監 視


 アーガスは艦内の移動ベルトに左手を掛け、艦長室から医務室へ向かっていた。
 反対の手には、艦長のキエフから渡された2枚の用紙が握られている。
「やられたな」
 苦々しい表情でそう小さく呟くアーガスは、医務室の前までやってくると深い溜息をつき、そのドアを開けた。

 重力設定のある医務室に入ってきたアーガスは、床にふわりと足を着けるとまっすぐに自分のデスクにやって来る。
 そしてそのまま椅子に腰を下ろすと、持っていた用紙をデスクに叩き付けた。
 バンッ……
 規則的な機会音しかしない医務室の中、突然響いた音に驚いたクリスが薬品庫から慌てて戻ってきた。
「あ、カロワイド大尉?」
 医務室に戻ってきたクリスは、デスクにアーガスが座っているのに気付いて近づいてくる。
「今、何か大きな音がしませんでしたか?」
 不思議そうな顔でアーガスに訊ねたクリスに対して、アーガスは「あぁ、私だ。すまない」とだけ答えた。
 何か様子がいつもと違う……そう感じたクリスがドリンク・ディスペンサーからパックを1つ取り出すと、それをアーガスに差し出す。
「どうかしましたか?」
「あぁ、ちょっとな」
 そう言いながらドリンクパックを受け取ると、ありがとうと言いつつ、カルテの束を持って交代する同僚の元へと席を立った。
 そして席を離れようとしたアーガスが、思い出したようにクリスを振り返る。
「引継ぎが終わったら、君に話したい事があるんだが」
「私にですか?」
 突然そう言われたクリスは「はい」と答えながら首を傾げていたが、そのまま仕事途中だった薬品庫まで戻って行った。

 引継ぎを終えたアーガスは、患者の様子を確認しつつデスクに戻ってきた。
 先程クリスから受け取ったドリンクパックが、まだ口をつけられないままデスク上に置いてある。
 それを手に取ると、下敷きになっている無造作に折られた2枚の紙が目に入った。
 アーガスは、チッ……と小さく舌打ちをしつつドリンクパックを口にする。

 本来ならば、ありえない事だ……と、アーガスは考えていた。
 争いが一段落したばかりだという時に、一介の軍医と看護兵がそろって昇進。
 昇進したのは自分達だけ。
 
 そう。
 ”R−5”をムウ・ラ・フラガと確認した、自分達だけが……だ。 

 おかしくないと思う方が不自然だろう。
 納得しろと言われても、納得できない。
 自分達の知らない何かが、自分達を取り巻いているのかも知れない……そう考えるのが正しいだろう。

 静かに自問自答をしていたアーガスの元に、薬品庫から戻ってきたクリスが声を掛けた。
「カロワイド大尉?」
「……あっ、ああ……ウェルミー君か」
 クリスの声で我に返ったアーガスは、デスク上に広げたままだったカルテを手早く片付ける。
「あのぉ……お話って、何でしたか?」
 恐る恐ると言った様子でクリスが訊ねると、アーガスは何から話そうかと少し考えて口を開いた。
「あの”R−5”の患者の事だが……」
「搬送される病院が決まったんですか?」
 少し明るい表情でクリスが聞き返した。
「彼は、コペルニクスでは降ろさない事になったんだ」
「えっ?」
 その一言で、クリスの表情が再び不安に曇る。
「コペルニクスで患者の搬送を済ませたら、このまま月基地まで行く事になった」
「でも、月基地は壊滅状態ではないのですか?」
 クリスの表情が、更に不安の色を濃くしていく。
「基地本部だけが攻撃された状態だったようだよ。港も辛うじて残っているようだし」
 その一言を聞いたクリスは、少しだけ納得した表情を見せた。
 が、すぐに沸いてきた疑問をアーガスにぶつけていた。
「それで、そんな状態の月基地へあの人を連れて行っても大丈夫なんですか?」
「プトレマイオスの軍事病院は知っているよな?」
 はい……とクリスは答えたものの、彼女自身はその病院については詳しくは知らない。
「あの病院は基地本部から少し離れた場所にあるんだ。だから、病院の施設は無事だったそうだ」
「という事は、そのプトレマイオス軍事病院に搬送されるんですか?」
 クリスは、なんとなく理解できた様子で聞き返していた。
「あぁ。あそこは軍としては最高の設備が整っている病院だからな。彼の治療も、良い方向に進むかもしれん」
「それならば良かったですね」
 病院の情報を耳にしたクリスは安心し、笑顔を浮かべている。
 その彼女の笑顔を目にしたアーガスは、これから彼女に告げなくてはならない重要な事を思い出し、少し表情を曇らせた。

