視 察



 内線で呼び出され、保管室でO型の輸血パックを受け取ったクリスは、ICUへと急いでいた。
「どこも人手が足りないから、仕方ないわよね」と、ため息をつきながらICUの扉の向こうで消毒を済ませ、専用の白衣を着用する。
 そして、ムウのカルテを確認する為に、ICUの管理スペースへと足を進めた。

 ……ニャォ……
 突然、クリスの耳をかすめたのは猫の鳴き声。
「え?猫?!」ふと自分の耳を疑ったクリスは、自分の周囲をぐるりと見渡す。
 が、特に猫の姿を見つける事もなく「空耳よね」と一人で苦笑しながら、ICUの管理スペース内に足を踏み入れた。
 そして輸血パック追加の書き込みをする為にムウのカルテを確認しようとしたが、肝心のカルテが見つからない。
 カルテがずらりと並んでいる棚の前で、何度と無く”R−5”と書かれた端末を探す。
「あの……特別3号室の患者さんのカルテは、どなたかが使っていますか?」
 もしかして……と思い、すぐ後ろにいた別の看護兵に尋ねると「あぁ、先ほどカロワイド少佐が持って行かれましたよ、病室の方へ」と手短に説明された。
「分かりました、ありがとうございます」と礼を述べると、輸血パックを手に病室へと向かった。

 ……ニャーォ……「えっ?」
 隔離されたムウの病室の近くまでやって来た時、クリスは再び猫の鳴き声を耳にした。
 慌てて周囲を見渡すと、ムウの病室のドアを、小さな前足でパリパリと引っかいている黒い子猫の姿がそこにあった。
「ウソでしょ?!なんで子猫がいるの?!」
 思わず大きな声で叫んだクリスに気付いた別の看護兵が、慌ててそこに駆けつけた。そして、その子猫を白衣のまま大事そうに抱え上げると、クリスに「ごめんなさいね」と苦笑した。
「どうして、ココに子猫がいるんですか?」
 普通、ICUはおろか病院内に動物を連れ込む事は出来ない規則のはずである。
 それが、重症患者達の治療をする場に子猫が紛れ込む事など、通常では考えられない事だ……と、クリスは少々興奮しながらその看護兵に訊ねていた。
「この子は特別なの。どうしても、あの方が連れて入ると……」
 その看護兵が顔を上げた先は、ムウが眠っている病室のガラス張りの壁。
 彼女の視線が捕らえていたのは、その窓の向こう側……ムウのベッドサイドに立つ、クリーム色の私服姿の男性だった。
 ICUへ入室する際の専用の白衣を身に付ける事もなく、さもそれが当たり前のようにその場に立っている。
「あの方って……」「ロード・ジブリール氏よ。だから、無理にこの子を病院の外に出す事が出来なくて……」
 小さいため息をつきながら、その看護兵は答えた。
「ジブリール氏って……一体、どういう方なんです?」
 その名を聞かされた時から疑問に思っていた事を、クリスはふと口にする。するとその看護兵は驚いた表情で彼女を振り返った。
「あなた……もしかして、何も聞かされないままココに配属されたの?」
「え?……えぇ。突然、転属を言われただけで……」
 おずおずと答えたクリスに、その看護兵は「そうなのね」と再びため息をついた。
 そしてまだ不思議そうな顔をしているクリスの耳元に顔を近づけると、小声で「ジブリール氏って、ブルーコスモスの副盟主よ」と囁く。
「えっ?!」
 その答えに、クリスは思わず大きな声をあげていた。
「ちょっと、声が大きいわよっ!」
 そう言われてクリスは、反射的に手で口を塞ぐ。
 
