後部デッキに浮かぶもの


 やっとの思いで危機的状況から脱却する事が出来たアークエンジェル内には、つかの間の安らぎが訪れていた。
 とは言え、先行きの見えない状況である事には変わりがなく、その事でこの艦のトップである3人が頭を悩ませ、時にはその意見をぶつけ合うという場面がクルー達に何度も目撃されている。
 特に、その様子を間近で静観する事しかできないブリッジクルー達の心中は、ひどく辛いものだった。

 誰もいない後部デッキのドアが静かに開く。
 そこに現れたのは、左手をズボンのポケットに突っ込み、珍しく制服の襟元を緩めた姿のノイマンだ。
 勢い良く床を蹴るとガラスに右手を付き、フワフワと漂う身体を制御する。
 そして小さな溜息をつくと、その窓にコンと額をぶつけ視線を泳がせた。
 その目は何を追う訳でもなく、ただ真っ暗な宇宙をぼんやりと見ているだけ。
「やり切れないよな……」
 そうポツリと漏らすと、ポケットの中の左手をギュッと握り締める。
 
 その時、後部デッキの扉が再び開く音がした。
「……ノイマン曹長?」「あ、少尉」
 名前を呼ばれたノイマンが反射的にポケットの中から左手を出すと、声のした方を振り向いた。その先にいたのは同い年のナタルだ。
「あぁ、少尉も休憩時間でしたか?」「あぁ……」
 そう言いながらも慌てて緩めたままだった襟元を正そうとすると「休憩中だから、気にしなくてもいい」とナタルが少し緩んだ表情で告げる。
「……すみません」と、思わず謝りながら手を下ろすと「2人の時は、その……敬語でなくても……」と、彼女はノイマンと視線を合わせずに呟く。
 軍の学校に一緒に入学し、最初の2年は同じクラスで学んだ2人だ。
 だが、3年目からお互いに進むコースが違い、ヘリオポリスで再会した時にはナタルに階級を追い越されていた。
 それまでは敬語で話すなんていう事は考えられなかった相手なのだが、こうして上司と部下という立場になった今、ノイマンは慣れない敬語で彼女に話しかけていたのだ。
「じゃあ、ここから先は……昔みたいに名前で呼んでもいいですか?」
 ふっと口元の表情を緩めつつノイマンが訊ねると、ナタルは「あくまでもお互いがオフの時だけだ」と、少し頬を染めながらも強い口調で言い放つ。
「では、今だけ」
 そう言うと、ノイマンは照れ隠しのように真っ直ぐとガラス越しの空間を眺めているナタルの横顔に微笑みかけていた。

「なんと言うか……辛いよな」
 お互いに押し黙ったままガラスの向こう側を眺めていたが、ノイマンがナタルの心中を察したかのように口を開いた。
「……私のした事は、間違っていたと思うか?……ノイマンも」
 相変わらずノイマンとは視線を合わせないまま、ナタルは小さな声で訊ねる。
「あの場合は、仕方ないと思うよ。この艦に乗っているのは、俺達だけではないし……」
 先程の戦闘でナタルがとった行動が、ノイマンの思考の奥でリプレイされていた。
 先遣隊を壊滅され、次に狙われたのはこの艦。
 軍人だけでなく民間人も多数乗せたまま、更にストライクと最新鋭のこの艦を沈める訳にはいけないと判断したナタルが、ラクス・クラインを盾にした瞬間。
 確かに艦橋の中の空気が一瞬にして凍りついた。
 いくらコーディネィターだとは言え、民間人を盾にせざるを得なかった事実と周囲の者達の突き刺さる視線に、ナタル自身も重い気持ちになってたのだ。
 ……でも、あの時は……ああするしかなかった。あれが最善の方法だったのだ。

「ナタルの判断は、間違いじゃなかったよ」
 守りたいものはみんな同じだし……そう言ったノイマンは改めてナタルの方を振り返ると、いつの間にか彼女もこちらを見ていた。
「ノイマンにそう言ってもらえると、少し安心した」
 そう言って小さく溜息をついた彼女を見たノイマンには、普段の冷静沈着で堂々とした姿からは想像できないほど、その肩が小さく見えた。
「俺がナタルの立場だったとしても、きっと同じ方法を選ぶしかなかったと思う」
 みんな、守りたいものがあるから戦っているんだし、気にするな……そう呟くように言うと、ノイマンはその涼やかな瞳に笑みを浮かべる。
「ありがとう」
 ノイマンの言葉にホッとしたのか、彼女もほんの少し笑みを浮かべていた。

