時間になるわヨー!と、アイシャは笑いながら教えると「ジャあねー」と一方的に電話を切っていた。

「本当に、フラガさんが待ってるの?」
 半信半疑ではあったが、アイシャが言うのならば間違いはないのだろう……。
 そう思ったマリューは青白く光る月を見上げる。と、その時、一筋の流れ星が月に吸い込まれるかのように、儚い光を放つ。
「あ……流れ星」
 それに気付いたマリューは小さく微笑むと「よしっ」と気合を入れ『オアシス』へと向かった。


 ……はぁ……
「あー、26回目だワ」「えっ?何が?」
 あれからずっとカウンターから入り口を眺めていたムウが、突然アイシャに話しかけられる。
「何がって……フラガさんのタメイキ」
 もぅ〜、ジブンじゃ気付いてないのネーと呆れた様子のアイシャに対し、ムウは言われるまでジブンがそんなにも溜息をついていた事を知らなかった。
「……ってか、人の溜息なんか数えんなよ……」
 そう悪態を付くと、再び溜息を付く。
「27回目だな」「マスターまで言うのかよ……」
 面白いものでも見るようにムウを見ながら、バルトフェルドは小さく笑っている。

 更にふてくされたムウがカウンターに頬杖をついた時、後ろから「マスター、ワインのおかわりを頂けますか?」という生真面目な声がする。
「バジルールさん、そんなに飲んでも大丈夫なのかな?」
 笑顔で新しいグラスワインを差し出すバルトフェルドに、ナタルは「……いえ、これはノイマンの分です」と、少しばかり恥ずかしそうにそれを受け取ろうとした。
 その時、カウンターに頬杖を付いている金髪の人物に気付いたナタルが、驚きと怒りの混じった声をあげた。
「な、なんでフラガさんがここにいるんですかっ?!」
 名前を呼ばれたムウは、のろのろとした動作でナタルの方を振り返り「……スマンな」とだけ答える。
「今日は、招待状を貰った人だけのパーティーなんですよ!」
「あぁ、知ってるよ」
 それだけ言うと、ムウは胸ポケットからピンクの封筒を取り出す。
 招待状が出てきた事に驚いたナタルは「誰かは知りませんが、その招待状をフラガさんに渡した事、私は認めません!」と、力の抜けた表情のムウに食って掛かる。
「何故、あなたみたいなプレイボーイが、その招待状を持っているんですか?!」
 カウンターから響いたナタルの声に、その場にいた全員の視線がムウの背中に集中する。
「ナタル!」
 その様子に驚いたノイマンが、慌ててナタルの肩を両手で掴む。
「ノイマン、離して!私はこういういい加減な男が、ここにいる事が許せないんです!」「ナタル!やめろって!」
 嫌だと言わんばかりにノイマンの腕の中で暴れるナタルと、何を言われても反論しないムウの様子に、思わずバルトフェルドが口を挟んだ。
「ここにいるフラガは、今までのフラガとは違うんだ。1人の女性を大切に思い、大切に思われているから、俺が招待状を渡した」
 じゃなきゃ、俺がとっとと追い返している……そうキッパリとバルトフェルドが言い切ると、ナタルは「そ、そんなの、私は信じられません!」と、更に抗議の声を出す。

 その時だった。
 店の扉がカラランと鳴り、入り口から息を切らしたマリューが飛び込んで来た。
「フ、フラガ……さん?」
「えっ?マリューさん?!」
 マリューの声に、今までカウンターに釘付けになっていた人々が、今度は一斉に入り口の方を振り返る。
「ラミアス先輩?!どうして、あなたが……?!」
 入り口でムウの名を呼んだ人物が、ナタルが一番あってはならないと思っていた人物であった事に驚き、その続きが口から出てこなくなる。
 そんなナタルを尻目に、ムウは驚きと喜びの混じった表情で弾かれたように立ち上がっていた。
「サァ、みなさ〜ん!バレンタインの告白タイムですヨ〜!」
 その時、アイシャがフロアに響き渡る声でそう告げると、隣にいたバルトフェルドが部屋の明かりを落とす。

