恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

元も子もない・・・

2016年09月20日 | 日記
 人間だろうと物だろうと、存在する何ものかに「意味」だの「価値」が発生するのは、まず第一に、そのものとは別の人間が、それを受容するか、肯定するか、必要とするかによってです。その「意味」「価値」の大きさ・高さは、受容・肯定・必要を行う人間の数ではなく、行為の強度で決まります。

 たった一人の人間が必要としているにすぎなくても、その必要の強度が高ければ、数百人が「まあ、あってもいいかな」程度に思うものより、「存在価値」は高いでしょう(およそ何ものかの「価値」が多数決によらないことを思えば、当然の話です)。

 ただし、人間の場合、その価値は、当人とは別の人間によって受容されている・肯定されている・必要とされていることを、自ら受容し・肯定し・必要としない限り、「価値」「意味」として機能しません(好きでもない人に好かれても、あまり嬉しくないでしょう)。しかしこのことはあくまで二義的で、価値そのものの発生とは関係ありません。

 生まれたての赤ん坊の「価値」は、「本人」の意志的受容とも肯定とも必要とも無関係で、親などの「他人」がどう思うかだけにかかっています。この他者による肯定から発生した原初的「価値」を、成長の後に意識して初めて、それが自分の「価値」「意味」の実感や理解の核となるわけです。

 宗教やイデオロギーにコミットして「価値」や「意味」を調達する方法もありますが、これらは概して、共同的存在である人間にとって是非とも必要な他者との関係の仕方を根拠づけるための物語ですから、所詮は間接的な受容・肯定・必要の調達でしょう。

 だとすると、自分の肯定には他者が絶対的に必要だということになりますから、この矛盾的な状況は「価値」と「意味」を欲望する人間にとって、根源的な「苦労」であり、「苦痛」でしょう。

 したがって、言葉を話し、「私」だの「あなた」だの言いながら生きる実存は、生きている限り「苦」から「解脱」することはありません。

 ただし、「苦」を緩和することはできます。それはつまり、「価値」や「意味」への欲望を低減することです。仏教はその低減の戦略的方法論の最も整備されたものの一つだと、私は思います。

 とすれば、仏教そのものの「価値」「意味」の大げさな強調は、それ自体がとんでもない自己矛盾になるでしょう。
ジャンル:
ウェブログ
コメント (18)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 注目の人 | トップ |   
最近の画像もっと見る

18 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2016-09-20 00:52:36
仏教そのものの「価値」「意味」の大げさな強調

っていうのは、結局「仏教そのもの」の価値や意味じゃないでしょう。
矛盾というより「ああ、すり替えてんなあ」って思うかな。

南さんて、子供の世話したことないの?
Unknown (Unknown)
2016-09-20 02:51:53
>自分の肯定には他者が絶対的に必要だということ

この他者というのは、人間だけになるのでしょうか?
Unknown (南京ハゼ)
2016-09-20 03:33:42
何かに向き合う想いや姿勢の深さは様々の状況や出来事において自分の想像を越える心の対峙があるように思います。垣間見る背景と足跡とを踏まえてなおそれを引き寄せて感じられるかや、真正面からその真摯さへの事柄をのべるに足るかを思いながら自らの様子ほどに視線がゆくようです。また比べることによって判断されることは瑣末なことからでさえ大きな誤解につながりうることを思います。特定されないほどの人々に向けられ伝えようとされた想いと在り様を思う時、反射される明度を感じたりするようです。
台風や気圧変化の著しい折、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
Unknown (Unknown)
2016-09-20 06:01:46
おはようございます!

よかった!南京ハゼさんも戻ってくれた。。ホ。。
仏教のスタンス (ZIP)
2016-09-20 13:26:53
あなたも生まれてきてしまったのか、
お気の毒に、本当についてないね、
まあ仕方がないね、あなたのせいじゃないよ。
どうしたらいいかって?
どうにもならんよ。
なにせ生まれちゃったんだからね。
ついてなかったと諦めるしかないね。
この世は苦労するよ、出鱈目ばかりだ。でもヤケをおこしたらダメだよ、余計苦労するからね。
よーく考えて行動しようね。
間違っても直感に頼ったらダメだよ。
しなくていい苦労をするからね。
それと考え過ぎにも気をつけようね。
身動き取れなくなるからね。
まあそんなに心配しなくていいよ、
どうせ死んじゃうからね。

生きる意味?
あなたも困った人だね。
やめときな、あなたに仏教は向いてないよ。
Unknown (Unknown)
2016-09-20 13:49:32
仏教は価値や意味を無力化するためのシステムだから、仏教そのものの価値や意味を強めることは、システムの性質上、矛盾している。

しかし、その価値や意味を無力化するシステムを有効に使おうと意識すると、そこに意味と価値が発生する。

坐るしかないか〜。
「ただただ、仏法の為に、仏法を学ぶ」と示された。 (イエスちゃん)
2016-09-20 13:59:17
『仏教そのものの「価値」「意味」の大げさな強調』

