第141回 松崎 澄夫 氏 音楽プロデューサー
松崎 澄夫
音楽プロデューサー
音楽プロデューサー
今回の「Musicman's RELAY」は酒井政利さんからのご紹介で、音楽プロデューサー松崎澄夫さんのご登場です。渋谷の富ヶ谷、ワシントンハイツのそばで生まれ育った松崎さんはアメリカ文化を肌で感じ、その後、渡辺プロダクションと専属契約をして、アウト・キャスト、アダムスのメンバーとして活動。バンド解散後、渡辺音楽出版へ入社し、音楽プロデューサーとして、キャンディーズやアン・ルイスなど多くのアーティスト、ヒット曲を手掛けられたました。その後、大里洋吉さんの誘いでアミューズへ移られ、2005年には代表取締役社長に就任されます。アミューズから離れられた現在も、音楽の制作現場に立ち続ける松崎さんにじっくりお話を伺いました。
2016年9月12日 掲載
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
プロフィール
松崎 澄夫(まつざき・すみお)
音楽プロデューサー
1948年(昭和23年)生まれ
1965年 専属ミュージシャンとして渡辺プロダクションと契約
1966年(昭和41年)堀越高卒
1971年 渡辺音楽出版入社
1988年 アミューズ入社 アミューズ常務取締役(1991年)、専務取締役(1999年)を経て 2005年4月、代表取締役社長に就任
2010年4月 株式会社エフミュージック代表取締役
グループサウンズ「アウト・キャスト」のボーカルとして活躍。
渡辺音楽出版時代には人気グループ「キャンディーズ」の音楽プロデューサーなども務めた。
松崎 澄夫(まつざき・すみお)
音楽プロデューサー
1948年(昭和23年)生まれ
1965年 専属ミュージシャンとして渡辺プロダクションと契約
1966年(昭和41年)堀越高卒
1971年 渡辺音楽出版入社
1988年 アミューズ入社 アミューズ常務取締役(1991年)、専務取締役(1999年)を経て 2005年4月、代表取締役社長に就任
2010年4月 株式会社エフミュージック代表取締役
グループサウンズ「アウト・キャスト」のボーカルとして活躍。
渡辺音楽出版時代には人気グループ「キャンディーズ」の音楽プロデューサーなども務めた。
1. アメリカ文化をいち早く体感した少年時代
−− 前回ご登場頂いた酒井政利さんと最初に出会われたのはいつ頃ですか?
松崎:深い付き合いが始まったのは、キャンディーズの最後の頃ですね。酒井さんは僕が仕事を始めた頃には、すでに大変有名なプロデューサーでした。キャンディーズの解散が決まって、ソニーの中が大混乱したんですが、その当時トップだった酒井さんが混乱を収めてくれましてね。酒井さんとの繋がりはそこからですね。
−− 『微笑がえし』の頃ですか?
松崎:そうです。スタジオのレコーディングは全部僕がやっていたんですが、最後のアルバムタイトルを『早春譜』と付けたり、そういう秀逸なアイデアがポンポン出てくる酒井さんはすごいなと思っていました。僕たちと考える視点が全然違うんですよね。プロのプロデューサーだなと思いましたね。
−− 松崎さんから見ても、やはり酒井さんはすごかったですか?
松崎:それはもう。酒井さんは良い意味で毒のある言葉を使ったり、人とは違う見方をしますからね。酒井さんのようにいつまでも現役で、現場で仕事ができるっていうのは羨ましいことですし、それを常に思い続けている、世の中を見続けている酒井さんはすごいなと思いますね。
−− ここからは松崎さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれは渋谷の富ヶ谷と伺っております。当時の富ヶ谷はどんな雰囲気だったんですか?
松崎:ちょっと行けばワシントンハイツ(現在の代々木公園)ですから、雰囲気はもうアメリカです。実家の周りにも将校の家とかいっぱいありましたから、うちの兄貴は英語を覚えたくて、将校の子どもたちと仲良くなっていました。アメリカの独立記念日はワシントンハイツが開放されて中に入れるんですが、まるで映画の中の世界でした。でもワシントンハイツの端っこのところは子ども同士の喧嘩の場所で、向こうは芝生、僕たちは砂利道に立って向かい合ってね。でも石を持っているのは僕たちなんですよね。
−− それはアメリカ人の子どもと喧嘩しているんですか?
松崎:そうです。アメリカ人の子どもは石がなくなると白旗と箱を持って、下に降りてくるんですよ。「攻撃しちゃいけない」なんて言って(笑)。
−− (笑)。あの時代に、そういった環境で育ったことは、後々、松崎さんに大きな影響を与えましたか?
松崎:そうですね。アメリカ文化を誰よりも早く受け入れられたかもしれませんね。一番上の兄貴が大学でジャズバンドをやっていたので、メンバーがうちに来て練習していましたから、自然と音楽を聴くようになりました。それですぐ上の兄貴とは一緒にアルバイトをやって、秋葉原で買った部品でステレオを作って、一番最初に聴いたのがエルヴィス・プレスリーの『ブルーハワイ』です。僕はそのアルバムの曲を全部覚えました。そこから歌をどんどん覚えたくなって、学校に行っても英語の歌ばかり覚えていました。
−− それは小学生のときですか?
松崎:いや、中学生ですね。小学生のときは学校が終わって、掃除の時間になって机を後ろにやるともうそこがステージで、友達と箒を持ってバンドごっこしたりしましたね。僕が一番最初に覚えた英語の歌が、ヘイリー・ミルズとモーリン・オハラの映画『罠にかかったパパとママ』の主題歌で、それを遠足のバスの中で歌うんです(笑)。あと、男子の中で唯一鼓笛隊に受かって、アジア大会の鼓笛隊とか全部出ていました。そういうことだけは積極的にやっていましたね。勉強は全然積極的ではないんですけど(笑)。少し目立ちたがり屋だったのかな。
−− ちなみに松崎さんは何人兄弟なんですか?
松崎:5人兄弟です。一番上と一番下は女性で、僕は三男です。ですから兄貴たちが聴いていたものを僕も聴いて楽しむ、みたいな感じでしたね。それで、ものすごくアメリカに憧れて、「アメリカ人の食事を真似しなきゃいけない」とか、小さい頃はそんなことばっかり考えていましたよ。
−− 映画はどうでしたか?
松崎:映画もかなり観ました。その頃の僕は音楽よりも映画だったかな。音楽はもうスタンダードジャズとか兄貴たちのレコードがあったので、生活の一部みたいな感じでした。
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