研究施設のエレベーターの扉が開くと、暗い廊下に光が溢れる。
 その中から、白衣を着た数人がストレッチャーに乗せられた女性を運び出すと、薄暗い通路の中を押していく。
 そして、とある扉の前で立ち止まると、入り口のリーダーに認識票を挿入する。
 ロックが解除される音がすると、すぐさまその中にストレッチャーを運び入れた。

「遅くなりました」
 ストレッチャーを押していたエレットが、その場にいた研究員達にそう軽く頭を下げる。
「失敗したのかと思ったぞ」
 そう背後から声を掛けたのは、上司でもあるフォルカーだ。
「済みません。なかなか薬が効いてこなかったようで……」
 そう言い訳を口にしたエレットに、フォルカーは「まぁ良い」と、それ以上の説明を拒否する。

「では早速、実験の準備に入らせてもらいます」
 主任研究員がそう口にすると、その場の全員が無言で頷いた。
 その様子を確認した研究員が、ガラス張りの部屋に控える数人に軽く手を上げる。
 すると、様々な器具や薬を手にした研究員達が、2台のストレッチャーの周囲に集まった。

 「そろそろ始まる頃か?」
 モニター室で事の成り行きを見守っていたフォルカー達の背後から、高慢で冷酷な声が響いた。
 その声で部屋の入り口を振り返った研究員達が「お待ちしておりました、ジブリール殿」と、次々に敬礼をする。
 「さて、実験の見学をさせてもらおうか」と、怪しい笑いを浮かべたジブリールは、ガラス越しの部屋の向こう側で行われている様子を横目で見つつ、近くのソファーに腰を下ろした。

 紫色のアンプルから移し変えられた薬が、注射器によって2名の被験者の腕に通された点滴の管に注入される。
 その点滴が終了すると、中央の丸いカプセルの隣にストレッチャーを移動させた。
 そしてそのストレッチャーからカプセル内のベッドへと被験者が移される。

 研究員4人がかりで支えられ、ベッドに移動させられたのはアーガス。
 その隣で3人の研究員に運ばれていたのはクリスである。
 2人ともアンダーシャツ姿でカプセル内のベッドに横たわり、微動だにしない。
 ただ、規則的に胸が上下している事で、2人が眠っている事が分かる。
 ……いや、正確に言えば『眠らされている』のだ。
 先程、それぞれが口にした飲み物の中に混入されていた睡眠薬で。

 ガラスのこちら側から、着々と実験の準備をしている様子を眺めていたジブリールに、主任研究員が声を掛ける。
「ジブリール殿、こちらが今回組み替えられる記憶の一覧です」「そうか」
 そう言いつつ手渡されたファイルを、ジブリールは隅から隅まで確認するかのように目を走らせた。
 彼ら2人の記憶から、身元不明の怪我人として収容されたムウを、ネオという存在に書き換える作業。
 その工程が順を追って説明されていた。

 収容された怪我人が、ムウ・ラ・フラガだという事を完全に消去する。
 そして、その怪我人『R−5』の身元は、まだ不明であるという状態に記憶を書き換え、現在、集中治療室で治療を受けているのは、名も分からぬ人物に仕立て上げる。
 その後、改めて『R−5』がネオ・ロアノークだと判明したと知らせるという方法だ。
 あくまでも、最初からムウ・ラ・フラガという人物は存在していなかった……。
 彼らの記憶からも、身の回りのデータからも、その存在を抹消する。

 ファイルの中身に目を通し終わったジブリールは、それを先程の研究員に返すと同時に、もう1つの質問をぶつけた。
「で、彼らの持ち物の中には、鷹に関する資料などはなかったのか?」
 いくら彼らの記憶を改ざんしたとしても、確実な記録が残っている限り、今回の実験は失敗に終わる……そう考えたジブリールの疑問だった。
「その件に関しましては、もう手配済みです」

 彼らの病院内の私室、及び宿舎の方にも別の研究員が派遣されており、パソコンのデータの改ざんはもちろんの事、私物の全てをチェックし、ムウ・ラ・フラガに関する物は全て抹消する作業に掛かっていた。

「ふん、それならば問題ないだろう」
 納得したような冷ややかな笑みを浮かべながら、ジブリールはソファーに身を沈める。
 と同時に、ガラス張りの実験室から「こちらの準備は整いました」という声がインターホン越しに聞こえた。
 ふと見上げたその先では、2台のゆりかごに透明のカプセルがセットされている。
「では、実験を開始する。全員、モニター室へ」
 主任の一声で、実験室にいた研究員達が一斉にモニター室に戻ってくる。
 それを確認した研究員の1人が、実験室に灯っていた明かりを落とすと、室内全体が薄紫色に彩られた。
「被験者A・B共、脈拍、呼吸、脳波とも正常」
 2人に付けられている機器から送られてくるデータをモニターで確認していた別の人物が、そう報告をする。
「第一段階、粕g照射」「Σ波照射」
 主任の指示を復唱した研究員がコンソール卓の青いボタンの上のカバーを開け、それを押すと、グゥゥン……という独特の機会音が実験室に響いた。
「Σ波照射に、約30分。その後、θ波の照射に2時間程かかります」
 目の前のディスプレイに表示されているΣ波の出力メーターを見ていたジブリールに、主任がそう説明する。
「そうか。では、私は結果が分かる頃にもう一度こちらに来るとしよう」
 あとは任せた……と言うと、ジブリールはソファーから立ち上がった。
「別室で休憩できますようにご準備しておりますので……」
 入り口付近で立っていた若い研究員がそう告げると、すぐさまドアを開ける。
「では、後ほど……」
 立ち去るジブリールに、その場にいた全員が深々と頭を下げた。