 ……頭の中が凍りついて行く……

 反コーディネーター主義者で構成されているブルーコスモス。
 その存在は、もちろんクリスも知っていたが、実際にその中心人物を目にするのは初めてである。
「……ブルーコスモスが絡んでいたなんて……」
 消えそうな声でクリスが呟くと、隣に並んでいる看護兵が「ココの人間の約半分は、ブルーコスモス絡みなのよ。覚えておいた方がいいわ」と、再び小声で耳打ちをする。
「ついでに……」
 思い出したかのように、彼女は再びクリスの耳元に顔を近づけると「近いうちに、ジブリール氏が新しい盟主になるって話よ」
「え?今の盟主は?」
 クリスがそう問いかけると、子猫の頭を撫でながら再び小声で話してくれた。
「ヤキンでの戦いに、自ら新造艦で切り込みに行ったらしいんだけど、どうやらその艦が沈んだみたい」
「って事は、軍で言う”MIA”?」
「えぇ、そうらしいわ」
 彼女の腕の中で、子猫がゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
 その様子に目を細めながら「ヤキン宙域での捜索が続いているらしいけど、艦が沈んだのならば絶望的よね」と小さく呟く。
 確かに、宇宙空間で艦が沈めば、それは必然的に死を意味する。
「捜索しても見つからなければ……と?」「そうみたい」
 彼女の話を耳にしながら、クリスは小刻みに震えている指先を、ギュッと握り締めた。
「だからこそ軍の上層部は、あの人物の言いなりになってるのよ」
 先程まで子猫を見つめていた時とは明らかに違う、怒りに満ちたような瞳で、彼女は病室内のジブリールを見つめている。
「プラントに対抗する力と財力を持つ、唯一無二の組織だし。軍としても、そこに取り入ろうと必死なんでしょうね」
 そんな事に、どんな意味があるのかしら?……彼女がそう呟くのを、クリスは不思議な気持ちで見つめていた。
「何故、そんな話を私に?」
 ふとクリスの口をついて出た疑問に、彼女は再び微笑みながら振り返る。
「……私も、あなたと同じだから」「えっ?」
 彼女も自分と同じ立場の人間……?
 クリスが、その言葉の意味を理解するよりも早く、彼女が口を開く。
「ただ、平和に暮らしたかっただけ。自由が欲しかったから、軍に入って戦う事を選んだの」
「私も……です」
 そう言いながら彼女の笑顔は少し寂しげに変化する。そして「それなのに、こんな事になっちゃった」と諦めにも似た言葉が出てくる。
「私も、何も知らされないままココに転属になったの」
 上官が話してた秘密を、たまたま耳にしてしまったから……と苦笑しながら、彼女は目の前の病室で何やら怪しげな笑みを浮かべながら指示を出している様子の副盟主に視線を移した。
「そうだったんですか……」
 それを聞いたクリスは、不謹慎だが同じ境遇の人がいた事に少しだけホッとした。
「あなたもそんなところでしょ?」「えぇ」
 クリスはそう返事をしながら、病室で未だ眠りについているムウを見つめる。
「私はニーナ・バルナックよ。私でよければ、いつでも相談にのるわ」
「クリス・ウェルミーです。こちらこそ、よろしくお願いします」
 軽く頭を下げたクリスに、ニーナと名乗った彼女は優しく微笑んでいた。



 薄暗い病室の中で、煌々と点滅している計器がまぶしく目に反射する。
 そんな中で、ベッドを取り囲むようにして立っているのは、ムウの担当である3人の軍医と1人の私服の人物。
 私服の人物……ジブリールの隣で、フォルカーが手にした端末を操作しながら、ムウの病状の経過を報告している。
 それに耳を傾けながらジブリールは勝ち誇ったような笑みをその口元に浮かべていた。
「……以上が”R−5”の現状です」
「ふん、そうか」
 ジブリールはそう短く言い放つと、「せっかく、生き残る為の道を用意してやったというのにな」と、包帯が巻かれているムウの顎先に手を伸ばし、ぐいっと無理矢理自分の方に向ける。
 その行為に、意識の無いムウが少しだけ顔を顰めると、ジブリールはクククッと喉の奥で冷ややかに笑う。
「あの時、素直にカルフォルニアに行っていれば、こんな目には遭わなかっただろうに。バカな奴だ」
 だが……と言いつつムウから手を離すと、高揚した気持ちを押さえつけるかのように、わざと低い声を発する。
「おかげで、こうして君を我が手中に収める事が出来た。それには感謝しなければなるまい……”エンデュミオンの鷹”よ」