 真昼のような明るさが消え、テーブルの上のキャンドルの炎だけでフロアがぼんやりと照らし出される。
 と同時に、他の人の声が気にならないように……と、少しだけBGMのボリュームが上げられた。

「ナタル……フラガさんのあの表情見れば分かるだろ?」「……ノイマン」
 あの人、本気だ。心配ないよ……そうノイマンに耳元で囁かれたナタルは、咄嗟の事だったとは言え、自分がノイマンの腕の中にいる事に気付き、一気に顔が赤くなっていた。

 それぞれが手を取り合い、中には抱き合う……そんな姿が淡いオレンジの光で揺らめく中、まるでその場に繋ぎとめられたかのように、ムウは身動きが取れずにいる。
 そんな彼の元へ、ゆっくりとマリューが近付いた。
「あの……フラガさん。これ……」
 マリューは小さな声で告げながら、大切に抱えていた紙袋をムウに差し出す。
 それを受け取ろうと手を伸ばしたムウは、思い切ってその紙袋と共にマリューの手を引き寄せた。
「きゃっ」
 突然、手を引っ張られたマリューは、小さく声をあげるとムウの胸に閉じ込められる。
「フ……ラガさん?!」
 突然の行為に驚いたマリューが、しどろもどろで相手の名を呼ぶ。
「あのさ、このまま2人でエスケープしない?」「えっ?!」
 そんなムウの申し出にマリューが返事を返せないでいると、彼はそのまま彼女の手を取りカウンターの横を通り抜けた。
 厨房横の暗い廊下を進み、裏口から通りに出る。そして、そのまま通りを走り出す。

 会社の横を通り、大通りを横断する。
「あ、あのっっ!何処へ行くんですか?」
 引っ張られるようにして走らされていたマリューが、思わず目の前を走るムウに声を掛けた。
「こっち!」「えっ?!」
 ぐいっと引っ張られる感覚で、マリューは改めてムウと手を繋いでいる事に気付き、急に顔が火照り始める。
 顔を真っ赤にしながらムウに引っ張られていたマリューは、正面に見える噴水で駅前の公園にたどり着いた事に気付いた。

「ごめん……急に走ったりして」
 ははははっと軽く笑いながら立ち止まったムウは、手を繋いだままでマリューの方を振り返る。
 そんな相手にマリューは、はぁはぁと荒い息遣いのまま「あ、あの……手……」と告げた。
「あ……ダメ……だった?」
 恥ずかしそうに俯くマリューに、ムウは心配そうになっておずおずと尋ねる。
 が、逆にそう聞かれたマリューは、ふるふると首を横に振り「恥ずかしかったんです……」と消え入りそうな声で答えた。
「大丈夫。誰も見てないから」
 ムウはそう微笑むと、繋いでいた右手に自身の左手を重ね、マリューの左手を優しく包み込む。
「でも、人前で手を繋ぐのをやめて欲しいって言うなら、やめるけど……」
 俯き加減のマリューの顔を覗き込むように、ムウが身を屈めながら改めて訊ねる。
「……恥ずかしいけど……でも」「でも?」
 ちょっと嬉しいです……と、ムウに聞こえるか聞こえないかの小さな声で、マリューが囁く。
「俺も……ちょっと嬉しい」
 そんなマリューの耳元で、ムウは自身も少し恥ずかしげな笑顔を浮かべながらそう囁き返していた。

 手を繋いだまま2人は公園の中を歩き、近くのベンチに腰を下ろす。
 そして、思い出したかのように、マリューは手にしていた紙袋をムウの目の前に差し出した。
「これ、貰って下さい」
「ありがと」
 少し恥ずかしそうに微笑むマリューから紙袋を受け取り「中、見てもいい?」と問い掛ける。
「一応、作ってみたんですけど……」
 紙袋の口を開けると、中には金色のリボンがかけられた赤い箱が入っていた。
 その箱を取り出しリボンを解くと、中からクッキーが現れる。
 それらはカラフルなチョコレートで、丁寧にハートが描かれていた。
「美味そうっ!」
 そう言うとムウは、早速ピンクのハートが描かれているクッキーを1つ口に放り込む。
「クッキー作るの、すごく久しぶりだったから……どうかしら?」
 もぐもぐと口を動かすムウの横顔を、マリューは心配そうに見上げる。
「コレ、美味いよ!」「良かった……」
 にっこりと微笑みながら自分を見つめるムウの様子に、マリューはホッとして笑顔を返した。