 ナタルの表情が少し明るくなったのを見たノイマンはある事を思い出し「そうだ」と、左手をズボンのポケットに突っ込む。
 不思議そうな顔でこちらを見ているナタルの目の前に、ノイマンはその左手を差し出した。
「これ、良かったら貰ってくれないか?」
 広げられた掌の上に乗っていたのは、華奢なラインのクロスのネックレスだ。
「……私に?」「あぁ」
 どうして?と問い掛けるナタルに対し、ノイマンは「お守り代わりにして欲しいと思って」と、少し照れながら答える。
「お守りって、どういう事……?」
 突然の事で戸惑いを隠せないナタルに、ノイマンは「あのさ……」と、口ごもりながらも緩められたままだった自分の襟元から同じ素材のネックレスを引っ張り出す。
 楕円形のプレートの真ん中に小さなクロスの型抜きがされているネックレスが、ゆらゆらとノイマンの襟元で揺れているのを見つめながら、ナタルは更に不思議そうな表情を見せた。
「ナタルを守りたいんだ。俺の持てる力全てで……」
 そう言いつつ、右手で掴んだ楕円形のプレートに、左手の上にあったクロスのネックレスを重ね合わせると、それはプレートの真ん中にピッタリと収まる。
 ナタルが目の前のネックレスの意味を考えようとしていた矢先、それとは全く関係ない言葉がノイマンの口から出て来た。
「何故、俺が操舵士になったか……ナタルは知ってる?」「え?」
 その問い掛けに弾かれたようにネックレスから視線を剥がすと、ナタルは優しい微笑みを湛えたノイマンの瞳を見つめる。
「ナタルが指揮官のコースを選択したって聞いて、俺は操舵士になろうと決めたんだ」
「どうして?」
 反対にナタルから問い返されたノイマンは、目を伏せるかのように視線を窓の向こうに泳がせる。
「俺の大切な指揮官を身近で守りたかったから。その人が乗る艦を、自分の手で危険から回避させたいと思ったからだよ」
「え?」
 ノイマンの告白の意図を理解できないナタルは、不思議そうに目の前の相手を見返している。
「……分からない?俺が誰を守りたいと思っているかって事」
 そこまで言われて、ナタルはやっとその言葉の意味を理解したのか、突然彼女の顔が紅潮する。
「えっと……それは、その……」
 いつもの姿からは想像出来ない程ナタルが動揺を見せると、ノイマンは彼女の方を振り返った。
「ナタルの傍にいて守ってやりたいから……だから、操舵士になった」
 ノイマンはそう告げると、手にしていたクロスのネックレスの留め金を外し、呆然としているナタルの首にその手を回す。
「こんな事になってしまったけど……でも、この艦のメンバーに選ばれた時、ナタルと一緒だと知った時……やっと君の事を守れると思ったんだ」
「ノイマン……」
 そう言いながらノイマンは彼女の首にネックレスを留めた。
「俺はナタルを守りたいんだ。今までも……これからも……」
 迷惑じゃなければ貰ってやって欲しいんだが……と少し寂しそうな表情で呟くように言うと、ナタルは「迷惑なんかじゃない!」と紅い顔のままで答えた。
「本当に?」「ノイマンがそう思っていてくれたなんて、すごく嬉しい」
 俯き加減でそう言うと、ナタルはトンと床を蹴る。
 そのままの勢いで目の前のノイマンの胸に飛び込むと「ありがとう」と小さな声で告げた。
 ナタルの予想外且つ大胆な行動に驚きながらも、ノイマンは嬉しそうに両腕で彼女の肩を抱きしめ「絶対に守るから」と、改めて自分の気持ちを告げると、少し戸惑いながら彼女に口付けを落した。





 あれから数ヶ月。
 無数の残骸が漂う漆黒の宇宙空間に、白い戦艦が浮かんでいた。
 ただ以前と違うのは、そこにいるのがアークエンジェルだけではないと言う事。
 艦橋から見える画像には、ピンクと水色の戦艦の姿が映し出されている。

