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沼の見える街

ぬまがさのブログです。おもに映画の感想やイラストを描いたりしています。

映画『聲の形』感想

映画 アニメ

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山田尚子監督のアニメ映画『聲の形』の感想です。ネット上では賛否が激烈に分かれているようですが、結論から言うと私はこの映画、今年(どころかここ数年の日本映画)屈指の完成度を誇る、とてつもない傑作だと感じました。語れる範囲でその魅力を語っていきたいと思います。

 原作は大今良時の漫画『聲の形』(全7巻)です。kindleでタダだったので1巻だけは読んでいたんですが「面白いけどなんか陰湿でヒデェ話だなぁ」くらいに思って続きは買っていませんでした。なので京アニが映画化すると聞いて期待は高まりつつも、今回の映画を観るに当たっていっそ事前におさらいはせず(ほぼ)まっさらな状態で観ようと丸腰で挑みました。(結果的にこの判断は正解でした。原作未読の方はまず映画に行っちゃうことをオススメします。いま行こう。すぐ行こう。)ちなみに公開直後なのでネタバレは控えめにしておきます…が、どうしても若干のバレはあるのでご注意を。珍しく3部構成でお送りします。

【1】声と他者

 ざっくりあらすじを説明すると、石田将也(入野自由)という少年と、聴覚障害を抱えた西宮硝子(早見沙織)という少女の「ボーイ・ミーツ・ガールもの」ということになるんでしょうか。ただ本作の最大の特徴は、この「ミーツ(出会い)」がマジに最悪な出会いってことですね…。ろくでもないヤンチャ小学生だった将也は、転校してきた硝子に目をつけて、彼女の障害をネタに硝子をからかったり、いじめたりし始める。次第にクラスを巻き込んでいくこのイジメが(原作も映画も)わりとガチで不快な描写なので、ここで「ウゲッ、なんだこの胸糞悪い話は…」となってしまう人も多いでしょう。その感覚は正しいとしか言いようがないんですが、しかしその感覚を抱かせることこそが、成長した将也が背負っていく「罪の意識」に説得力を持たせるために必要なことなのです。

 原作では1巻に相当するこの小学校時代の描写は、映画では(尺の問題もあるのでしょうが)非常にテンポよく進みます。その上で、核となる部分は決して逃さないような作りになっており、再構成として極めてうまい。特に見事なのは冒頭です。ほとんど台詞を使わずに、映像と音楽だけで、将也が日常に退屈していて刺激を求めていること、そして硝子との出会いによって将也の日常に重大な変化が訪れたことなど、原作ではたっぷりと言葉を尽くして語られていた部分が、映像的な形で実に鮮やかに提示されていました。

 この小学校パートは長くはないのですが、語るべきことが本当に多い。まずはなんといっても、硝子を演じる早見沙織の演技が素晴らしいです。聴覚障害を抱えた方というのは「聞く」だけでなく「話す」能力にも問題を抱えていることがほとんどであり、本作の硝子もうまく話すことができず、発声しようとするとどうしても「うめき声」に近い声になってしまいます。早見氏はこうした「聴覚障害者の声」をよく研究し、実に生々しく演じているわけです。

 繊細な線の可愛らしいキャラクターや耳に優しい音楽、そして色とりどりの美しい背景、アニメとして非常に快い世界が作り上げられているからこそ、この硝子の「声」が持っている異物感は強調され、ある種の「ギョッとする」感覚を観るものに与えます。特に授業中、先生に指示されて硝子が教科書を読むシーンは、初めて観客が硝子の「声」を耳にする瞬間であり、かなりショッキングだと言えます。

 本作における「聲(声)」は、一般的な「他者とのコミュニケーション手段」としてのみならず、「他者」そのものの象徴として非常に重大な役割を担っています。細やかな演出と早見氏の的確な演技によって鮮やかな印象を残す硝子の「声」は、彼女の「他者性」を明確に表しているわけです。