「見≪性≫成仏」、
「悟り」そのものの絶対化、
覚者と凡夫の峻別、
小乗仏教での、「釈尊」と「阿羅漢」との断絶、
・・・

因みに、道元和尚は、
「見性成仏」を、釈尊正伝の仏法ではないとされた。

仏教=仏法=仏道から、
人間的な全ての「価値」「意味」を奪うために、
「ただただ、仏法の為に、仏法を学ぶ」と示された。

先週の日曜日に創価学会の人(私の長男の友人)に雑談に招かれ、行ってみたらなんと家庭集会であった。
日蓮大聖人の学びと各自の現在の取り組みの座談であった。

その招いた友人の両親は、創価学会の長い信仰歴の信者であり、真剣に生きて来た言葉として「仏教は、人を救わなければならない。役に立たなければならない。」と暗に、私の見解(禅宗、曹洞宗のような)に、反論なさっていた。

それは、その人の長い人生からの実感であった。
その息子である友人は、父親の確たる信仰の下に立っていた。

「また来てください」と言われているが、現在躊躇しながらも、集まった人にどのようにすればに役に立つのか、無駄な時間にしないようにできるか思案している状況…

仏教とは「世の中に役に立つべきものか」?
世俗の世界に、役に立つか、立たないか?で、判断・議論できるのか?
只、創価学会では、実際に役に立つものである。
Unknown (ZIP)
2016-09-20 15:25:17
「仏教は、人を救わなければならない。役に立たなければならない。」

誰を救うのか?
誰の役に立つのか?
対象となる人はどこにいるのか?

生きるための言い訳を聞いてどうする?
そもそも集まってする事か?
Unknown (お転馬)
2016-09-20 15:57:16
坐るしかないっぺ。
親分は、坐る事を説明するために、遠回しに小難しく、言ってるだべな。

わかりやすい。 (緑)
2016-09-20 20:05:06
単語を羅列して結局何を言いたいのかわからない
受け手不在の文は
発言者の自我の露悪的な表れのようで
辟易とするのですが
記事は、最後の一文、結論を説得的にするため
読み手が頷くかを判断する材料をきちんと添えた構成で
読んでいて楽です。
Unknown (お転馬)
2016-09-20 20:10:12
だべな。

元も子もない意味が、ようやくわかった気がすっぺ。
ZIPさんへ (Unknown)
2016-09-20 22:08:36
そんなに生まれてきたことを後悔してるんだったら、なんで自殺しないの?
結局は「それでも生きていたい」ってことなんじゃないの?
もしそうだとしたら、「生きたいくせに、人生に文句ばっかり言ってんじゃねぇよ。」ってことになるよ。
Unknown (Unknown)
2016-09-20 23:22:01
ZIPさんは
誰かしらから、「受容・肯定・必要」とされる人間になれば、きっと気づくはずだよ。
Unknown (Unknown)
2016-09-20 23:53:06
世の中を見下す事で生を繋ぎ止めている者に、安易に物を申してはいけません。
創価学会の偉さ凄さ。悩みへの共感、自己の経験からのアドバイス。そこに日蓮大聖人の生き方を重ねる。 (イエスちゃん)
2016-09-21 00:10:51
戦後、創価学会が急速に伸びた。
公称、800万「世帯」にも。

我がキリスト教の陣営は、開教150年間もかけて、
全ての派の信者を合わせても、100万人に届かない。
クリスチャンは、日本人の1%にも達しない。
つまり、キリスト教の布教戦略は完全に失敗に帰した。
敗戦後、どっと米国から宣教師が来て、キリスト教の大ブームが起こったのに、それに乗れなかった。

それに引き換え、創価学会は、日蓮宗で救った。
病気の悩み、経済的な悩み、家庭・結婚の悩み、会社の人間関係の悩み…
それをみんなで聞いて上げ、一緒に考え、日蓮大聖人の生き方に重ねて解決に導いた。

救いを求める人々はみな創価学会に入った。
だから、勢力が急速に拡大した。

それが、釈尊の仏教の教えと違っているかは、別の問題である。
「法華経」の内容・教えを、自分の抱えている問題に当て嵌めて、解決する道を開いて行った。
創価学会の実践理論でもある。

これは、凄いものである。偉大である。
現在、池田大作は、世界布教までも、展開している。

この実績の前では、空理空論は吹っ飛ぶ。

現実に本人が悩やみ病んでいるのだ。
そこから至急に確実に救い出す必要があるのだ。

坐禅せよ!では、この悩みには届かない!

創価学会の仏教は、生きている仏教である。

我が曹洞宗では、坐禅が生きる糧になっているのか!
誰も坐禅をしていないではないか!
そして、檀家は自分の悩みを相談に来ているのか?

葬式仏教にしか、なっていないのでは?
お盆と、葬式と、回忌とだけの接触。
Unknown (Unknown)
2016-09-21 00:19:53
私はzipさんではないけれど、

>誰かしらから、「受容・肯定・必要」とされる人間になれば、きっと気づくはずだよ。

何に気づくのでしょうか。
愛ですか?
何かあるのですか。
Unknown (ZIP)
2016-09-21 00:42:34
イエスちゃん
がっかりさせんなよ。
創価学会と信者の数を競って何か意味があるのか?
Unknown (Unknown)
2016-09-21 04:34:53
イエスちゃん、なんかあったの?らしくないな〜。

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。