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「いま、人文学の本を書くとは」第2回(小泉義之×篠原雅武)

「いま、人文学の本を書くとは」

第2回 「いまほど面白い時代はない」小泉義之

聞き手・構成:篠原雅武

 

 二○一四年四月、小泉義之さんの研究室を訪問した。二○一二年に刊行された『生と病の哲学』(青土社)に共感したのでお話を聴きたいという申し出に、快く応じてくださった。私は、「生物とは生存への傾向と死滅への傾向が絡み合っているものです」という「おわりに」の見解に、納得のいくものを感じた。生存と死滅を対立的に考えがちであった私は、その両方を絡みあいにおいて捉えるという視点に、正直驚いた。高校生の頃から、生の充溢のようなことを過度なまでに強調するポジティブな風潮がとてもイヤだと考えつつも、「それを否定するなら死ぬしかないという結論がでてくるが安易に死ぬのもゴメンだ」という両極端のあいだに揺れている状態にとらわれていた。生きていることがただそれだけで意味があり、価値があるなどとは、私にはとうてい思えない。だから無理してでもやるべきことをやり、人生を意味のあるものにしようと日々努力しなくてはならないという強迫観念がでてくる。無理をしていると、自分のやっていること、やってきたことが全部無意味に思われて、生きているのが面倒に思われてしまう瞬間が周期的にやってくる。この両極端に苦しんでいた私には、「生存への傾向と死滅への傾向の絡み合い」というのは、救いのように思えたのだった。

 訪問したときも、「死滅系」の話をしたかったように私は思う。ところが、のっけから「狂気系」の話になったように記憶している。なぜ狂気の話になったのか。二○一四年七月に『ドゥルーズと狂気』(河出ブックス)が刊行されたので、おそらく、ちょうどこの著作の佳境だったのだろう。序文には「かつて、『狂気』によって思想と行動が激しく揺さぶられ駆り立てられた時代があった」と書かれている。狂気が新しい時代を切り開き、新しい人間を生み出すかもしれないと信じられた時代があった、その時代の渦中を生き、思想と行動に目覚めた一人の人間として、本書を書きたいと考えた、と書かれている。『資本主義と分裂症』という副題をもつ『アンチ・オイディプス』が、狂気の時代の書として書かれ、読まれていたということが指摘される。小泉さんは『ドゥルーズと狂気』を、狂気の時代の思想的省察として書いた。私はこの本を、刊行されてすぐ一読した。二○一六年になって、読みなおした。

 その途中に、七月二六日の相模原の事件が起こった。潜在的な自殺志願者の起こした事件だろうと私は考えた。このような私の想念に対する説得力のある反論のできる人は多分、小泉さんくらいしかいないだろうとも考えた。

 小泉さんの議論を読むうちに、私は日本語の本を買わなくなった。洋書ばかり買うようになって、アマゾンのヘビーユーザーになった。日本のリアル書店に行かなくなった。行っても買わない。行くとしても、入口付近の平積みのところで、「ゼロ思考」や「永遠のゼロ」や各種守護霊の本が並ぶのをみて冷笑するためにのみ行く。ただ、ふと冷静に振り返るとき、私のこの行動はかなり病んでいるようにも思われてくる。

 そういうことを考えていた夏のある日、やはり私は小泉さんに話を聞かなくてはならないのだろうと思い立った。

 

***

 

人文学は危機か

篠原 人文学、小泉先生はそれを人間科学と言い換えられましたが、それをも含めた文系学問がおかしくなっているのかどうかということについて、小泉先生がどう考えているのか伺いたいと思います。いつぐらいからおかしくなっているのか。それはいまに始まることなのか、結構前からなのか、その辺がちょっと分からないので、そこを伺いたいと思います。

小泉 そもそも、人文学がおかしくなっているっていう認識が、僕にはよく分からないのです。いつだってこんなもんだろうっていう気持ちがあります。面白い本の比率にしてもこんなものだろうと。