「なぁ、マリューさん」「はい?」
 もう1枚……と、今度は白いハートのココアクッキーを口にしたムウが、ふと思いついたように問い掛ける。
「これって……俺の為に作ってくれたの?」
 もしかしたら、他の男性陣にも同じものを配ったのかも?という不安がよぎったムウは、手作りクッキーを貰った事で手放しで喜んでいた自分が恥ずかしくなった。
「あ、当たり前ですっ!フラガさんに食べてもらう為に作ったんです」
 他の男の人には、あげてませんから!と、少しだけ頬を膨らませてマリューが言い切る。
 その言葉を聞いたムウは、飛び上がって叫びたい気持ちを必死に押さえながら「マリューさんが俺の事を好きだって……自惚れてもいいのかな?」とマリューの顔を覗き込んだ。
「……好きじゃなきゃ、今日、こうして手作りクッキーなんてあげてません」
 蒼い瞳で見つめられたマリューは、顔から湯気が出ているんじゃないかと思いながら、小さな声で自分の気持ちを言葉にする。
「今日『オアシス』に行って、本当に良かった」
 こうしてマリューさんの気持ちを知ることが出来たから……そう言うとムウは、ぎゅっとスカートを握り締めたままだったマリューの左手に自分の手を重ねる。

「フラガさんは……」「え?」
 手を重ねた瞬間、マリューは顔を上げてムウを見つめる。
「どう思っているんですか?……私の事」
 嬉しいような、それでいて泣きそうな表情で問い掛けたマリューに、ムウは深く息を吸い込んで一呼吸置くと「俺だって、マリューさんの事が好きで好きでたまんない」と思い切ってストレートに答える。
「ホントに?」「あぁ。ウソじゃない」
 その答えを聞いたマリューの瞳に、涙が浮かび上がる。
「じゃなきゃ、今日『オアシス』に行かなかったよ」
 そう答えながら、ムウはマリューの目尻から溢れそうな雫を自分の指で拭う。
「私……不安だったんです」
 慌ててハンドバックからハンカチを取り出し、それで目尻を押さえながら、マリューは少しだけ震える声でそう告白した。
「え?不安って?」
 驚いた声を上げたムウに、マリューは顔を上げて彼を見つめる。
「あの日以来、手も繋いでもらえなくて。私……フラガさんから距離を置かれているんだとばかり思ってましたから……」
 そう言われたムウは「あっ、それは……」と、焦りながら説明を始めた。
「あの時さ、そんな関係でもなかったのにキスしちゃっただろ……だからなんか、マリューさん怒ってるかもしれないって思って……」
 ムウの口から普通に出てきた『キス』という単語を聞いた途端、マリューの顔が再び赤くなる。
「マリューさんを傷つけているのかもしれないと思うと、怖くて手も握れなかった……」
 そう言いながら、ムウはマリューの左手を取り、その手の甲に唇を寄せた。
 ドキドキしながらムウのその行動を受け入れたマリューは、彼の唇が触れた左手からじんわりと温かくなっていくのを感じていた。
「じゃあ、今日からは堂々と手を繋いでくれる?」「……はい」
 顔を上げたムウからそう訊かれたマリューは、躊躇うことなく返事をする。
「明日から仕事帰りは、毎日一緒に帰ってくれる?」「はい」
「休みの日は、デートしてくれる?」「えぇ」
「嬉しい事があったら、マリューさんを抱きしめてもいい?」「……会社の中や人前じゃなければ」
 矢次にムウの口から発せられる質問に、マリューは思わずクスクスと笑いながら答えていた。
「……キス、してもいい?……今」
 それまで嬉しそうに質問をし続けていたムウが、突然真面目な表情でマリューの目を真っ直ぐ見つめる。
 その眼差しにドキリとしたマリューは「誰も見ていなければ……」と、視線を泳がせる。
 が、水銀灯の淡い光が映し出しているのは、寄り添うようにベンチに座る1組のカップルの姿だけ。
「誰も、俺達には気付いてないよ」
 優しく微笑んだムウは、左手をマリューの頬に添えると、俯き加減だった彼女がゆっくりと顔を上げ瞳を閉じる。
 それを合図にするかのように、ムウは彼女の唇に自分のそれを重ね合わせた。

