コペルニクスで患者の搬送手続きを済ませ、補給もそこそこでプトレマイオスへと向かうその艦の中で、アーガスはムウのデータやカルテを整理していた。
 揃えた資料をディスクに落とすと自身のハードケースに仕舞う。そして殺風景になった自室を見渡してから、一度敬礼をして部屋を出て行った。

 同じ頃、クリスもシルバーのトランクを手にすると、親友のルイーザと握手をする。
「大変だろうけど、無理しないでね」「ルイーザもね」
 じゃあ、と言いながら部屋を後にすると、クリスは医務室へと向かった。

 医務室に残っている患者は”R−5”ことムウただ1人。
 その周りでアーガスと同僚の軍医が、搬送準備をしている。
 簡易クリーンルームに仕立てられたストレッチャーをクリスがムウのベッドに横付けし、その場にいた全員でムウをそちらに移動させた。

「短い間でしたが、色々とありがとうございました」
 艦の搬入口に並んだ士官達に、アーガスは敬礼をして挨拶をする。
 その隣のクリスも「ありがとうございました」と同じく敬礼をしていた。
「では、その患者の事、よろしく頼む」
 艦長のキエフが神妙な面持ちで2人に声を掛けると、見送りの為に並んでいた士官達も敬礼を返していた。
 全員が敬礼で立ち尽くす中、アーガスとクリスと共に、簡易クリーンルームのストレッチャーに乗せられたムウが病院行きの輸送車へ乗り込んだ。

 たった30分程だというのに、アーガスとクリスにとっては、果てしなく遠い場所に思えていた。
 病院に着けば、自分達は二度と元の世界には戻れないのだろう……そんな思いが2人の口数を自然と少なくしていた。

 しばらくして輸送車は、病院の救急搬入口に到着した。
 そこでアーガス達を出迎えたのは、担当医らしき人物と数名の看護兵だった。
「ご苦労様です、カロワイド少佐……ウェルミー軍曹」
「いえ。そちらこそ、お出迎えありがとうございます……えっと」
 出迎えた医師は、アーガスの知らない人物。
 自分がここから転属になった後に配属された人物なのだろう……と考えていると、その人物が慌てて自己紹介をした。
「あぁ、私はエレット・デコフレックスと言います。一応、階級は同じ少佐です」
 よろしくと言ってエレットから差し出された右手を、アーガスは「こちらこそ」と言いつつ握り返した。

 そのままエレットに先導されて、アーガス達は建物の奥へと足を進めた。
「とりあえず、彼は集中治療室の方で治療します」「そうですか」
 歩きながらそう説明されたアーガスは、短く返事をするだけにとどまっている。
 『集中治療室』と書かれた表示版が長い廊下の左手に見える。その手前でエレットは立ち止まり「こちらの部屋をお使いください」と扉を開けた。
 勧められるままその部屋に足を踏み入れたアーガスとクリスは、持ってきた荷物を部屋の隅に置く。
「こちらは、お二人の事務スペースの為の部屋ですので、自由にして頂いて構いませんよ」
「そうですか、ありがとうございます」
 言われると、確かに室内にはデスクが2つ用意されている。
「それで、早速なのですが……”R−5”のカルテはありますか?」「ええ、こちらに」
 慌てて自身の黒いハードケースからデータの入ったディスクを取り出すと、それをエレットに手渡す。
 エレットは自身が持参した端末にそれを挿入すると、事前に画面に出ていたデータと見比べながら改めて口を開いた。
「確かにこのデータは……”鷹”ですね」
「「えっ?!」」
 エレットの言葉に、アーガスとクリスは思わず凍りついた。
「その事を……なんで?」
 思わず漏らしたアーガスに、エレットは「担当医である者は、知らされておりますので……ご心配なく」と言い切る。
 その事実にアーガスもクリスも愕然とし、言葉を失っていた。
「ああ、それから……」
 未だ動揺の消えない2人に、エレットは端末を片付けながら振り返り声を掛けた。
「な、何でしょうか?」
 震える声で、アーガスがエレットにその言葉の続きを聞こうとする。
「お疲れのところ申し訳ないのですが……お2人とも後で結構ですので、ICUの方までお願いします。彼の治療に関して、主任と確認しますので」
「分かりました。すぐに向かいます」
 表情を変える事なくエレットは「私は隣の部屋にいますので、何かあったら声を掛けてください」と言い残し、その部屋を後にした。