 例えば、『思想』でも『現代思想』でも学会誌でもいいですが、その号のなかに面白いのが一本あればいい。一つあれば十分。一冊の本でも、面白いところが一ページもあれば十分です。自分の興味関心につながるところが一カ所あれば十分だと思ってきました。そういう観点からすると、昔も今も変わりません。はっきり言えば、大量の紙くずがあってこそ光るものがあるのであって、紙くずはなければ困る。つまらない本がないと市場も広がらないし。そういう意味では、変わったとかおかしいとか、困ったとはまったく思っていないんです。

 ただ、なぜか知らぬが文系の大学人に危機意識があるわけです。この間の文科省が狂ったようにしてわめいたりしましたが(文系学部廃止の通達)、それへの反発としての危機意識ということだろうとは思います。それから反教養主義や反知性主義の流れがあって、文系の学問、文系の学部が危なくなっているという危機意識があるかと思います。それについても僕は、「何か的を外していないか」と思う。これもいままで繰り返されてきた話でしょうとしか思えない。僕の偏見でしょうが、かつての中教審答申をめぐる定期的な論戦が典型的でしたが、教育論争や学問論争はいつだってくだらないものです。

 その上で、いま人文学というか人間科学というか、文系が、変動期に入っているのは確かであると思います。一番シンプルな見立ては、二○世紀後半のフランス現代思想が死にかけているし、リベラル・デモクラシーが死にかけているということですね。

 ドゥルーズ、フーコー、デリダというスターが亡くなり、一通り翻訳も済み、その小粋な使い回しも終わって、フランス現代思想が新鮮に見えなくなってきた。もう二○世紀末にはそういう状況になっていましたね。もう一つ問題なのは、文化左翼とリベラリズム・デモクラシーです。九○年代の大学人はおおむね文化左翼かリベラル・デモクラットだった。それが、いま死にかけている。思想的には、空疎になっている。なにせ同じことしか言ってないし言えないんですから。九○年代からの文化左翼、主としてカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル研究を掲げる研究者にしても、社会正義や平等理念を掲げるリベラルにしても、相も変わらずという感じになって、飽きられてきたんです。

 二○○○年代に入ってからは、大学人よりは在野の知識人が――東浩紀が代表例になります――ヘゲモニーを握ってきました。そしてネットの表裏の言論人がヘゲモニーを握ってきた。その点でも、文系の大学人の権威や地位が低下したわけです。批評界や論壇はもちろん、一般読書界でも、大学人はばかにされてきた。そして、ばかにされて当然であると思います。とりあえず、そういう現状認識です。

 

大学人への期待

篠原 この状態からのある種の突破口が求められていると僕は感じます。いまおっしゃられたまとめは本当にそのとおりだなというふうに思っていますが、それをずっと言い続けてきたのが小泉先生だったのでしょうね。僕も、震災前後あたりから結構小泉先生の書き物を読むようになりました。先生は九○年代ぐらいにドゥルーズについて論じていて、それももちろん読んでいました。ただ、教養を求める若者的な、要するに学部生ですから、そういう知識を仕入れるみたいな感じでした。核心部分はよく分からない評価だったのですが、あるとき病系の何かを読んで、安楽死か何か……、安楽死とか尊厳死について書かれました?

小泉 たしか、ありましたね。

篠原 何かそういうので、要はリベラル批判のものを読んで、ぴんときました。やっぱり神戸の震災前後、ちょっと世の中おかしくなってきたなというのを感じて読んでいたのです。私も恐らく文化左翼と小泉先生の言われる知の動向は二○○八年前後に死んだと思っていました。

小泉 どうして二○○八年なの?

