イスラーム世界の現状
「アラブの春」が始まって今年で5年が経つ。チュニジアで始まった市民による民主化の動きは周辺の国々に波及し、独裁政権が次々と倒れたことで、民主的で安定した社会への期待が生まれた。しかし、結果として、多くの国々で民主化の動きは実を結ぶことなく潰え、混乱の中から過激派組織「イスラーム国」(Islamic State、以下ISと略)が姿を現した。
ISは国境を越えて支配圏を伸ばし、さらに域内外の諸勢力が介入することで武力紛争は泥沼状態にはいり、多くの犠牲者や難民が今も生まれている。混乱の影響は中東地域に限定されてはいない。ヨーロッパでは大量に流入する難民が社会に大きな軋轢を生むとともに、世界各地で過激派組織に呼応するテロがイスラームの名のもとで実行されている。
ここで改めて言うまでもないことだが、世界の圧倒的多数のムスリムにとって、ISの主張はイスラームとは無縁であり、テロの拡大は心を痛める事態である。しかし、少なからざるイスラーム諸国が混乱の渦中にあり、イスラームを名目とするテロが頻発することで、ムスリム排斥を求める声に一定の支持が集まっていることも事実である。
イスラームは民主的で安定した繁栄する社会とは折り合わないのだろうか。だが、もしそれが不可能ではないとすれば、どのようなモデルがありえるのだろうか。ここでは、その一つの可能性としてインドネシアに注目したい。
インドネシアの今
インドネシアの首都ジャカルタには日本から直行便に乗って7時間半で到着する。2億5千万人を超える人口の87%がムスリムとされるから、およそ2億2千万人のムスリム人口を抱えていることになる。国別ムスリム人口としては世界第1位である。ちなみに、第2位以下にはパキスタン、インド、バングラデシュと続いてようやく中東のエジプトとトルコが来る。
こうしてみると、世界の大多数のムスリムは、中東ではなく南アジアから東南アジアにかけて住んでいることがわかる。これらの国々をイスラーム大国と仮に呼んでおこう。その中には、インドのようにムスリムがマイノリティ(14%)の国もあるが、インドネシアは国民のマジョリティがムスリムである世界に冠たるイスラーム大国である。
インドネシアの近年の発展には目覚ましいものがある。それは、安定した民主的な社会と堅調な経済成長によって支えられている。簡単に概観するために、いくつかの数値を挙げてみたい。数値は基準によって変わるものだが、参考にはなるだろう。
インドネシアの経済規模は名目GDPで世界第16位である。BRICsに続く新しい新興工業国と目されており、G20メンバーにも選ばれている。他のイスラーム大国と比べると、9位のインドは別格として、18位のトルコ、28位のイラン、38位のエジプトを引き離している。
次に、エコノミスト誌による民主主義指数のランキング(2015年)によると、インドネシアは指数7.03で49位である。これは「欠陥のある民主主義」に区分されるが(ちなみに23位の日本もこの区分)、ASEAN諸国のなかでは最高位であり、他のイスラーム大国と比べた場合、35位のインドには譲るが、97位のトルコ、134位のエジプト、156位のイランとの差は歴然としている。
また、経済平和研究所による平和度指数のランキング(2015年)によると、インドネシアは指数1.769で46位である。これは45位のフランスに続く順位であり、他のイスラーム大国を大きく引き離している。このように、インドネシアは、イスラーム諸国を含む新興国グループの中で、政治的に安定した民主的な国家として経済成長を遂げていることが理解できよう。
過去の困難
もっとも、ここまでにいたるインドネシアの歴史はけっして平坦なものではなかった。東西約5,000キロに広がる1万3,000以上の島々に2億5000万人、300以上の民族が住むという多民族・多宗教国家としての根本的な問題を抱えており、さらに、首都ジャカルタがある経済開発が進んだジャワ島とそれ以外の島々との間の経済的格差という慢性的な問題がある。
1945年に独立宣言をおこなって以来、イスラームを国家理念に求めるダルル・イスラム運動、パプアおよび東ティモールの独立運動、アチェの分離独立運動などが国家の統合を揺るがし続けてきた。このような問題に対して、1965年の9月30日事件を契機に権力を握ったスハルト政権は、軍部と結びついた開発主義政権として、イスラームの政治への影響を制限し、分離独立運動を強権的に抑え付ける一方で、経済開発と上からの国民統合を推進したのである。