 
 ……誰かに呼ばれている?……
 ふと、そんな感覚が今まで真っ白だった頭の中に浮かび上がる。
 重い瞼をゆっくりと開けると、目の前に上司の顔がぼんやりと映し出された。
「あぁ、気付いたか?」
 目を開けたアーガスに気付くと、フォルカーは安堵した様子でそう問い掛ける。
「……あの……私は一体……?」
 フォルカーの肩越しに見える白い壁と作りつけの棚で、ここは彼の私室である事を頭の隅で確認しながら、アーガスは掠れた声でそう訊ねた。
「どうやら、このところの疲れが一気に出たようだな」
 疲労と軽い貧血と言ったところだ……と言いながら、フォルカーは彼の腕から、終わったばかりの点滴の針を丁寧に抜く。
「申し訳ありません……大佐にご迷惑を掛けてしまったようで」
 そう言いながら、アーガスは身体を起こそうとするが「もう少し休んでいなさい」とフォルカーにその行為を制される。
 再び寝かされていたソファーに身体を預けたアーガスは「ありがとうございます」と礼を述べると、小さな溜息を漏らした。
「今日は宿舎に帰って、ゆっくり休みたまえ」「はい……」


 同じ頃、クリスもぼんやりとした意識の淵から、徐々に覚醒しようとしていた。
「……ぁれ?」
 目を開けたクリスは、蛍光灯の眩しさに思わず目を細める。
「良かった。目が覚めたみたいね」「……ニーナさん?」
 まだぼんやりとした脳裏に、自分と同じ境遇であるニーナの顔が映る。
 何がどうなっているのか、イマイチ自分の置かれている現状が理解できないクリスは、ゆっくりとした口を開いた。
「……私、どうして?」
 その問い掛けに、点滴の落ちる速度を計っていたニーナが答える。
「あなた、勤務中に突然倒れたのよ」「えっ?」
 ……そう言えば、デコフレックス少佐から頂いたココアを飲んでいたら、急に目まいがしたような……
 あの時の記憶を手繰り寄せようとしていると、急に左手を取られる。
「気分はどうだい?」「あ、少佐?」
 自分の左手で脈拍を測っているエレットに、クリスは「ご迷惑をおかけしてしまったようで……すみません」とベッドに横たわったまま頭を動かす。
「ここに来たばかりで不慣れな環境だっていうのに、無理をさせていたみたいで、こちらこそすまなかった」
 やっぱり近いうちに、こちらに1名看護兵を回してもらうように大佐にお願いするから……そう言いながらエレットはカルテの端末にクリスの状態を入力する。
「すみません……」


 ようやくソファーからその身を起こしたアーガスは、フォルカーから手渡されたドリンクパックを口にしていた。
「そう言えば……結果的に、彼の治療法はどうされるのですか?」
 ここに自分が呼ばれた理由を思い出したアーガスが、恐る恐ると言った様子で目の前の上司に問い掛ける。
 しばし押し黙ったまま、パソコンの画面を見入っていたフォルカーがその視線を動かさぬまま、おもむろに口を開いた。
「……『鷹』の治療法か?」「……え?」
 唐突に『鷹』と言われたアーガスは、一瞬、彼が何を言っているのか理解出来ずに首を傾げる。

 ……『タカ』……何か聞いた事があるような……
 遠い過去に聞いたことがあるような気がしたアーガスは、その記憶を手繰り寄せようとする。
 が、それは思い出そうとしても「聞いた事がある」という霞掛かったような記憶に思えたアーガスは、思わず「鷹とは、何ですか?」と聞き返していた。
「あ……あぁ、済まない。今見ていたデータと間違えたようだ」
 気にしないでくれ……と言われたアーガスは「そうでしたか」と答えた。
 そう言いながら平然とした様子で再びドリンクを口にする彼の様子に、フォルカーは気付かれない程の小さな溜息を1つ漏らした。
 そして「彼の投薬治療は、来週以降に改めて考える事にしよう。まぁ、上からもうるさく突付かれているんでな……」とアーガスに告げる。
「……そうですか。分かりました」