 病室の中に、ジブリールの甲高い笑い声が響き渡るのを、アーガスは虫唾が走る思いで聞いていた。

 ムウ・ラ・フラガは軍を離反してまで、アークエンジェルや、あのラクス・クラインと共に戦っていたらしい……と、カードン大佐から聞いた。
 しかし、いくらブルーコスモスに命を助けられたとは言え、目覚めた彼が素直にジブリールの言いなりになるのだろうか?
 普通ならば、隙を見てここを逃げ出そうとするだろう……。
 そんな事を心の隅で考えながら、アーガスはジブリールとフォルカーのやり取りをじっと見ていた。

「記憶に関しては、こちらで準備しておく。とりあえずは、鷹が目覚めなければ意味がない」
 再び冷ややかな態度でムウを見下ろしながら、ジブリールはフォルカーにそう指示を出す。

 ……記憶の準備?
   何だ、それは?……
 ジブリールのその一言が、アーガスの心の中に小さな疑問を抱かせた。
 だが、そんな小さな疑問を考える暇も無く、ジブリールとフォルカーの会話は続いている。

「命は取り留めたようですので、あとは意識が回復するのを待つしかありません」
 医師としての意見をフォルカーが述べた途端、ジブリールは「だが、そんなに長くは待ってはいられん。その事だけは肝に命じておけ」と命令口調になる。
 それに反応したフォルカーが「はっ、かしこまりました」と頭を下げる。
「目覚める可能性はあるのだろう?」
 それが当たり前だという口調でジブリールがフォルカーを鋭い目線で捕らえる。
「はい、精密検査では脳内の損傷は見当たりませんでしたので、かなり高い確立で目覚めると思われます」
 再びカルテの端末に目を落としながらフォルカーが答えると、ジブリールは満足気な笑みを浮かべる。
「そうだな……3ヵ月以内に良い結果を報告しろ。それ以外の報告は必要ない」
「と、申しますと……」
 恐る恐るフォルカーが訊ねると、ジブリールはフンッと鼻で笑いながら「目覚めないのならば、全て処分だ。鷹も……君達もだ」と更に低い声でムウを睨み付ける。
 彼が目覚めなければ、ムウも自分達も処分されるという事……。
「ど、どんな手を使ってでも、必ず目覚めさせます」
 額に汗を滲ませたフォルカーが敬礼しながらそう宣言すると、エレットとアーガスも慌ててジブリールに敬礼をする。
 だが、敬礼しながらアーガスの心の中は、言いようの無い怒りが渦巻いていた。

 ……目覚めなければ処分だなんて、人の命を何だと思っているんだ?!……
 苦い何かが胸の奥から湧き上がってくるのを感じながらも、それをどうする事もできない自分に、アーガスはただ左手を強く握り締めていた。
   
「飛べない鷹は必要ない。私の思うままに飛んでくれる鷹が、これからの時代に必要なのだ。分かっているだろうな?」
 更に追い討ちをかけるかのようなジブリールの言葉にもどかしさを感じつつも、3人は立場上、反論する事が出来ないまま「はい」とだけ返事をする。
「彼が目覚めたら、また私も来るとしよう。……良い報告を待っている」
「はっ!」
 再度3人は敬礼をすると、笑みを浮かべつつそれを確認したジブリールが病室を後にする。
 
 病室から出てきたジブリールを確認したニーナは、小声で「見送りに行ってくるわ」とクリスに告げ、子猫を抱きかかえたまま、慌てて副盟主の後ろについて行く。
 それを見送ったクリスは、改めてムウのいる病室に視線を合わせると、その室内では、難しい表情の3人がカルテを見ながら何事かを相談しているのが見える。
 今、病室に入ってもいいのかしら?と、少し躊躇いながらも、クリスは扉のノブに手をかけた。