 持ってきた荷物の中から、とりあえず必要な書類などを取り出し、白衣を羽織る。
 クリスも看護士用の白衣を身に付け、IDカードを胸に取り付けた。
「なんと言うか……私達は完全に閉じ込められたようだ……」
 身支度を整えたアーガスがポツリと漏らすと、クリスは背筋が寒くなる感覚に襲われた。
「私達は、ここで監視された生活しか出来ないみたいですね」
 アーガスは溜息をつくと「そういう事だろうな」と呟く。
「……あまり深く考えないで彼の治療に没頭していた方が、今は楽なのかもしれないな」
 アーガスが言った一言は、現在の2人が何事もなく過ごしていく為の最善策だ。
 クリスは「そうですね」と、無理矢理笑顔を作りながら答えると、アーガスの後ろから彼の待つICUへと向かった。

 ICUの二重扉の前まで来た2人は、規定通りの消毒を済ませると、ICU専用の白衣に着替え扉の奥へと足を踏み入れる。
 部屋の中央に設置されている管理スペースでは、数人の医師と看護士がそれぞれ手にした端末を見ながら話しこんでいた。
「もしかして、カロワイド少佐ですか?」
 その中の1人の看護士が、彼らに気付いて声を掛ける。
「ええ。本日付けで、またこちらにお世話になります、アーガス・カロワイドです」
 初対面の軍医達に敬礼と共に簡単に自己紹介をすると、続けてクリスも同じように自己紹介をする。
「同じく、本日付けでこちらに配属になりました、クリス・ウェルミーです。よろしくお願いします」
 慌てて敬礼をしたクリスにも、周りの軍医達から「こちらこそ」と声が掛かり、彼女はホッと溜息をついた。

 一通りの自己紹介が済み、エレットと共にICU内の特別室へ向かった。
 一般の重症患者とは隔離された個室が、その部屋の奥に3室ある。
 その一番右端の部屋で、ムウは未だに深い眠りについていた。
 
 薄暗いその室内に入ると、ベッドの周りに設置されている計器類の光がやたらと目に付く。
 一定の波形を映し出しているモニターの前に、1人の軍医が立っている。
「カードン大佐、本日付けで配属されたカロワイド少佐とウェルミー軍曹です」
 2人の前にいたエレットがそう告げると、大佐と呼ばれた男性が後ろを振り返った。
 その場にいた2人は、無意識に敬礼をすると弾かれるように自己紹介をした。
「アーガス・カロワイドです」「クリス・ウェルミーです」
 それを見届けたその人物は、ゆっくりと口を開いた。
「ご苦労様。私が、彼の主任担当になるフォルカー・カードンだ。よろしく」
「「よろしくお願いします」」

 フォルカーから今後の治療方針を聞いた後、改めてムウの処遇についての説明を受けたアーガス達は、与えられた自室に戻っていた。
 戦場から戻ってきたばかりの2人に、今日はゆっくり休むようにとフォルカーからの気遣いがあったからだ。

<彼の治療に関しては、全てある方からの命令で成り立っている。彼に関して、何か変化があった時は、必ず報告するように>
 ある方とは、一体誰なんだ?
 軍の上層部の人間なのか?
<彼の事について事情を知っているのは、我々4人だけだ。決して他の者にはこの事を話してはならない。これは命令だ>
 頭の中で、先程フォルカーから説明された言葉が、何度もリフレインされている。