篠原 反G8。アンチG8ムーブメントですね。

小泉 「大学人はひよっているぜ」と思ったでしょうね。身に染みて。

篠原 高円寺でやっていた、松本哉さんたち界隈の人たちのほうは面白くやっていたと思いますが、そこに乗っかってきた大学の人たちがいう言葉は、なんとも虚しいものでした。「G8は駄目であるという命題を立てる」→「偉い人たちを海外から呼んできてG8は駄目だという命題を証明するための講演会を開く」→「若い人たちを集めてセミナーをやる」。以上。私は、G8体制というよりも、問題はネオリベラルグローバリズムであって、それが私たちのリアルな生活をめちゃくちゃにしているというだけの話じゃないかと考えていましたが、反G8講演会では、G8っていう言語的に構築されたシンボルをたたくっていうような、そういうお話をされていたようですね。なんだかこう、言説のレベルでたたくということのむなしさというのを感じました。

小泉 それは最近の安保法制の問題でも続いていると思っているんですね。

篠原 そのとおりです。今回も繰り返されていた。

小泉 そうだよね。

篠原 小泉先生の文章を読むことで、この言語構築主義的なふるまいの虚しさがよくわかるようになりました。

小泉 つまり、思想的にも実践的にも駄目なやつらだということが分かった。

篠原 そうです。

小泉 その点、山口二郎などは、ある意味あっぱれだと思います。彼はどんなにディスられても、平気でやっている。そこについては、リスペクトしてます。ただ、僕自身は初めて大学に就職するときに、政治集会の類で前に立つようなことはしないって決めていました。僕の学生時代でも、あれこれの集会で大学人が出てきてしゃべってましたが、不愉快なやつらだなと思っていた。前面に出てくるくせに、内容は薄いし、レトリックも駆使できないし、アジテーションにもなっていない。やつらは家に早く帰れるし、帰れば読書だってできるわけです。音楽も聴ければ楽器だって弾ける。こっちは夜を徹して必死でやっているのに、ふざけんなと思っていた。だから、自分が大学の教員になって、闘争の場に出ていってもそう見られるに決まっているから、それは絶対やるまいと思っていました。基本的には浮世離れで生きていこうと思っていたんです。

篠原 素晴らしい。

小泉 だからこそ哲学を選んだ。でも、やっぱり僕はスケベ根性が多少あって悟りきれなくて、九○年代の歴史記憶論争とかリベラルへの一斉転向とか、それはさすがにひどいと思ったし、ほんとうに大学人はどうしようもないので多少は関与しなければと思っちゃったんですね。運動に関わるとかではなく、大学の中での言論戦だけはやろうと思ってきたし、いまでもその意識です。そこはともかく、篠原さんが認識したようなことは、われわれの世代はもっと痛苦な形で経験して認識してきたことです。ただそこからいろいろ立場は分かれてきた結果がこうなんですがね。

 要するに大学の教員はどうしようもない連中だということです。好きに言わせてもらうけど、昔の用語で言えば、「一般学生」よりたちが悪い。

篠原 なるほど。村上春樹の『ノルウェイの森』に出てきたような話ですね。

小泉 当時、一般学生は、一応オルグはかけられる。オルグの可能的な対象です。ところが大学院に進むような連中は、そもそも関心を払う気すらない。運動に対しても偏見に満ちているし、自分の研究が一番と思っている。オルグをかけられるどころでなく、もう取り付く島がないんですね。真に浮世離れしているなら、それはそれでリスペクトしてましたが、特に篠原さんの世代の学者で目立ってきたけど、シニカルな言説で毒を吐いては自己保身するような連中がたくさんいます。

 例えば、安保法制反対の運動に反対するのはいいですよ。別にそれは構わない。でもそのとき、その連中は何かディスらずにはいられないわけですよ。運動の些細な局面とか、運動に関与する大学人の些末な言動に対して、チャチャを入れたがる。しかも情けないことに、それに対する反論も、チーチーパッパのレベルですよ。ネット炎上とか、恥を知れ、です。そもそも大学人なんてそんなものです。期待するのが間違っている。