 今、この場で彼女に異動の話を伝えるべきか……。
 先程キエフから渡された用紙をクリスに見せたら……間違いなく驚くだろう。
 異動と同時の不可解な昇進。
 勘の鋭い彼女ならば自分と同じように、その昇進に疑問を持つのは間違いないと容易に想像できる。
 他のクルーの目があるこの場で、異動と昇進の話をするのは得策ではない……。
 そう考えたアーガスは、時計をチラリと目にした。
 今は2時前。
 交代要員がやってくるのは6時。
 幸い、クリスと自分の勤務時間は同じサイクルになっている。
 ならば……とアーガスは考えをまとめた。
「それから、もう1つ大切な話があるんだが……」
「はい?」
 これ以上、何の話があるのかと不思議に思ったクリスは、きょとんとした顔でアーガスを見ている。
「オフになったら、私の部屋まで来てくれないか?」
「えっ?」
 突然のアーガスの言葉に、クリスは驚いている。
「彼の搬送について、相談しておかなくてはならない事があるから」
 とりあえずは、そう話しておけば不信に思わないだろう……と、アーガスは少し焦りながらも答えた。
「あ……そうですね。分かりました」
 クリスはその説明で納得したという表情で返事をする。
 それを確認したアーガスは、すこしばかりホッとしていた。


 デスクの時計が6時を指している。
 アーガスと交代する為に医務室にやってきた同僚の軍医は、簡単な引継ぎをして足早に患者を診に行った。
 それを確認すると、デスクの上に置かれたままになっていた2枚の用紙を手に、彼は医務室を後にした。

 自室に戻ってきたアーガスは、ベットに腰掛けるとそのままバタンと仰向きに倒れ込んだ。
 押さえ目に点けた照明に照らされた天井をぼーっと眺めて、今日何度目かの溜息をついていた。
「いつまでも、こんな事していても仕方ないか……」
 自分に言い聞かせるかのように呟くと照明を明るく切り替え、クローゼットから支給品の黒いハードケースを取り出す。
 そして、そこに片付けてあった着替えや、身の回り品を順にそのケースに詰め込んでいった。

 ほとんどの荷物を詰め込み終わった時だった。
 インターホンが鳴り、クリスがやって来た事を知らせる。
<カロワイド大尉。クリス・ウェルミーです>
 小声でそう告げる彼女の声を聞き、アーガスは急いで扉のロックを解除した。
「ウェルミー君、すまないね。せっかくの休憩時間だっていうのに」
 本当に申し訳ないという気持ちで軽く頭を下げる。
 普段ならば上司が部下に頭を下げるという事は有り得ない。
 そんな現実を目の当たりにしたクリスは、驚いて「大丈夫です!」と慌てて叫んでいた。