 ちゅっと湿った音を立ててムウが唇を離す。
「……甘い」
 頬を染めたマリューが、そんな事を呟く。
「だって、マリューさんが作ってくれたチョコクッキー食べたところだから」
 甘くて当然だよ……ムウがマリューの耳元でそう囁いた時だった。
 <キュルルルル>
「や、やだっ!」
 突然聞こえた不思議な音にムウが首を傾げるのと同時に、マリューは先程までとは違う恥ずかしさで顔を真っ赤にしてそう小さく声を上げた。
「……もしかしてマリューさん、まだ夕飯食ってない?」
「か、会議が長引いちゃって、それであんな時間になっちゃって……」
 焦った様子でそう説明するマリューに「じゃあ、何か食って帰ろうよ」と、ムウが提案する。
「はい……」
 未だに恥ずかさで顔を赤くしたままのマリューが素直に頷くのを見たムウは、彼女の手を取るとベンチから立ち上がる。
「駅前ならば、まだやってる店があるだろうから、俺が奢るよ……って、あっ!」
 そう言いながら、ムウは今まで座っていたベンチを見て、重大な事に気付いた。
 急にあたふたし始めたムウに、マリューが「どうしました?」と声を掛ける。
「……鞄、忘れた……」「えぇっ?!」
 予想外の一言に、さすがのマリューも言葉を失う。
「財布も家の鍵も携帯も……全部、鞄の中だ……」
 定期だけ持っててもなぁ〜……と深いため息をついたムウに、マリューが問いただす。
「忘れたって、どこにです?」と訊くと、すっかり気落ちしたムウが「多分『オアシス』に」と答える。
「じゃあ、今から取りに行きませんか?」
 一応、マスターに確認してもらいましょうか?……と、マリューが携帯を取り出すと、ムウが慌ててその携帯を彼女の手ごと押さえてしまう。
「マリューさん連れ出してパーティーからエスケープしたのに、今更2人揃ってのこのこと『オアシス』に戻れないよ」
 絶対、みんなに突っ込まれるぞ……そうムウが言うとマリューも「確かに……そうですよね」と苦笑する。
「でも、アパートに帰れませんよ?」
 心配そうにマリューが訊ねると、ムウは「マリューさん、1万貸して!」と両手を合わせて頭を下げる。
「貸してもいいですけど……どうするんですか?」
 不思議に思ったマリューが、そう聞き返す。
「駅前のビジネスホテルにでも泊まるよ。それで、明日の朝イチで『オアシス』に行けばいいし」
 ムウがそう話した時だった。マリューが握っていた携帯から、メールが着信した事を告げるメロディが流れる。
「あら、メール?」
 そうポツリと漏らしたマリューは、携帯の小さな背面モニターに目を走らせると「アイシャさん?」と、驚いた声を上げた。
「え?」
 メールの送り主の名を聞いたムウが、驚いた声を出すのと同時に、マリューは慌ててそのメールを開いた。

《フラガさんの鞄は、朝まで私たちが預かっておきます。
 今、取りに来ても返さないわよ〜!
 そういう事だから、マリューさんがフラガさんの面倒見てあげてね。 
                           from アイシャ》

「えぇ〜っ?!」
 メールを読んだマリューが、夜の公園にはおよそ似つかわしくない大声をあげる。
「何て書いてあったんだ?」
 その声に更に驚いたムウが、マリューの差し出した携帯の文字を目で追う。
「……え〜っと……」
 声をあげたマリューとは対照的に、ムウは言葉を失っていた。
 どちらとも次の一言が出ないまま妙な空気が流れたその時、再びマリューの携帯にメールが着信する。
「え?フラガさんの携帯?!」
 それは、今マリューの目の前にいる人物が使っているアドレスから届いたメール。
「えぇっ?!」
 驚きながらもそのメールを開く。