篠原 そうでしたか。

小泉 何を期待していたのか分かんないけど、どんな職業であれ、まともな人間の割合は低いに決まってるでしょ。医師でも弁護士でも施設職員でも土建屋でも、まともな人間のパーセンテージはほんのわずかでしょう。大学人も同じことです。大半の人は別に期待してもしょうがない人たちです。

 

そこそこの研究の維持

篠原 この間もある建築系の学会で、ある人が報告をしていました。金沢市では、駐車場が増えている。もともとあった町屋が取り壊されて駐車場になる。彼女が言うには、それは嘆かわしいと思うし、地元の人はなおさらそう思うでしょう。それでも駐車場になってしまった。さらに別の場所では、金沢らしさというものを守ろうと行政から言われるらしい。じゃあ金沢らしさって何だろうといったら、昔からの町並みがいいという話になって、金沢らしさを具現化したような場所をもっと大切にしようという話になるらしいです。そしたら今度は、その金沢らしさというイメージで語られる場所が大切にされて、行政から助成金が下りて、いつの間にか観光地になってしまった。金沢らしさを標榜していたはずが観光地になってしまって、それはそれでどうなんだろうと思ってしまったらしいです。要するに金沢らしさを守ろうという議論が観光地化を推し進めるということが一方でありつつ、そもそも金沢らしさなどというものを掲げてまちを守ろうということ自体に限界があるのではないかという話をされて。

 僕はこれに対する極論として、そんなのはもう無理だろうとこたえました。駐車場がいま金沢市の土地全体の二五%らしいです。それが五○%になって、七五%になってというふうにどんどん駐車場ばかりになっていく状態を思い浮かべて、そこからいまの金沢を見たほうが面白いじゃないですかと言いました。ただもちろん僕には答えなどないですけど。要するに、まちがどうしようもなくなっていくということと、大学のどうしようもなさというか、パラレルで見ることはできませんか。

小泉 いまの対比で言うと、大学はまちづくりで助成金を得ている場所にあたりますね。金沢でのまちづくりにしても、観光産業の中でいわば特区としてつくられている。そして大学こそが特区ですよ。そのような特区には、清潔で公正な、そこそこの小金持ちが寄り集まってくるわけで、これは大学も一流企業もそうです。単純化すれば特区と特区外に二分されますが、僕はそれでいいと思っている。嘆く必要もないと思います。

 駐車場について言えば、いずれ採算合わなくなる時点が必ずくる。でも資本主義なんですから、行くところまで行くしかない。

篠原 徹底的に。

小泉 ただ、徹底的にといっても徹底できない。残念なことかどうかわかりませんが、五〇%になるなんて無理でしょう。駐車場化だけでは済まなくなって、どこかで別の方策が出てくるでしょう。それはそれでまた企業が考えるだろうし、地域住民も何か考えるだろうし。資本主義を加速させて何か別物の到来を期待する加速主義というか、市場資本主義の褒め殺しというか、それは必ず空振りすると思いますね。

篠原 とはいえ、金沢が駐車場化するのと同じように、大学の文系学問が消滅していくというのは嘆かわしいという気分はあると思います。例えばカントとかヘーゲルをちゃんと読むような場所があったほうがいいとかというのと、金沢らしさを守ろうという思いは同じようなことには見えないかなと思いました。

小泉 それはもちろんそう思う。大学らしさを守ることには、金沢らしさを守る程度の名分はあるわけです。僕自身は、学部教育をどうするかは別として、大学の文系学問は基本的に古典文献学的研究でしかありえないと思っています。それは古いタイプの教養主義と言われても結構ですが、もっと大きく見ると、大学の文系というのは宗教の末裔です。仏典の研究とか聖書の研究とか、教義学、典礼学の成れの果てです。そういうものは、文化的には、つつましく存在し続けたほうがいい。例えば哲学は文献学であって、哲学科にしても学科としては旧帝大にあれば十分です。それ以上は要らない。一般の学部では、哲学の授業も要りません。一部の学部と大学院で研究者だけを育てればいいのです。そして、日本の中にギリシア語やラテン語やサンスクリットや漢籍を読める人はやっぱりいたほうがいい。それを何人育てるかって話になったとき、選抜を考えるにしても、そんなにたくさん要るはずがない。シェークスピアにしても、カント、ヘーゲルにしても、ちゃんと読める人が多少はいたほうがいい。

