邂逅する心   Side Murrue 



 洗面所の鏡の前で、マリューは1人で唸っていた。
 軍服の上着を脱いだアンダーシャツ姿で、右手にハサミを持ったまま……である。
「前髪は切れるけど……後ろはどうしようかしら?」
 緩やかにウェーブがかった栗色の髪が、気付けば背中に届きそうな程伸びている。
 それを自分の指に一束絡ませながら、マリューは「はぁっ」と小さくため息をつく。
 縛ってしまおうかと思ったのだが、あいにく自分の荷物の中には髪の毛をまとめるような道具は入っていなかった。
 と、言う事は……このままにしておくか、それとも切ってしまうか……。
 その2つしかない選択肢の中、ささやかな女心が揺れているのだ。

 長期間の戦艦生活になると、どうしても身の回りの事は必要最低限になってしまう……。
 その事は理解しているつもりだ。
 だが、マリューだって1人の女性である。
 こんな時だからこそ、凛とした女性であり、艦長でいたいと思ったのだ。

 もう少し短い方が、お手入れも楽よねぇ……
 やっぱり、ミリアリアさんにでも頼んで、後ろを切ってもらおうかしら?
 ……マリューがそんな事を考えていた時だった。
 艦長室のドアが開く音が聞こえる。
「あれっ?マリューさん、どこ?」
 聞こえてきたのは、この部屋のロックを外せる唯一の男性の声。

 部屋の中程で一旦立ち止まったかと思ったが、その足音は迷うことなく真っ直ぐにマリューのいるバスルームへ向かう。
「マリューさん?」「ムウッ!?」
 そう声を掛けると同時に、勢いよくその扉を開けたムウは、そこで驚いた顔をしているマリューを発見した。
「何してんのさ、そんな格好で」
 軍服がソファーに置いてあったからさ……と言いながら、ムウはマリューに近づく。
 そして、マリューの右手にハサミが握られているのを見つけると「あぁ……もしかしてさ、髪の毛でも切ろうとしてた?」と、にこやかに問いかけた。
「え、えぇ。伸びてきて、まとまらなくなってきたから……何とかならないかなと思って……」
 左手で髪の毛を一束摘みながら「でも、自分では上手く切れそうにないから……諦めるわ」と、マリューは苦笑する。
 するとムウは、すばやくマリューの右手からそれを取り上げる。
「俺が切ってやろうか?」「えぇっ?!」
 言うが早いか、マリューの背中をバスルームの方へぐいぐい押すと、バスタブの縁に腰掛けさせた。
「ちょっと待ってっ!」「はいはい、いいからいいから」
 慌てるマリューの肩をぐいっと上から押さえると「あぁ、本当はシャツやスカート……脱いだ方がいいんだけどなぁ〜」とムウはニヤリとする。
 ムウに背中を向ける形になっているとは言え、マリューには彼の下心が見え見えである。
「それはできませんっ!」
「ありゃ、やっぱダメか〜」
軽く「あははははは」とムウが笑うと、マリューは「ところで……」と後ろを振り返る。
「髪の毛切ってくれるって言うけど、そんな事、あなたに出来るの?」
 マリューのもっともな質問に、ムウはウィンクをしながら答える。
「俺、こう見えてもさ、戦艦生活長いからね〜。昔はよく、パイロット同士で、お互いの髪の毛を切ってたんだぜ」
 髪の毛伸びると、メットの中の収まりが悪くなるんだよ……と笑うムウを見ていたマリューは「へぇ〜」と、少しだけ納得した表情を見せた。
「で……どうする?やっぱ、やめとく?」
 彼女の栗色の髪の毛を一束手にすると、ムウはそう訊ねる。
 彼の問いかけに、マリューは少しばかり迷っていた。
 だが、断っても半ば強引に説き伏せられるのだろう……と言う事も容易に予想できる。
 マリューは思い切って……と言うより、観念したように「じゃあ、お願いするわ」と返事をした。
 その答えにムウはおどけながら「かしこまりました」と、手にしたままの髪の束にキスを落とすと、マリューはくすぐったそうに笑みを漏らした。

 洗面所からタオルを1枚持ってきたムウは、それをマリューの肩に掛けながら「毛先を5センチぐらい切ればいいのか?」と、彼女の顔を覗き込む。
「……え、えぇ」
 マリューがそう返事をすると、ムウは「じゃあ、後ろ側から……な」と笑顔で答え、手にしたブラシで髪を梳き始めた。
「こんなに伸びたんだな」「ぅん……」
 背中に届きそうだよ……と言いながらムウはマリューの髪の毛を優しく梳き続けている。
 その感触が心地よく、マリューはゆっくりと瞼を閉じていた。
 ブラシを置いたムウは、長く伸びた後ろ髪を一束手にし、マリューの指示通り毛先から5センチ程をカットし始めた。

 シャキシャキというハサミの音が、決して広くはないバスルームの中に響き渡る。
「毛先は、少しシャギーを入れたりしてみる?」
 ムウはその手を休める事なく動かしながら、マリューに仕上げ方を聞いた。
「え?そんな事も出来るの?」
 驚いた声を出すマリューに、ムウは「昔、やり方を教えてもらったんだよ」と答える。
 そこまで言うのならば、この際、ムウの腕を信用してみようかしら?と、考えたマリューは「ムウに任せるわ」と返事をした。
「お任せあれ」
 再びおどけたような返事を返すムウに、少しばかり心配になってきたマリューは「失敗したら、ムウを丸坊主にしてやるわ」と、心の片隅で考えていた。
 
「よし、こんな感じでどうだ?」
 軽快なはさみの音が途切れ、ムウがそう告げる。そして、肩に掛けていたタオルを外し、マリューの背中に付いている髪の毛を優しく払ってやる。
「鏡、見てきていいかしら?」と、マリューが立ち上がり洗面所の方へと移動するのを見届けたムウは、その後ろをついて行く。
 マリューは、鏡の前で頭を左右に振りながら、軽やかに動く髪の毛の仕上がりに、驚いた表情を見せた。
「美容師としての俺の腕はいかがでしょうか?」
「ありがとう、ムウ。これでいいわ」
 嬉しそうな笑みを浮かべたマリューが、ムウの方を振り返る。
「どういたしまして」
 ムウも笑顔で返事をすると、思い出したかのように言葉を続けた。
「首筋とかに髪の毛入ってるだろうから、シャワー浴びて着替えた方がいいぞ」
「えぇ、そうね。確かに少しチクチクするわ」
 と、マリューは苦笑しながら答える。
「ん〜、もしよろしければ、シャンプーのサービスもございますが?」
 おどけたように訊ねるムウに、マリューは「ご遠慮いたしますっ!」と言いつつ、ムウを隣のプライベートルームへと押し出す。
「サービスするよ〜、マリューさ〜ん!」
 そう叫ぶも、無常にもそのドアはロックがかけられてしまう。
「髪の毛洗うぐらい、自分でできますから!」
 閉じられた扉の向こうからマリューの少し怒った声が聞こえて、ムウは「ちょっとからかい過ぎたかなぁ?」と頭をボリボリと掻くと、仕方なさそうにソファーに身を沈めた。
 そして、シャワーを浴びたマリューが戻って来たら、洗いたての香りを思う存分堪能してやろうと考えるのだった。