 それゆえ直後に、そんな硝子の「声」をネタにしてからかう将也の無神経さと(子供特有の)残酷さが際立つわけですが、同時にわずかな安心感を与えてくれます。気まずい気持ちになったからこそ、将也のゲスい行動に少しだけホッとしてしまう。(実際、このシーンで笑いが起こった劇場もあったと聞きました。)また合唱コンクールの練習風景でも硝子の声の異質さ、「他者」としての異物感が強調されることで、「これはいじめの標的になるのもわからんでもない…?」という嫌な感覚を生じさせます。つまり恐ろしいことに本作は瞬間的に「いじめっ子の視点」に、もっといえば「他者を差別する者の視点」に観客を同化させるわけですね。この時に刺さったトゲは、映画を観ている間じゅう観客の心に残り続けます。

 そして将也は硝子をいじめ続けていくのですが、「子供のイタズラ」では済まされないある一線を越えた行為をきっかけにして、大きな代償を支払うことになります。特に親子で硝子の母親に謝りに行くシーンで、将也ママが体の一部にある傷を負うくだり、このねじれた「因果応報」っぷりのキツさったらありません…。ここ、原作では非常にさりげなく(気づかないほど)さらっと描かれてたんですが、映画ではバシッと強調されてましたね。たったワンシーンで、人々のドロドロに絡み合う心情を一発で表現する手腕は見事というしかありません。

 こうした軋轢を経て、硝子は将也の前から姿を消します。(自業自得ではありますが)将也の周囲の人間関係はめちゃくちゃに壊れ、決して消えない罪の意識を抱えたまま、将也はあらゆる人に心を閉ざして生きていくことになる。しかし高校生になったある日、将也は過去との決着をつけるため、硝子に会いに行くことを決意するのでした。

 そして二人は再会します。将也が衝動的に行った「友達になれるかな」の手話に対して硝子が衝撃を受けたことをきっかけに、二人は少しずつ距離を縮めていきます。さらに将也の新しい友人・永束くん(小野賢章)や、硝子の自称「彼氏」の結弦(悠木碧)といった人々との出会いを通じて、徐々に壊れてしまった(壊してしまった)ものを回復していこうとする。その過程が山田尚子監督の精緻な演出によって、柔らかい光と色彩の中でみずみずしく描かれていきます。

【2】素晴らしき山田

そう、この映画はなんといっても山田が素晴らしいのです。リスペクトが一周回ってつい呼び捨てにしてしまいましたが、もちろん山田尚子監督のことです。出世作の『けいおん!』、映画『たまこラブストーリー』の監督、そして恐るべき傑作『響け!ユーフォニアム』のシリーズ演出などでアニメファンにはとっくにおなじみですね。さらに本作『聲の形』によって、もはや名実ともに(映画監督など全部ひっくるめて)日本最高峰の「映像作家」の一人になったことは間違いないでしょう。そんな山田のどういう点が素晴らしかったのか、原作との改変部分にも言及しつつ、できる限り言葉にしていきたいと思います。

 山田監督といえば「山田脚」なんて通称があるくらい(どうなんだこの通称は)、キャラクターの「脚」の演出に深いこだわりをもつ監督として知られています。脚のちょっとした動きや描き方だけで、キャラの多彩な心理を表現してみせるというウルトラ技能をもっているわけですね。本作でも様々な「脚」が出てくるたびに「いよっ、待ってました!」と声をかけたくなるんですが、今回はそれ以上に「手」の演出が深い印象を残します。

 山田監督は本作を作るにあたって「手は花であり、ひとつのキャラクターである」と語っています(パンフより)。たとえば手話のシーンにそれは顕著で、手話モデルさんが演じた手話を動画で撮影し、それを参考に(細かな監修を加えつつ)作画するといった手順を踏むことで、非常に精緻な「手」の動きを生み出しました。手が出てくるシーンの演技のつけ方も実に繊細です。たとえば「友達になれるかな」のシーンで将也は自分の手元しか見ておらず、将也が硝子に対して感じている「負い目」がよく表れています。しかし同時に「手の甲を押し出すように握る」といった指示によって、「友達になりたい」という将也の強い感情を言葉に頼らず表現しているわけですね。「手は口ほどにものを言う」ということわざ(?)を見事に体現している映画なのです。