篠原 いなくなったら怖いです。

小泉 そこそこの研究が維持できる程度のものがあればいいんです。その上で、それを国が公的に援助すべきかどうかとなると、僕自身は若干懐疑的ですよ。ただね、伝統的に宗教に対して公的な支援は必ずあった。特権の賦与とか税制の優遇とか助成金や基金とか。だからこそ長きにわたって続いてきたんです。そういうことは、文化を公的に守るという名分を立てるのであれば、あってしかるべきだと思うし、資本主義的にも、つまり文化産業的にもそうでしょう。文化産業は、ハイカルチャーと呼ばれる部分がないと持たないでしょう。そこから裾野が広がっていくところがあるわけです。卑近な例をあげれば、映画産業を育成するには映画についてハイカルチャーっぽいことを言っている人が何人かいる必要はある。それにだまされて映画見る人がいるわけです。

篠原 そんなものですよね。

小泉 やっぱり蓮實重彦みたいな人はいてもらわなくちゃ困る。蓮實重彦みたいな人を継続して再生産するにはどうするかという問題として立ててもいいんです。というか、この資本主義では、そういう問題としてしか立たないでしょう。それはそれとして、最近の人文の危機の大学論争で何よりも欠けているのは、制度論だと思います。

篠原 制度論?

小泉 制度改革の問題として提起しないとお話にならないと思う。文科省が言っているのは、ずっと積み残してきた問題であって、それに対する回答を語るべきだと思うのです、大学の教員は。

 問題の一つになっているのは教育学部ですね。教員養成学部をどうするかということは、それこそ戦後の師範学校から学芸学部になって教育学部になるときに、その都度問題になってきている。僕は教員養成学部の新課程(ゼロ免課程)は無くしてもいいと思っている。教員養成学部の定員も減らしてよいでしょう。そうなると、教育学部の教員定数が問題になって、教育学部と文科省の利権に絡んでくる。ポストの利権です。しかも、それは小中高の教員定数や学級定員にも絡むわけです。ですから、本当に問われているのは、教員養成学部に手を入れるにしても、それに絡むポストも無くしていいのかどうかということであって、それに対して回答を出さなくてはいけないんですよ。問われているのは、学問のことではありません。所詮は文科省や企業が相手なんですから、学問論を吹き上げてもしょうがない。ところが今の大学人、批判的と称されている大学人は、学級の定数をさらに少なくして教員数を確保し増員するべきだと思い込んでますね。しかも昨今は出鱈目な教育学的正当化を付加してね。その類の物言いが大学でのポストの利権のための言説にしかなっていないことにまったく気づいていないんです。しかも、教育の保証が政治経済的問題のすべてを解決するかのような教育幻想を国内でも海外でも従来以上に振りまきながら、教育の意義を説き続けているわけです。教員養成学部の問題は昔からの問題で、何とかしなければなりませんが、文科省の側も批判する側もまったく制度の改革に踏み込むことはない。改革主義や改良主義者ですらないんです。そんな言い争いなど欺瞞的であるととっくに見抜かれてますよ。

 それから、大学の制度ということでは、看護学校が学部になっているでしょう。

篠原 看護学校が学部ですか?