 しばらく寝ていて良いと言われたものの、集中治療室の片隅だという事もあり、クリスは居心地の悪さからベッドに身を起こしていた。
 ……いつまでも寝てる場合じゃないし、あの患者さんの点滴も準備しなきゃ……そう思ったクリスが、まだ覚束ない足取りでベッドを降りようとした時、エレットがカーテンの向こう側から姿を現した。 
「無理しなくていいと言ったじゃないか」「でも……」
 ベッドの手すりに手をついて立ち上がろうとしていた彼女の元に慌てて駆けつけたエレットは、その肩を支えると再びベッドに座らせる。
「あの患者の事を気にしているのか?」
 全く……と溜息をつきながらエレットはクリスが無理をしようとしていた理由を問いただす。
「まだ、あの患者さんの点滴の準備も済んでいませんし……」
 そう言いながら、ベッドサイドに掛けてあった白衣を手にしようとするクリスに、エレットは「それはもう、私が準備したから」と、彼女の細い手首を掴んでその膝の上に戻す。
「とにかく、最低でもあと1時間は休んでいなさい。心配しなくてもいいから」
 あ〜、上司命令だからな……と、命令口調ではあるものの、優しく微笑みかけるエレットに、さすがのクリスも「はい……」と返事をする。
 仕方なしに再びベッドに横になったクリスに「あぁ、そうだ」と、エレットが何かを思い出したように話しかけた。
「何でしょうか?」
 そう聞き返してくるクリスに、エレットは彼女の肩口まで掛け布団を引き上げてやりながら「ようやく、本部のホストコンピューターの機能が全面復旧したようだよ」と告げる。
「ホストコンピューター……ですか?」
「あぁ。これでやっと、彼の身元を確認する事が出来るかもしれない」
 彼の身元……と聞いたクリスは、まだふわふわとする頭で、誰の事を指しているのか考える。
 ……『彼』って、少佐と私がココへ連れてきた、あの患者さんの事よね?……って、あれ?
 一瞬、何かが頭の中をかすめたような気がしたクリスは、不思議そうな表情で目の前の上司に質問を返した。
「まだあの患者さんの身元って、分からないままだったんですか?」
「ホストコンピュータの回路が遮断されてしまっていてね。今までどれだけアクセスしても繋がらなかったんだよ」
 エレットが苦笑交じりにそう告げるのを聞いていたクリスは、改めてココに来るまでの経緯を思い出してみる。
 ……あ、そうだわ。ヤキン宙域で助け出された彼のフィジカルデータをホストコンピューターに照合しようとしたけど、結局、あの時はアクセスさえも出来なかった……ような?
「そう言えば、私が調べた時もアクセス出来なくて、結局、身元が分からないままだった……と思います」
「でも、ようやくホストコンピューターにアクセス出来るようになったから、彼の身元も、近いうちに判明するだろう」
 そうですね……と安堵の様子で返事をするクリスに、エレットは別の意味でホッとしていた。



 薄暗い研究室のモニターに送られてくる画像を見ていた研究員は「どうやら、実験は成功したようです」と、スーツ姿の人物を振り返ると、そう報告する。
「そのようだな……」
 壁際のソファに深く腰を下ろしたまま、冷徹なその顔に怪しげな笑みを浮かべたのはジブリールである。
 白衣を着た別の研究員が、手元の端末に何やらデータを打ち込むと、それをジブリールの目の前に差し出す。
「今回はごく短い期間の記憶操作だったので、1回で書き換えを完了する事が出来たようです」
 そう説明しながら、エレットとクリスの書き換えられた記憶のファイルを指し示す。
「では……『鷹』の場合は、もう少し時間がかかるという事か?」
 膝の上の黒い子猫を撫でながら、ジブリールは横目で研究員の顔を睨みつけた。
「……しかし、目覚めた彼の記憶がどういう状態かにもよると思われますので……こればかりは、実際にやってみないと……」
 少しおどおどした様子で答える研究員に、ジブリールはフンッと鼻で笑いながら「では……」と自分の考えを口にする。
「もし仮にだ……『鷹』の今までの記憶が、無くなっていたら……その場合はどうだ?」
 ジブリールの言葉に、その場にいた研究員達がハッと息を飲むのが分かった。
「……その場合だと、新たな記憶を植えつけるだけになるので、処置は短期間で済む可能性が高いと思われます」
 慌てて手元の端末を操作していた人物がそう答えるのと同時に、ジブリールは「では、すぐに取り掛かれ」と、強い口調で命令を下した。
「かしこまりました!」
 研究員達が一斉に敬礼をするのを確認したジブリールは、満足そうな笑みを浮かべると「良い結果を待っている」と言い残し、ソファーから立ち上がり部屋を出て行った。
 その場に残された研究員の端末の画面には『AK−03臨床試験報告書』という文字が浮かび上がっていた。

随分と遅い更新になってしまいましたが『ゆりかご』の登場です(苦笑)
『ゆりかご』に関しての詳しい資料がなかったので、かなり勝手に解釈して書いておりますが、まぁ……目をつぶってやって下さい。
さて、主要メンバーの記憶も書き換えた事だし、次回はやっとムウさんを動かす事ができそうです。
また、いつの更新になるか分かりませんが、気長に待っていて下さい(苦笑)
って、誰も待ってなかったりして(自爆)



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