 手の演出といえば(ネタバレは避けますが)クライマックスのある「手話」のシーンが本当に素晴らしかった。硝子と将也が対話をした後に、誰もが知ってる有名な「手話」…というより「ハンドサイン」が登場します。二人の辿ってきた関係性、「手の表現」の重要性、そして作品のテーマを考え合わせるとこれ以上ない着地点だと思うんですが、なんとこれ映画オリジナルなんですね。山田、おそるべし。

 そう、この映画『聲の形』は、基本的には原作に対して非常に誠実かつ真摯な姿勢をとっているものの、かなり大胆に原作を改変・再構成している作品でもあります。なので「なんであのシーンがないんだ!」みたいな怒りを覚える原作ファンも多いかもしれません。ただ、本作はあくまで「将也の物語」として再構成されたものだと山田監督は明言しており、その意味ではむしろ良い改変なのでは?と感じることも多かったです。

 たとえば原作からの最も大きな改変として「みんなで映画を撮る」というエピソードが完全になくなりました。せっかくだしスクリーンでこの話を観たかったな…という気持ちもわかりますが、映画版を「将也の物語」として見た場合、多くの人の思惑が交差する映画エピソードは削って正解だったんじゃないかなと思います。それに映画を観た後に原作を読むことで、映画作りのエピソードを(スピンオフ的な)豊かなサイドストーリーとして楽しむことができました。

 それに、確かに将也の友人などの出番は減ったとはいえ、それぞれのキャラクターがどのような性格で、どのような歪みを抱えているのかという核心の部分は(限られた描写で)バッチリ漏らさず描かれていたと思います。特に友人の中では、ぽっちゃりファンキー男子の永束くんが最高に魅力的でしたね。彼と将也が遊びにいくシーンは、謎の幸福感にあふれていてなぜか思わず泣いてしまいました…。彼周りのギャグも全部面白くて、だからこそ中盤のある展開は心が痛かった…(そして終盤のアレに泣く)。

 また硝子の味方だった佐原さんは新しい台詞が足されていたりと優遇されていましたが、(個人的には最も邪悪に感じた)メガネ女子の川井さんや、茶髪イケメン真柴くんなどの出番は相当カットされていましたね。しかしこれらの「普通の人々」が持つボンヤリした残酷さや邪悪さは、いくつかの会話などで鋭く切り取られていましたし、彼らの存在自体を削るよりずっと良かったと思います。

 そしてもうひとりのキーパーソン、将也たちと一緒に硝子をいじめていた女子・植野さんのキャラクターも素晴らしい。イジメ加害者の一人であり、それに対する反省も(将也に比べれば)全くしておらず、歴代アニメのキャラの中でも群を抜いて性格の悪い部類に入るでしょう。それでもどこか嫌いになれない、感情移入してしまう側面もある女の子です。人々の悪意を黙って笑いながら受け流す硝子に対して、ある意味では最も真正面からぶつかっていったキャラでもあります。

 いわゆる「いい子」ではない人物をメインキャラとしてしっかり描くという試みは『響け!ユーフォニアム』でもなされていましたが、「嫌な奴」である植野の生々しい存在感は明らかにその流れの先にあるものだと感じました。このあたりのバランス感覚はさすが山田尚子、と言わざるを得ません。

 そんなわけで本作『聲の形』は、内面になんらかの欠点や弱さを抱えた人々を、山田尚子の絶妙な演出力によってギリギリ不快にならない、欠点を踏まえた上でなお愛することのできるキャラクターとして作り上げています。だからこそ「いじめっ子といじめられっ子」が心を通わせていくなんていう、一見ただのお花畑の夢物語のように見えかねない話が、みずみずしい輝きをもって観客の心を震わせるわけですね。

【3】響き合うエラー

しかしおそらく、本作に対して最も賛否が分かれるのは、まさにその将也と硝子の関係性なのではないでしょうか。硝子が将也に対して好意を越えた恋愛感情を抱いてしまうという点について「いじめていた相手をいじめられてた子が好きになるとかありえない」「いじめ舐めすぎ」といった批判の声がすでに上がっているようです。そうした批判が起こること自体はむしろまっとうであるし、障害というデリケートな題材を扱っている以上、なんらかの批判的な見方は必要だと思います。「どうしても許せない」というような強烈な拒否感を抱く人がいるのも自然なことでしょう。

