「で、どうだ?”ゆりかご”の調子は?」
モニターの向こうで真剣な顔をしている研究員に、ジブリールは問いかけた。
<はい、万事準備は整いました。あとは、被験者を確保するだけです>
「そうか。では、明日にでも実験はできそうなのだな?」
唇の端に怪しげな笑みを浮かべたジブリールに、研究員はきっぱりと返事を返す。
<はい。一応、明日の17時に計画実行予定ですので、うまく行けば、2時間後には実験が開始出来るかと……>
「そうか。では明日の夕刻にはそちらに向かう事にしよう」
モニターの向こう側の研究員が<かしこまりました>と軽く会釈をするのを見届けたジブリールは、一方的に通信を遮断する。
そしてテーブルの上のグラスを手に取ると、その琥珀色の中身を一気に呷り「明日が楽しみだな」と呟きながらバスルームへと姿を消した。
アーガスとクリス、そして身元不明の怪我人であるムウが、このプトレマイオスの病院にやってきて1ヶ月が過ぎた。
ムウの容態は安定し、体中に巻かれていた包帯も1本、また1本と日増しに少なくなってきている。
しかし、そんなムウとは反対に、ほとんど休みがない状態で働き続けていたアーガスとクリスの顔には、疲労の色が濃く出始めていた。
勤務を終えたアーガスは、重い身体を引きずるようにして院内の自室に戻って来た。
着ていた白衣を脱ぐと、それを無造作にソファーの上に放り出す。
そして、自分のデスクの前までやって来ると、その椅子にドサッと腰を下ろした。
「もう1ヶ月か……いや、まだ1ヶ月……だ」
背もたれに寄りかかりながらそう呟くと、真っ白な天井を見上げて目を閉じる。
ジブリールから言い渡された期限の3分の1が過ぎた。
身体中の怪我や火傷は徐々に快方へと向かっているのだが、一向に目覚める様子がない。
例の目覚める為の薬という物を使うには、火傷の傷跡が治りきっていない……。
あれだけの火傷が治るのには、まだしばらく時間が必要になるだろう。
カードン大佐は、どう判断するのだろうか……?
ぼんやりとした思考のまま考え事をしていると突然、机上の通信機がけたたましい音で鳴り響いた。
その音にハッとして身を起こすと、受話器を取る。
「アーガス・カロワイドです」
<あぁ、やはり部屋にいたのかね>
そこから聞こえてきたのは、フォルカー・カードンの声。
「はい、先程勤務が終わりまして、デコフレックス少佐に引継ぎをしてきましたので……」
これから宿舎に帰ろうかと……とアーガスが口にする。
<彼の……鷹の治療に関して、君の意見も聞きたいのでな。勤務が終わったばかりで申し訳ないが、私の部屋に来てくれないか?」
「分かりました。今から参ります」
<あぁ、すまない>
部下に意見を求めるとは、こんな軍の中……しかも、ブルー・コスモスのメンバーなのに珍しい事だ……と思いながら、アーガスは受話器を元に戻す。
そして、放り出されたままだった白衣に再び腕を通すと、デスクの上のパソコンを手にフォルカーの部屋へと向かった。
アーガスがフォルカーに呼び出されたのと同じ頃。
ムウの包帯を交換し終わったクリスが、ICUの管理スペースへと戻って来た。
使用済みの包帯や器具などの処理をしていると、突然「ご苦労様」と、後ろから声を掛けられる。
「えっ……?」
驚いたクリスが振り返った先には、マグカップを両手に持ったエレットの姿があった。
「包帯の交換、君にお願いする形になってしまって……」
「あ、いえ……気になさらないで下さい。デコフレックス少佐こそ、大佐とのお話はよろしかったのですか?」
少し笑みを湛えた顔で、クリスは片付けている手を休めないままエレットに訊ねる。
「あぁ、例の薬を使うかどうかって事で、色々と意見が聞きたいと言われてね」
失敗する訳にはいかないから、大佐も悩んでいるようだよ……と苦笑しながら、管理スペースの中央にある白いテーブルに、手にしていたマグカップを置く。
「そうですか……」
片付けの済んだクリスが、手を消毒しつつそう答えると、エレットが「まぁ、少し休憩しよう」とテーブルへと手招きをした。
「大佐から、珍しい物を頂いたから」「珍しい物……ですか?」
そう言われたクリスはカルテの端末を手にしたまま、不思議そうな表情でエレットのいるテーブルへとやって来る。すると甘い香りが彼女の鼻をくすぐった。
「ココアだそうだ」
エレットはマグカップの一方をクリスに差し出しながらそう告げる。
「私まで頂いてもよろしいのでしょうか?」
目の前に置かれたカップとエレットの顔を見比べながら、少し困った様子でクリスが訊ねると「大佐が、我々3人にくれた物だから、心配しなくてもいいよ」と笑顔を返された。
「では、いただきます」
そう答えながら、クリスは端末に傷口の消毒と包帯の交換の記載を済ませる。そして、おもむろに甘い香りのするマグカップを手に取った。