 さて、彼女にどう話を切りだそうか……そうアーガスが考えていた時だった。
「カロワイド大尉、転属なのですか?」
 蓋が空いたままになっていたハードケースの中身が目に入ったクリスが、不思議そうに訊ねてきた。
「あ、あぁ……転属が決まったんだよ」
 簡易キッチンからコーヒーの入ったカップを2つ持ってきたアーガスは、そのうちの一つをクリスに手渡し、部屋の真ん中にあるソファーに腰掛ける事を促す。
 ありがとうございますと言いつつソファーに腰掛けたクリスに、アーガスはデスクの上にある用紙を1枚彼女に手渡した。
「その転属なんだがな……君もなんだよ」
「え?」
 何の事だか、イマイチ理解していないような表情のクリスに、その用紙をよく見るように……と説明した。
 そこには、クリスへの異動命令と昇進報告が記載されている。
「これって……どういう事なんですか?」「……そういう事なんだ」
 歯切れの悪いアーガスの答えに、納得していないと言わんばかりにクリスは質問を浴びせかけた。
「いきなり『プトレマイオス軍事病院』に行けと言われても……。それに『軍曹』って、どういう事なんですか?」
 その問いかけに、アーガスは無言で自身の異動命令書もクリスに手渡す。
「……『少佐』?」
 2枚の用紙を交互に見つめていたクリスの表情が途端に強張る。
「大尉と私が、共にプトレマイオスに異動……。一緒に”あの人”もその病院?」
「あぁ、そういう事だよ」
 そう言いながら、アーガスは手にしていたコーヒーを一口喉に流し込む。
 いつもならば感じるコーヒーの香りも、今の彼にはただのぬるま湯のように思えていた。
「まさか……ですけど、私達が”あの人”の秘密を知ってしまったから、行動を共にさせられるって事ですか?」
「よく言えば、そういう事だな」
「よく言えば……って?」
 不安げな様子でクリスはアーガスに詰め寄った。
「要するに『秘密』を全て、上層部の管理下に置く……という事だろうな」
「……私達が、その『秘密』を外部に漏らさないように、上層部から監視される……」
「そういう事だろう……」
 苦々しくその一言を口にしたアーガスは、やり切れないといった様子で握った拳に力を込めた。
「うそっ……そんなっ……」
 軍の策略にまんまとハマってしまった事を理解したクリスは、呆然とその用紙を見つめている。
「私達を昇進させて、その『秘密』を漏らさないようにさせよう……って魂胆だな」
 諦めにも似たアーガスの呟きが、言葉を失ったクリスの耳にも届いた。

「……もう……」「ん?」
 暫しの沈黙の後、震える声でクリスが絞り出すようにアーガスに問いかけた。
「私達……国に帰る事は……出来なくなった……そういう事ですよね?」
 今にも泣き出しそうなクリスが顔が、アーガスの視界に飛び込んでくる。
「彼が目覚めたら……そういう事になるのだろうな」
 諦めるしかない……アーガスも自分自身に言い聞かせるように呟く。
「軍という組織の中じゃ、私達には選択権がないですもんね……」
 クリスも諦めの混じった声でポツリと呟く。 
「君をこんな事に引きずり込む事になってしまって……本当に申し訳ない。私があの時、自分でデータ照合をしていれば、自分1人だけで済んだのにな」
 そう言うと、アーガスは目の前に座るクリスに深々と頭を下げる。
「仕方ありませんよ。これも私の運命だったんでしょうから。だから、謝らないで下さい」
 少し笑みを浮かべてクリスがアーガスを見つめる。
「でも、私1人じゃなくて、大尉……あ、少佐も一緒ですから、心強いです」
 無理矢理笑顔を作ったクリスはアーガスにそう告げると、すっかり冷めてしまったコーヒーに口を付けた。
「きっと、向こうの病院でも同じ配属になるだろう。またよろしく頼む」
「はい、よろしくお願いします」