「本当に、どうしようもないんですね」
 自分のデスクの上を整理していたクリスが、ポツリと漏らした。それを聞いたアーガスは「そうだろうな」と短く返事をする。
「目が覚めたら……彼はどうなるんでしょう?」
 クリスの素朴な疑問は、実は一番大きな問題なのだろうとアーガスは思う。
「さぁ、それは……私にも分からないよ。彼の治療を統括しているという人物が誰なのかも分からない状態では、一体どうしたいのかさえも読み取れん」
「……そうですよね。すみません、変な質問して」
 クリスがぺこりと頭を下げるのを見て「いや、いいんだ。私も同じ事を考えていたからな」と、アーガスは少し淋しげな笑顔を見せる。
 その時、デスクの電話が鳴り響いた。
「はい、アーガス・カロワイドです」
<エレット・デコフレックスです。すいません、せっかく休憩されていた時に……>
 受話器の向こうから、エレットの申し訳なさそうな声が聞こえた。
「一体、どうされたのですか?」
 何事かと思ったアーガスが問いかけると<急にカードン大佐から、ICUに来るようにと連絡がありまして>と慌てて答える。
「分かりました。ウェルミー軍曹と共に、すぐに参ります」<お願いします>
 アーガスは受話器を元に戻すと、隣のデスクで片付け物をしていたクリスの方を振り返った。
「大佐からお呼び出しだそうだ」「あ、はいっ!」
 そう言うとアーガスは、椅子に掛けてあった白衣に再び袖を通し、部屋のドアを開ける。
 クリスも慌てて、その後に付いて部屋を出て行った。

 予想通り、ICUの管理スペースにエレットが座っていた。
「あぁ、すいません。もうすぐ大佐はやってくると言ってましたが……」
 2人の姿に気付いたエレットが端末を手にしたまま立ち上がり声を掛けた。
「いえ……とりあえず、彼の状況はどうですか?何か変化とかありましたか?」
「そうですね……こちらに着いてから、また出血が酷くなってきたような気がするのですが……」
 端末を操作してデータを表示させていたエレットが、それをアーガスの前に差し出す。
「そうかもしれませんね。じゃあ、大佐が来るまでに、ちょっと確認してみましょうか?」
 エレットにそう声を掛けると、集中管理されている計器類が並んだブースまで3人は移動した。
 心電図・脳波計……その他の計器類には今の処、異常な数値は出ていない。
 ある意味『安定している』という状態ではある。
 ただ、艦から病院への移動で、塞ぎかかっていた傷口が何箇所か口を開けてしまい、真っ白い包帯に再び赤いシミが浮き出ていた。
「出血は2日前と比べると少なくはなっていますが、念の為にあと500程輸血を追加しましょう」
「えぇ、意外と背中からの出血が酷いですから」
 アーガスとエレットの意見は、医師として一致する。それを聞いたクリスはすぐさま保管室に連絡を入れ、O型の血液の手配を整えた。
「10分後にこちらに輸血パックが届くそうです」「ああ、ありがとう」
 通信機を置いたクリスがそう報告すると、アーガスが短く返事をする。
 するとそこへ、フォルカーが近づいてきた。
「すまないが、これからあの方が彼の様子を視察しにいらっしゃる。くれぐれも口は慎むように」
「「はい……」」
 突然そう言われて、アーガスとクリスは目を丸くする。しかし、事情を知っているエレットは涼しい顔で「もういらっしゃるとは……」と、違う意味で驚いている。
「あの……一体どなたがいらっしゃるのですか?」
 『あの方』という呼び方……アーガスは直感で、ムウの治療を統括している人物を指していると想像できた。
 その人物が一体どういった経緯でムウの治療を指図しているのか……その真相を知る為にも、今回の命令を下した者が誰なのかを確認したいと思ったアーガスが、フォルカーに質問する。
「あぁ、そうか。君達にはまだ話していなかったな」「はい」
 カルテを確認していたフォルカーが、顔を上げるとアーガスとクリスの方に振り向いた。
「あの方とは、ロード・ジブリール氏だ。軍の後ろ盾をしてくれる方だからな、くれぐれも粗相のないようにな」
「「は、はいっ!」」
 ジブリール……その名を耳にしたアーガスは、心臓が凍り付きそうな感覚に襲われる。
 道理で、たった数日でここまでの手筈を整えられた訳である。
 アーガスは自身の白衣をギュッと握り締めると、唇を噛み締めていた。
 事情を飲み込めていないクリスが、アーガスの震える拳に気付き「カロワイド少佐?」と声を掛けるまで……。

 

次回は、いよいよジブさん登場です(笑)
ってか、いい加減にムウさんを動かさないと……(-_-;)
これじゃあ、ムウマリュサイトじゃないって言われそうですよね……。

う〜んっ……次回はムウさんに変化があると……いいなぁ〜?!(希望的観測?