《せっかくのバレンタインだ。
 今夜一晩、お互いの気持ちをちゃんと話し合って確かめ合うべきではないのかな?
 君達を見ていると、もどかしくて仕方ないんでな。
                     from バルトフェルド》

「あんのヤロー。勝手に俺の携帯使いやがって!!」
「あの……それは仕方ないでしょ?忘れてきたんですから」「……あ、そっか」
 突っ込むポイント、ズレてません?と笑いながらマリューがムウをたしなめる。
 そんなやり取りで、ふと力の抜けたマリューが「じゃあ、帰りますか?」と、ムウに声を掛ける。
「え?帰るって……?」
「ですから……家に」
 少しだけ顔を赤くしたマリューが勢いよくそう言い切ると、くるりとムウに背を向ける。
「……あのぉ、俺は?」
 立ち止まったままそう訊ねるムウを無視して、マリューは歩き始めた。
「早くしないと、置いてきますよ」
「あっ……ち、ちょっと待って、マリューさん!!」
 慌ててマリューの傍に駆け寄ったムウは、彼女の肩を掴むと自分の方に振り返らせる。
「それって、どういう意味?」
「だから……私の家に泊めてあげるって言ってるんです!」
 何回も言いませんから!と言うと、マリューは再び駅に向かって歩き出す。
「ホントに?!」
 再び彼女の背中に追いついたムウが、マリューの右手をぐいっと引っ張る。
「私の気が変わらないうちに行きますよ」
「ありがとう、マリューさん!」
 満面の笑顔でそう礼を述べると、ムウはマリューを抱きしめた。
「ちょっと、フラガさん?!」
「嬉しいから、マリューさんを抱きしめたくなったの」
 そんなムウの嬉しそうな声に、マリューも思わず反論する気が失せてしまい「もぅ」と小さい溜息をついた。
 そして「あのぉ、早くしないと駅前のお店も閉まっちゃいますよ?」とムウに告げる。
「あ、そっか!夕飯、まだ食べてなかったよな」
 ゴメンゴメンと謝りながら腕を解くが、しっかりその手は彼女と繋がれたまま。
「んじゃ、とりあえずは腹ごしらえに行きますか」「えぇ」
 2人で見つめあい微笑むと、手を繋いだまま駅の方へと足を向ける。

「あ、流れ星!」「えっ、どこ?」
 ふと夜空を見上げたマリューに、再び流れ星が降って来る。
「もう、流れちゃいました」
 うふふふ、と笑うマリューにムウは「あ〜、俺も見たかったなぁ」と夜空を仰ぐ。
「今日、2個も流れ星を見たから、またいい事あるかも」
 ムウを見つめながらそう微笑むマリューに「え?今日だけで2個も流れ星を見たのか?」と驚く。
「願い事を3回唱える事は出来なかったけど……」
 そう言うとマリューは、ムウと繋いでいた手を自分から離す。
「でも、1つ良い事があったから、また何か良い事あるかな……って」
 フラガさんの気持ちを聞く事が出来たし……マリューはそう言いながら、今度はムウの腕に自分の腕を絡ませる。
 彼の腕をギュッとしながら、マリューは自分の頭を少しだけ彼の肩に預ける。
「じゃぁ、2つ目の良い事は『俺と一緒にいる事』にしてくんない?」
 そう微笑みながら、ムウはマリューを見つめる。
「ん〜、どうしようかしら?」
 と、笑いながら茶化すマリューに、ムウは「え〜、違うのかよ?」と苦笑する。

 そんな2人の幸せそうな笑い声が、夜空に3つ目の流れ星を降らしたのだった。



バレンタインという事で、ベタでぴゅあぴゅあなお話を書いてみたくなりました。
一応、私の中ではですね……前の話から今回の話までに、2人の間には特に進展がない!という設定とさせて頂きました(爆)
ってか、ベタすぎますか?それとも「ムウに限って、そんな訳ない!」でしょうか?(爆)
……こういう話に、私自身が飢えてるのか?(こらこら


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