 クリスはなんとも言えない気持ちのまま、自室のドアを開けた。
 そこには同じく勤務明けで熟睡している同僚の姿が見える。
 その彼女を起こさないように……と静かに自分の持ち物が入っている小さなクローゼットの扉を開けると、シルバーのトランクの中に荷物を詰め始めた。
「これ……」引き出しの中から出てきたのは、掌サイズのペアのテディベア。
 それは幼い頃に両親からプレゼントされた物であり、クリスはお守り代わりにと必ず持ち歩いているのだ。
 濃いブラウンの1匹と、オフホワイトの1匹。
 そのうちのブラウンの方は、背中がほつれてきている。
 それを手にしたクリスはしばらく考え事をしていたが、急にデスクに座ると何か書き始める。
 しばらくしてペンを置くと、その紙を丁寧に小さく折りたたみ、ほつれていたテディベアの背中からその中へと押し込んだ。
 そして、デスクの中から裁縫セットを取り出すと、ほつれていた部分を綺麗に縫い合わせ始めた。

 ベッドサイドのアラーム音で目を覚ました同僚のルイーザ・マミヤが、デスクからこぼれている灯りに気付いてクリスに声を掛けた。
「クリス……寝ないで何してるのよ?」
 ふわぁ〜と、伸びをしながら近づいて来たルイーザに、クリスは苦笑しながら振り返った。
「ん……実は、転属する事になっちゃったの」「えっ?!」
 まだ眠い目を擦っていたルイーザは、クリスのその一言で頭が一気に冴えていく。
「ちょ、ちょっと……それ、どういう事よ?」
 アンダーウェアー姿のルイーザに、クリスは『転属命令』と書かれた用紙を差し出す。
 それを受け取ったルイーザは、目を走らせながら「昇進もなの?」と更に驚いている。
「せっかく、一緒の艦に配属になったっていうのに……また別々の道に別れちゃうのね」
 淋しそうな表情でルイーザがそう告げると、クリスは「うん。仕方ないよね」と小さく答える事しかできなかった。

 幼馴染で一緒に軍立の学校を卒業した2人。
 卒業後は、クリスは軍事病院へ配属になり、ルイーザはオペレーターとして地元の部隊に配属されていた。
 同じ部署で働く事がなかった2人が久々に再会したのが、この艦への配属だったのだ。

「今度は、いつ会えるのかな?」
 そう聞いてくるルイーザに、クリスは「分からないわ」と困ったような顔で答えた。
「だって……」俯いて自分のスカートをギュッと握り締めたクリスは、絞り出すように声を発した。
「プトレマイオスの軍事病院だし。現状のあの場所からは、容易に個人的な通信も出来ないようだし……」
「うん」
「もしかしたら、地球に降下できないかもしれないって……」
「はぁ?何よ、それ?!」
 ふと漏らしたクリスの一言に、ルイーザは驚いた声をあげる。
「まだ分からないけど。だから……」
 そう言うと、先程繕ったばかりのブラウンのテディベアをルイーザに差し出した。
「これって、クリスが大切にしてるテディじゃん」
「地球に下りたら、これを私の家族に渡してくれない?」
 そのテディベアを受け取ったルイーザは「どうして?自分で渡せばいいじゃない?」と不思議そうにしている。
「あそこに行ったら、当分は帰れないみたいだし。それに、もし私に何かあった時、これだけでも家族の元に帰りたいの」
「……ちょっとクリス、まるで死に急ぐ人みたいな言い方しないでよ。縁起でもないわ!」
 眉をひそめてルイーザはクリスを見下ろしている。
「でも、先の事は分からないわよ。私もルイーザもね」
 少し淋しそうな笑顔を作りながら、クリスは困った顔をしている親友を見上げた。
「あぁ〜っ、もうっ!……そりゃ確かに、私達は地球降下の予定はもう立ってるけど……」
 はぁっと溜息をついたルイーザに、クリスは「だから、お願いしたいの」と彼女の手を握り締めた。
「分かったわよ。……でも、絶対にまた再会するって約束よ!」
「うん……また会いましょう」
 精一杯の笑顔を作ったクリスは、ルイーザに抱きつき「絶対に……」と呟いた