「ココアなんて、久しぶりです」
戦艦の食堂だと、コーヒーか紅茶しかありませんでしたから……と、嬉しそうな表情でそのマグカップに口をつけた。
湯気の出るカップをゆっくりと口に運ぶと、懐かしい甘さが広がる。
思わず笑みのこぼれたクリスに「適当に作ったんだが、君の口にあったかな?」と、エレットが恐る恐る訊ねてきた。
「えぇ、美味しいです。ありがとうございます」
その言葉を聞いたエレットが、少しホッとしたように表情を緩めると、自分も手にしているカップを口にする。
「甘いけど……美味いな」
ほぉっとため息をついたエレットが「疲れてるから、余計に美味いんだろうな」と笑いながらもカップを口に運んでいる。
「身体中にこの甘さが染みるみたいです」
クリスはそう言いながら、一口、また一口とカップを傾けていた。
「ここの環境には慣れたかい?」
突然、そう問いかけられたクリスは、驚いた表情で「えっ、えぇ……まぁ」と苦笑を返す。
そんなクリスの返事に「無理しないようにな」と微笑みながら、更にエレットは言葉を続けた。
「やはり、看護兵をもう1人追加してもらった方が……いいよな?」
あまりにも突然な話の展開に、クリスの頭が追いつかない。
「追加……ですか?」
イマイチ話が飲み込めないクリスが首を傾げると、エレットが「あぁ、さっき大佐と、その話もしていたんだよ」と苦笑した。
「我々のR−5専属の医療チームに、もう1人看護兵を追加してもらう申請を出そうという話になってね」
ココアを口にしながらエレットが説明をする。
「では、私以外の看護兵が増えるかもしれない……と言う事ですか?」
「あぁ、申請が通れば……だがね」
最後は苦笑しながらではあるが、エレットは明るい声でそう告げる。
対するクリスは複雑な心境で押し黙ったままだ。
「一人看護兵が増えれば、君の負担も減るだろう……って、大佐が気にしていたんだよ」
「大佐が……ですか?」「そうなんだ」
何か考えがあっての事なのか?それとも、本当に私の事を心配して?……色々な考えがクリスの頭の中を駆け巡る。
「どうした?」
急に黙ってしまったクリスに、エレットが不思議そうに声を掛けた。
「あ、いえ……ど、どんな人が来てくれるのかなって」
慌ててそんな事を口走ったクリスに、エレットは「なんだ。案外、気が早いな」と、くすくす笑う。
「……すみません」「いや、その気持ちは分かるよ」
慌てて謝罪の言葉を発したクリスに、エレットは怒る訳もなく優しく声を掛ける。
その様子にホッとしたクリスは、改めてココアの入ったマグカップに口をつけた。
フォルカーに呼び出されたアーガスは、上司の目の前で、今現在のムウの様子を報告していた。
「……そうか」
まだ、副作用が出る確率が高い新薬を使う事にフォルカー自身も迷いがあったようで、アーガスの報告に納得したような声を出した。
「出来ることならば、薬を使わない方がいいのですが……」
微妙に語尾が弱くなっていくアーガスに、フォルカーは「やはり、全員が同じ意見という事か」と、深い溜息を1つ漏らす。
そしておもむろに立ち上がると、部屋の片隅に備え付けられているコーヒーメーカーを手にし、その褐色の液体をマグカップに注いだ。
「眠れなくなるから、別の物の方が良かったかな?」
フォルカーは苦笑しながらそのマグカップを差し出すと「いえ、いただきます」と、アーガスは受け取る。
もう1つのマグカップにコーヒーを注いだフォルカーは、それを手に再び自身のデスクに腰を下ろす。
「やはり、まだ判断をするには早いな……」
そう呟いたフォルカーは、コーヒーを口にする。
その様子を見ていたアーガスも、手にしたマグカップに口をつけた。
かぐわしい香りが鼻腔を刺激するが、口に含んだそれは必要以上に苦く感じた。
「君はどう思うかね?」「え?」
突然、フォルカーに訊ねられたアーガスは、弾かれたように顔を上げる。
「……と、申しますと?」
恐る恐ると言った様子でアーガスがフォルカーの様子を伺うと「君ならば、あの新薬をいつ使うかね?」と、マグカップをデスクに置く。
「そうですね……とりあえず、あと半月ほど様子を見て、それから決めても遅くはないかと思うのですが……」
自身のパソコンのモニターを見ながらアーガスがそう答えると「それも、皆、同意見だな」とフォルカーが深いため息をついた。
そして、デスクの上に積み上げられていたファイルの山から、赤い背表紙の1冊を取り出すと、それをアーガスに手渡した。
「あの……これは?」
ファイルを受け取ったアーガスは、恐る恐るといった様子でフォルカーに訊ねていた。
「それが、例の新薬の報告書だ」
『AK−03臨床試験報告書』と書かれた表紙を見つめ、おもむろにページを捲る。