 ただここで重要なのは、本作『聲の形』における「恋愛感情」というものが、一種の「エラー(過ち)」として描かれている点です。少なくとも恋愛は、単にキラキラした「良きもの」としては決して扱われていません。「友達になれるかな」発言(手話だけど)が二人の関係に決定的な変化をもたらすのですが、それは過去の罪によって硝子に重い負い目を感じている将也が衝動的に差し伸べた「手」を、同じく将也に(好意と嫌悪の入り混じった)非常に複雑な想いを抱いていた硝子が、うっかり取ってしまったことで爆発するかのように引き起こされた「エラー」だと思うのです。これが二人の関係の本質だと私は考えています。

 先述したように『聲の形』には「正しい」人間は一人も出てきません。みな何らかの形で内面に欠陥や欠落や邪悪さを抱えており、いっけん聖人君子に見える硝子ですら完全な人間ではなく、例の「エラー」をひとつのきっかけにして袋小路に迷い込んでしまいます。そんな『聲の形』だからこそ、まるで「過ち」のように始まった2人の関係がどのように発展していき、どんな結末を迎えるのかが重要になってくるのです。

 逆に言えば、「いじめの被害者(それも障害者)がいじめの犯人を好きになるなんて絶対ありえない」という考え方は倫理的には正しいようですが、硝子という固有の人格をもった存在を「被害者ならこう思うにちがいない」「障害者ならこうあるべきだ」という枠に押し込めてしまう危険性もあるのではないかと感じます。将也を好きになってしまったことは確かに硝子にとって「エラー」だったのかもしれないし、そのエラーがさらに新しい「過ち」を引き起こすかもしれないし、次なる悲劇の始まりかもしれない。その危うさは本作でもしっかりと描かれています。

それでも自分の過ちを見つめ、時にはそれを認めて謝罪し、時には感謝の気持ちを伝え、他者と心を通わせるのを諦めなければ、その「エラー」同士が響き合い、予想もしなかった救いをもたらしてくれることもある。間違いだらけの人々がそれぞれ響き合う「声(聲)」なのだとすれば、「(エラーも含めて)響き合う多様な声」こそがこの世界の豊かさである、ということが『聲の形』では描かれているのだと思います。

 だからこそラストシーン、ある「他者」と「声」にまつわる将也のとてもシンプルな行為を通じて描かれる、彼のたどり着いた美しい情景が、現実世界を生きる間違いだらけの私たちの胸を打つのではないでしょうか。ここは原作だと厳密にはラストシーンではない(最終巻の真ん中くらい)のですが、「将也の物語」として『聲の形』を編み直した映画版にとっては、このシーンをラストに持ってきたことは大正解だったと言えるでしょう。一本の映画として文句なしに素晴らしい終わり方だと思うので、ぜひ劇場で確かめてほしいです。

 …まだ全然語り足りないのですが、すでに7千字くらい書いており「…で、誰が読むの?この長文」状態になってしまっているので、いったん切りたいと思います。他にもagraph牛尾憲輔氏の最高すぎる音楽とか(光の速さでサントラ買いました)、悠木碧が演じる結弦さんの可愛さとか(悠木碧って気づかなかった!)、まさかのモランディ(私の大好きなイタリアの画家)リスペクトがあるんだとか、色々色々語りたいことはあるのですが、また追い追いTwitterなどで…。

 期せずして激烈な賛否の渦の中に置かれてしまった映画『聲の形』ではありますが、極めて難しいテーマを奇跡的なバランス感覚によってエンタメの形に昇華してみせた、今年の邦画を代表する傑作であることは間違いないと思います。…いやホントにどう考えても傑作でしょコレ! 他にこれほどの作品があるっていうなら観せてくれよ!山田より腕のある監督連れてきてくれよオラッ!!って感じですよ!!! …若干ヒートアップしてきたのでこの辺で。万が一ここまで読んでくださった方がいたら、どうもありがとうございます。山田サイコーー!!『聲の形』サイコーーー!!!おしまい。