 

大学を減らせ

小泉 看護教育体系の変遷は複雑ですが、ともかく多くの看護学部ができました。でも、看護系が学部って変ですよ。理学部や文学部と同じ制度の下にあるのは、どう見てもおかしい。その目で見返すと、専門職系や技術系の学部がたくさんありますね。福祉系とか心理系とかリハビリ系とかアート系とか情報系とか。それらも学部になって、学部が増えすぎた状態になっている。それらが同じ一つの制度の下にあるというのは異常なことですよ。双方に無理が生じている。しかも学部だけじゃなく、大学院もゆがんできている。異質なものを一緒くたにされてきたことのあおりを大学院もくらっています。それを何とかしなくてはならない。大学人は、学問論以前に制度改革案を出すべきです。僕は端的に言って、学部も大学院も制度的にはっきり切り分けるべきだと思う。

 それから、みんな「忙しい」って言いますね。ツイッターでも大学人は毎日のように、研究できない、雑務が忙しい、と垂れ流している。そのように「公器」を使うなら、忙しくしないためにどうしたらいいか物を言うべきです。で、僕は、学部の卒業単位数を減らすべきだと思っています。資格系の必修単位数も減らすべきです。従来のディシプリンの専門科目はすべて学部から撤収してよいと思います。ごく一部を除いて、卒論も廃止すべきです。そして、かつてのリベラルアーツ、読み書き算盤の現代版だけを教えるのでよいと思います。そのとき必修科目数も減るので、教員のポストも減ります。それを呑めるかどうか、言えるかどうかなんです。争点はそこに尽きます。それから僕は、教授会は無くしていいと思っています。大学は、代議制でいい。大半の委員会も廃止すべきです。大学の教授会自治や民主主義など、昔から一度として実現したことなどありませんし、仮にその理念を守るにしても、教授会や委員会を廃止しても十分に自治や民主主義は機能します。

要するに、おのれの身を削る改良案すら出せずに、あれこれ言ったって、それこそ特権階級のお話としか聞かれませんよ。ですから、トータルとして、僕は大学の危機なんていう話はまじめに考える気にならない。ばかげているとしか思えない。大学は減らすべきです。理系も含めて減らしていけばいい。

篠原 大学そのものを、ですか?

小泉 大学は多すぎ、そう思っています。公正な機会均等の保証になっているとか若者対策の治安に役立っているとか訳知り顔の議論はあるけど、減らすべきでしょう。これは強調しますが、最先端の生物医学系や情報系に対してこそ字義通りに「選択と集中」を施すべきです。アート系やデザイン系も減らすべきです。そこがどれだけ悲惨な労働者を生み出しているかを考えたら、減らしたほうがいいに決まっています。

篠原 そういうことですか。なるほど。

小泉 文系だけが文系だけを守りますって懸命になったってしょうがない。むしろ切り分けも進めながら、他の学部を道連れにして減らせばいい。諸学は同等なんですから、平等に減らせばいいじゃないですか。ともかく学問の書生談義をやめて、大学を制度としてどうするかということを言わないといけません。ところが文科省は実際には何も言ってない。

篠原 何も言わないですか。

小泉 中身のあることは何も言ってませんよ。考えているのかも怪しい。教育学部についても、新課程を削れとは文科省は直接には言いませんね。自分たちの責任問題になるから言えるはずもない。大学院の問題だって一度だって自己批判しない。もちろん官僚だけの責任じゃなく、大学人の責任でもある。繰り返しますが僕には、大学の問題は、制度とかポストとか資金の争いとしか思えない。そこにまともに対処してはじめて、古典教養主義を守るという話に入ることができます。

篠原 そこは伺いたいです。

 

大衆の教養

小泉 反知性主義とか反教養主義と言ったときに念頭に置かれているのは、大衆ですね。ネット言論の連中とか。

篠原 具体的には百田尚樹とかああいう人たちでしょうか。

小泉 ほかにも、トランプとその支持者、橋下とその支持者など、先進諸国で同時多発的に起こっていることですね。ただ、反知性、反教養主義に見える大衆は、別の知性、別の教養を持っていると思う。そう捉えないとどうしようもなかろうと思います。フーコーが「歴史政治」と言うじゃない。

篠原 歴史政治?