 全ての戦闘が終わった今、やっと訪れた休息だというのに、ノイマンが向かったのは食堂や自室ではなく後部デッキだった。

 静かに開いた扉から中に入ると、一度辺りを見渡す。
 そして誰もいない事を確認すると、ふぅっと小さな溜息をつきながら床を蹴った。
 ゆっくりとした動きで壁に手をつくと、そこにもたれかかる。
「こうなるかもしれないって事、分かっていたけど……」
 ポツリとそう呟くとギュッと目を閉じた。
 その脳裏に浮かんでくるのは、この場所で口付けを交わした自分よりも華奢な同い年の上司。
 嬉しそうな、それでいて恥ずかしそうな表情で自分を見上げていたあのアメジストの瞳。

 分かっていたのだ。
 自分達が連合と敵対するという事は、必然的に彼女をも敵に回すと言う事だ。
 分かっていたはずなのに、現実と向き合った時、やり場のない怒りと悲しみがノイマンの心を支配した。
 出来る事ならば、敵としては再会したくなかった……と。

 守ると約束した相手と敵対した事。

 そして、その彼女を助けてやれなかった事。

 その事を考えていると、閉じたままの瞼の裏が熱くなる。
 溢れ出しそうな物を堪えようと、ノイマンは大きく息を吐き出しゆっくりと瞼を開けると、目の前の真っ暗な宇宙を見据えた。

 遥か彼方の星が白く瞬く様を見つめながら、壁から手を離す。
 いくつかの瞬く星の中にうっすらと紫色に輝く1つを見つけたノイマンは、吸い寄せられるように窓際へと床を蹴る。
 そしてその薄紫の星に手を伸ばした。
 ……届くはずもないのに。

 薄紫の星に掌を合わせ、あの時と同じように額をガラスにくっつける。
「ナタル……」
 掌の中の星が彼女の瞳を思い起こさせたのだろうか、ノイマンの口からは想い人の名がついて出ていた。
『……ィマ……ン』
 その時、彼の耳に自分を呼ぶ懐かしい声が聞こえたような気がした。
「……え?」
 まさか?!と、ノイマンは一瞬自分の耳を疑うと、後部デッキの入り口を振り返る。
 が、その扉が開いた気配も、もちろん誰かが入ってきたような様子もない。
「空耳が聞こえるなんて、俺も相当だな……」
 そう言うと再び大きな溜息を漏らし、襟元を緩める。
 するとアンダーシャツの下から、抑制力を失ったクロスの型抜きがされた楕円形のプレートがふわふわと漂う。
 それを左手でぎゅっと握り締め、薄紫色の星を見上げると再び無意識に「ナタル……」と口走った。

 その瞬間、真っ暗なはずの目の前に、何か白い影のような物がぼんやりと浮かんでいる事に気付いた。
「え?」
 思わずノイマンはそのぼんやりとした影を凝視する。
 するとその影は次第に人の形のようになり、ノイマンの目の前に近付いてきた。
<ノ……ィマ……ン>
 その白い影は、涙声で彼の名前を呼んだのだ。
「ナ……タル?!」

 ガラス越しにふわふわと漂う白い影は、その瞳に涙を浮かべたままこちらを見ている。
 そしてガラスについていたノイマンの右手に、その白い影も自分の左手を重ね合わせた。
「……すまない、ナタル……」
 その白い影は「ナタル」と呼ばれると、ほんの少しだけ表情をほころばせ、肩を震わせて目を伏せたノイマンを優しい眼差しで見下ろし<ぁやまらなぃで……>と声を掛けた。
<ノイマン達がした事は、間違いではないから……>
 後悔はしていないから……そう囁くような彼女の声に、ノイマンの瞳から我慢していたはずの熱いものが溢れ出し、小さな粒となって宙を彷徨う。
「けど……俺は、ナタルを……守れ……なかった……約束したのに……」
 嗚咽しながらそう告げるノイマンに、彼女も涙を流しながら<気にしなくて……いいから>と答える。
<ノイマンの真っ直ぐな気持ちから、私は勇気をもらったんだ。だからノイマン……お前には感謝している>
 溢れる涙を拭おうともせず、彼女……ナタルは緩めた制服の胸元から、あの日ノイマンから貰ったクロスのネックレスを取り出す。
「ナタル……」
 そう言われて、ノイマンが涙で濡れた顔を上げると、涙を流したままのナタルの笑顔とぶつかった。
<お前の、この気持ちがあったから、私は……最後まで私でいられた。ノイマンの心が、私の心を守ってくれた>
 彼女の頬を伝って流れ落ちた涙は、暗い宇宙の中を輝きながら浮遊する。その1粒が窓ガラスに当たり、小さな丸い跡を残した。
「でも、ナタル自身を……俺は……っ!」
<身体は無くなったかもしれないけど、私の心は無くなっていない>
 涙でぐしゃぐしゃになったノイマンに、ナタルは暖かい笑顔を向ける。
「こ……ころ?」
<私の心は、いつでもノイマンの傍にいる。これからは私がノイマンを守るから……>
 穏やかな笑顔を浮かべながら、ナタルはガラス越しにノイマンに近付く。
 それに引き寄せられるかのように、ノイマンもガラスの向こうのナタルに顔を寄せた。