そこに書かれている臨床試験の顛末を読み進むにつれ、アーガスの表情が険しいものになっていった。
……これが薬?治療する為の薬なのか?……
……副作用が出血だけじゃなく、記憶障害も引き起こすだって?……
「その薬、使うべきだと思うか?」「えっ?!」
何ページか読み進めていたアーガスは、突然フォルカーに声を掛けられて驚く。
「医者の立場として言うとだな……正直、使いたくないのだよ」
そう言いながら、フォルカーはコーヒーを口にする。
苦虫でも噛み潰すような、そんな表情でそう話すフォルカーを見つつ、アーガスも再びコーヒーに口を付けた。
「でも、上から言われれば使わなければならない。彼を目覚めさせなければならない……」
それが私たちに課せられた使命だから……フォルカーは独り言のように呟くと、コーヒーを飲み干す。
フォルカーの言葉にどう返して良いのか迷ったアーガスは、押し黙ったまま再び報告書に視線を落とす。
そこに書かれているのは、動物実験から人体実験に至るその詳細。
<意識不明の期間が短いほど、如実に効果が現れる傾向がある。使う時期を見極めれば、副作用も低く抑えられる>
報告書の最後のページに書かれていたその一文を読み終えたアーガスは、小さく溜息を付き少し冷めたコーヒーを喉に流し込む。
パタンとファイルを閉じたアーガスに、フォルカーが「君はどう思う?」と再び問い掛けた。
「早い段階での薬の使用を奨励するような事が書いてありますが、臨床実験全てを見比べると、正直……結果は五分五分のような気がします」
やはりそう考えるか……と呟くフォルカーに、アーガスは手にしていたファイルを返そうとソファーから立ち上がった。
その時だった。
「……ぅっ……」
急に立ち眩みのような症状を覚えたアーガスの足がガクッと床に崩れ、その際、腕が当たったテーブルからマグカップが床に落ち、派手な音を上げる。
「おい!どうした?」
突然しゃがみ込むかのように崩れ落ちたアーガスに、フォルカーが驚いて立ち上がった。
「……す、すみません。急に……立ち……くらみが……」
自分の所に駆け寄ってきたフォルカーに大丈夫だと伝えようとしたアーガスだったが、身体が思うように動かせない。
それでもなんとかして立ち上がろうと、テーブルに腕を伸ばそうとするが、その腕は虚しく宙を切るだけで力なく振り下ろされる。
「大丈夫か?」「ぁ……ぅ……」
フォルカーの呼びかけに答えようとするのだが、まるで電池が切れてしまったかのように声が出てこない。
ぐるぐると渦を巻くように揺れ動く視界。
力の入らない肢体。
荒い呼吸音しか出す事の出来ない声帯。
……貧血……か?……あぁ、疲れが取れて……なかったから……なのか?……
「おい!カロワイド少佐!しっかりしろ!」
そう叫んだフォルカーはアーガスの身体を抱き起こすと、ソファーの上に引きずり上げるように横たえる。
そして、机上の通信機を取ると「ストレッチャーをすぐに!」と大声で叫んだ。
だんだん薄れていく思考の中で、アーガスは自由の利かない己の身体に、一瞬だけ不信感を抱く。
……俺はどうしてしまったんだ?……ふと、そんな事を考える。
が、……まぁ、今は……眠ろう……ひどく眠いし……と思うと、アーガスは考える事を停止する。
その隣でフォルカーが自分の名前を呼んでいる事を、彼はブラックアウトしていく意識の淵で感じ取っていた。
時同じ頃、ICUの管理スペースで世間話をしていたエレットが、自身の腕時計をチラリと見る。
……そろそろか?
そんな事をふと頭の隅で考えた時、クリスは手にしたマグカップの中身を飲み干していた。
「ごちそうさまでした……」「いや、どういたしまして」
クリスは、そう礼を述べながらニコリと笑うと、マグカップを手に立ち上がろうとする。
「……あれ……?」
立ち上がったはずのクリスが、俯きながら額に手を当てると、再びその席に腰を下ろす。
「どうかしたのか?」
不可解なクリスの行動に、エレットが声を掛けた。
「いぇ……急に目が回るような感じがして……」
うーんと軽く唸ったクリスは、自分の頭を支えるようにしてテーブルに肘を付く。
「貧血か?」
そう問い掛けながら、エレットはクリスの脈を診ようと彼女の細い手首を掴む。
「……そうかもしれません……なんだか、すごく……グルグル回っている感じが……」
彼女が言葉を口に出来たのはそこまでだった。
突然、ガクンと力が抜けたように頭を支えていた肘が外れ、クリスはテーブルの上に上半身を投げ出す。
「ウェルミー君!大丈夫かっ?!」
……あれ?……力が入らない……私……どうしちゃったの?……
エレットが自分の身体を抱き上げている事を、思考の隅でなんとなく感じながらも、クリスは深い闇の中に引きずり込まれて行った。