小泉 主流派の知識や学問に対して、別の歴史を持ち出して政治的な闘争を仕掛けるような「従属知」です。ありていに言えば、偽史、稗史、偽物の歴史。そういうものがあちこちで吹き出てきていると思う。小さくて安全な例をあげると、『ブラタモリ』というテレビ番組がはやっているでしょう。

篠原 はやっていますね。

小泉 『ブラタモリ』って、大学とは別の知性とか別の教養だと思う。別の地理、別の歴史、在野的な知。あれは大学への対抗的な知です。そういう目で見るとたくさんのことが目に入ってくる。歴女ブームとか聖地巡礼とか「ポケモンGO」とかですが、それらは旧来の地理、地誌、環境に上書きしているわけです。大学人が持っているものと違うものを上書きしている。金沢のまちを例にするなら、どこが曰くつきの土地か、どこに妖怪がいるかが問題なのです。先ほど言われた学会で問題になっている二極分化なんかどうでもいいんです。そもそも文化遺産、歴史遺跡、ダークツーリズムがそういうものですね。それは要するに、従来の大学知とは別の知の形成です。もちろんそうは言っても、それらは明確に二つに分かれて対立しているわけじゃなくて、大学の中にもそういう仕方で研究を仕上げている人はいます。篠原さんもその一人だと思うけど。「ポケモンGO」から、空間、場所、知性といったことを考えなおしたら面白いのでは?

篠原 それいいですね。やりましょうか。

小泉 で、二分法のまますこし引っ張ってみますが、例えば昨今の大衆は戦争を語るにしても、間違いなく、ひとしなみに、元従軍慰安婦や戦後責任の問題は回避します。回避して忘却しているだけではなく、戦争ミュージアムや戦争遺跡を見るにしても別の目で知覚しているんです。過去を知覚する目が、違うものになってしまっている。あるいは、ミリタリーオタクのことを考えてみて下さい。それは昔からあった在野の戦争雑誌の系譜にありますが、いまではベイブリッジや大洗を別の目で知覚するようになっている。要するに戦争にかんする別の問題の立て方、別の答え方、別の語り方や別の見方がそれとして屹立しているんです。その含意は、これまでの大学人のやり方、戦争と聞けばみんな同じことしか言わないことにウンザリしているってことですね。しかも、いまやそのウンザリ感もきれいに消えてしまっている。とするとね、大学人は、その従属的な知においても戦線を開くしかないはずです。この前ちらっと読んでびっくりしたのは、イランの空軍の話です。

篠原 イラン? イラクじゃなくてイランですか?

小泉 イランの空軍は、もちろんツァー時代にアメリカの援助で育てられている。その時代から有能で練度も高かった。ところが、その空軍はイラン革命の後も、ホメイニー政権の下でも生き残り、イラン・イラク戦争でも大活躍します。彼らは常に革命政権に対する忠誠を怪しまれながらも、イラク空軍に対して圧倒的に勝利し続けた。

篠原 すごいですね。

小泉 実は、技術的には、ツァー時代でもアメリカは肝腎の情報は伝えないので苦労していた。ですから、ホメイニー政権下でも従来の水準を維持するために、資材輸入も途絶える中で四苦八苦してやっている。彼らは、それこそブリコラージュばりに、情報機器の技術からメンテナンス技術にいたるまで独自に開発するんです。

篠原 すごいですね、それ。

小泉 ちょっと涙ものです。もちろん、そういうネタは、従来からの大学の知の範囲でも、例えば技術移転論や内発的発展論や戦争機械論やポストコロニアリズム論でもってきれいに解題することはできますよ。力のある人がやれば、すぐに学術論文にもできます。でもね、ここで秘かに争われている知の争いは相当に違うことなんです。すこしズラして例解しておくと、政治的・軍事的な判断の規準とすべきなのは、国や民族や宗教や体制の違いとは関係なく、軍人の徳を発揮しているか否かということだけだってことです。そのような目でもって、日本帝国軍も自衛隊もレジスタンスもゲリラも知覚するってことです。これまでのイラン革命やイラク問題に関して、別の見方を導入しているのは間違いない。