 どちらともなく近付いた2人は、そのままガラス越しに口付けを交わす。
 自分の唇に触れているのは無機質なガラスのはずなのだが、ノイマンには暖かく柔らかいと感じられた。

 ただ無言で唇を重ねていたノイマンは、ふと暖かさが消えた事に気付き目を開ける。
<ありがとう、ノイマン>
 目の前のナタルは微笑んでそう言うのだが、その輪郭が次第にぼやけ始める。
「ナタルッ!!」
 消えかかる彼女の影に、ノイマンは思わず叫んでいた。
<どれだけ遠く離れていても、私の心はノイマンの傍にあるから>「ナタルッ!」
 ナタルは消えかかっていた左手を再び彼の右手に合わせる。
<……ノイマンが幸せになるように、私は見守っているから……だから、さよならは言わない>
 今まで見たことが無い、まるで聖母のような笑みでナタルはノイマンを見下ろしている。
 その笑顔に何故か心が温かくなったノイマンは、思わずナタルに問い掛けていた。
「……また、逢えるのか?」
<ノイマンがこちらに来るまで……待っているから>
 優しい微笑を浮かべてそう告げるナタルに、ノイマンも涙で濡れた顔に笑みを浮かべる。
「もしかしたら、次に逢う時には、俺はおじいちゃんになってるかもしれないけど……」
<そんなお前を待っている>
 徐々に消えていくナタルの姿を、ノイマンは心に焼き付けるかのようにじっと見据えると「分かった」と涙に濡れたまま無理矢理に笑顔を作る。
 その笑顔を見たナタルも同じように微笑むと、安心したように<私達の望んだ世界を、みんなで……>と告げた。
「あぁ、約束する」
 小さく頷いたノイマンを見届けたナタルは、何か満ち足りたような表情を見せると、漆黒の闇の中に溶け込んで行った。


 ナタルの幻が見えなくなっても、ノイマンはしばらくの間、その場所から動く事が出来なかった。
 今、目の前で見た事は夢だったのか幻だったのか、はたまた現実だったのか……そう考えながら彼女の消えた闇の向こうに視線を泳がせていた。
 その時、ノイマンの頬に何か冷たい物が当たり、ふと我に返る。
「俺の……涙……か?」
 そう呟きながら反射的に頬を右手の甲で拭うと、力が抜けたようにその手を下ろす。
 そのままふわふわと漂っていると、ふと自分の視界の端に、何かキラリと光る物が映り込んだ。
「何だ?」
 急にそれが気になったノイマンは、器用に身体を捻ると壁を蹴り、光る物に手を伸ばした。

「……これは……」
 掴んだ手を広げると、そこにはナタルに渡したはずのクロスのネックレスがあった。
「俺の傍にいてくれるって事か……」
 ナタルがそう言った事を思い出したノイマンは、ネックレスをぐっと握り締めると、その手を胸元に当てる。
「俺達の望んだ世界を……作るからな」
 そう呟くと、ノイマンはふっと笑みを漏らし後部デッキを後にした。

 その翌日から、ノイマンの胸元には、2つのクロスネックレスが揺れていた。
 だが、その事実に気付く者は、誰一人としていない。
 それは制服の下に隠された、ノイマンとナタルだけのヒミツの約束だから。


急にノイナタが書きたくなった時に思いついたのがこんな話でした(苦笑)
後部デッキと言うと、どうしてもキララク的なイメージが私の中では強かったので
実は、最初はキララクのつもりでした。
でも、ドミニオンの後部デッキでのナタルの姿を思い出して
「きっとアークエンジェルの中でも、ナタルは後部デッキに来て一息ついていたのかも……」と思ったんです。

しかし……書いてみたら、ちょっと悲恋になってしまいました……。
とりあえず、私にとっては初ノイナタ話って事で(^^ゞ


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