アジア金融危機を引き金に起きた1998年の政変でスハルト政権が倒れ、インドネシアの政治は民主化へと大きく舵を切った。いわば「インドネシアの春」と呼んでよい出来事である。この後、インドネシアは一人の大統領の罷免と4年間に4回の改憲という紆余曲折を経て民主化に成功した。とはいえ、当初の見通しはけっして明るいわけではなかった。
長きにわたってスハルト政権が強権的に不満分子を押さえ込み、国家統合を維持していたから、政権の崩壊がもたらす大きな反動が懸念された。ソビエト連邦の解体の記憶がまだ生々しかった時期だけに、懸念には現実味があった。さらに、過激派イスラーム組織の活動も表面化し、アル・カーイダの影響を受けた国内過激派による一連の爆弾テロ事件がおこった。しかし、このような過激派の活動はやがて抑えられ、インドネシア全体の分裂は杞憂で終わった(ただし、東ティモールは独立を達成した)。「アラブの春」以降のイスラーム世界を考えるうえで、インドネシアのレジリエンス(強靭性)についてあらためて考えてみる意義があるだろう。
成熟の条件
現在のインドネシアを支えている諸条件は、堅実に成長する経済、経済成長で力を蓄えた中間層の民意を反映する政治、民主的な政治を担保する社会の安定である。加えて、非同盟・全方位外交を展開し、国際社会と良好な関係を結ぶことで、海外からの援助と投資を呼び込むことに成功している点も挙げてよい。
しかし、このような諸条件の前提として、多民族社会の国民統合と多宗教の共存があることを指摘しておく必要がある。
インドネシアを一つの社会集団とみなすナショナリズムの思想は、オランダ植民地支配下にあった20世紀の初めに芽生えて、徐々に形作られ、1945年の独立宣言までには一定のコンセンサスが形成されていた。独立後の国民統合は、ときに強圧的に進められたが、一定の成功をおさめたと言えるだろう。現在のインドネシアはその果実を受け取っているのである。言い方を変えれば、国民統合には世紀単位の時間をかける必要がある。とすれば、「アラブの春」の成功・不成功を今の時点で論じるのは時期尚早ということになろう。
多宗教の共存という点では、独立宣言に続いて出された憲法の前文で、イスラームに特別な地位を与える文面が削除され、特定の宗教を優位におくことはしない、つまり国教を設けない憲法となったことが重要である(なお、唯一神への信仰を国家の基礎とすることは規定されているが、イスラーム以外の宗教、キリスト教のみならず、仏教、ヒンドゥー教、儒教までもが唯一神信仰の枠組みに含まれる「ゆるい」規定である)。
このことで、マイノリティの宗教に対してイスラームが国教の名のもとに押し付けられることは回避された。さらに、イスラームが政治から分離されたことで、どのようなイスラームが正しいイスラームであるかの判断を政治が負わなくてもよくなったことは重要である。信仰はそれぞれの宗教の問題であり、政治権力の問題ではなくなった。
ムスリム政治家にとっては、よきムスリムであることをアピールできることは政治家としての重要な要件である。しかし、それは、インドネシアのイスラーム国家化をめざすことにはつながらない。ダルル・イスラム運動の紛争の経験から、スハルト政権期にはイスラームの政治への介入は大きく制限されていた。民主化後には複数のイスラーム政党が再び政治の舞台に現れたが、総選挙を重ねるにつれて、イスラームの国教化を公約に掲げるイスラーム系政党はおしなべて勢力を弱めっていった。このことは、国民の大多数が、政治と宗教を分けるという現在の仕組みを支持していることを示している。
スハルト政権崩壊直後にはマルク紛争のような宗教間対立による流血事件もおきたが、総じて国民統合が維持されたことは、治安回復の名目で軍部が政治に介入する口実を封じることにもなった。2014年の大統領選挙で、スハルト大統領の娘婿で現役軍人であるプロボウォ・スビアントを破って、有力政治家一族にも属さない庶民出身のジョコ・ウィドドが大統領に選ばれたという事実の持つ意味は大きい。
このように、長い国民統合のプロセスが、民族や宗教の違いを乗り越えることを可能としてきた。だからこそ、強権的政権が倒れたあとも、民主化を円滑に進めることを可能にしたと言ってよいだろう。そして、この民主化を担ったのが、経済成長で力をつけた中間層である。つまり、スハルト政権がもたらした経済成長が中間層を生み出し、生活や政治の場でより自由な活動を求める中間層によってスハルト政権は打ち倒されたということになる。【次ページにつづく】