篠原 完全に違いますね。

小泉 そういうことに気付くべきです。実は大学人のほうが、いまの大衆の知識や教養についていけていない。事情がこうですから、大学人の言動は、時代遅れの人たちが反動的に騒いでいるとしか聞こえないんです。そこで、大衆にウイング切って、文系を存続させるというのはアリでしょう。学部一般はそうやればいいと思います。ただ、自分が時代に立ち遅れているということに早く気付かないとね。だって『ブラタモリ』をみていても、二流のインテリアあつかいされてきた博物館の研究員とかが生き生きしている。そこにやっぱり感じるところはありますよ。で、その上で、僕は、古典的教養主義的な研究は別に確保するべきだと思っているわけです。

 

施設とコロニー

篠原 ところで、デリケートな話ですけど、この間の相模原の障害者施設での殺人事件。ここで何が起こったかは、本当のところは分からないとは思います。ただそれでも気になって、自分もいろいろ調べたり聞いたりしました。友人の一人があのような施設で働いていたと言っていたので、話を聞きました。二年ぐらい働いていたらしいですが、あのような施設に送り込まれる職員自体、結構やられている人が多いらしい。要するに普通の職場、医療系の職場ではあまり働けない。遅刻ばかりするとか、コミュニケーション障害があるなど、そういう人が送り込まれるらしいです。重度障害者のケア自体もかなり大変じゃないですか。だから、そこで関わっている過程で、そもそも病んだ職員自体がますます病んでいくというのは普通にある話らしいです。

 だからあの事件のことを友人が聞いたとき、あってもおかしくないことが起こったと思ったらしいのです。僕も直観的に、犯人がヒトラー云々とかいろいろ言っていたらしいですけど、それは秘密結社イルミナティのような話に簡単に転じる話で、特定のイデオロギーが彼の行動を後押ししたなんて全く思えない。あそこで働いているうちにおかしくなって、一線を超えてしまったのかとも思います。だから僕は、あの人たちを安楽死させないとかわいそうだって本気で思ったのか、もしくは職場のあまりの大変さに対して憤ったのか、いろんなものが彼の内面で整理つかないまま、思考停止の挙句の果てに暴発してしまったのではいかと思いました。

小泉 ただ、彼の場合、まさしく重度障害者を狙った。選んでね。極めて意図的です。障害者全般ではなく、あくまで重度を狙った。そこをよく考えないといけない。この点については、野崎泰伸さんが京都新聞で書いていたけど、重度の心身障害者を殺害してもよしとするのは、いわゆる正常人が思っていることです。世間の常識です。まずそこをわかっておかないといけません。

篠原 やった彼自身の考えが、世間の常識であった、ということですか。

小泉 人が人を殺すときにイデオロギーとか思想を抜きにはできないですよ。しかもあれだけ冷徹に選んで殺している。相当の気合いがないとできない。その気合いを吹き込んでいるのは、世間の常識、非公認の隠されたと形容してもよいですが世間の通念です。犯罪を捉えるときは必ず僕はそういうふうに見ます。これは野崎さんも指摘していますが、例えば、妊娠中の出生前診断で重度の障害があることが分かれば胎児を中絶していいということになっている。

篠原 え?

小泉 中絶しているし、それで通っている。

篠原 本当ですか?

小泉 そうです。

篠原 制度的に?

小泉 ええ。母体保護法の経済的理由を使ってね。もちろん実数は把握されていませんが、行われています。しかもこちらは公然とですが、出生前診断でダウン症の疑いがあれば中絶OKになっている。誤診断があるにもかかわらず、そもそもダウン症は本当に幅広いし、重度でも何でもないのに、死なせても殺しても構わないということになっている。欧米諸国には胎児条項が法的に制度化されている国がありますし、最近もダウン症をゼロにしたと吹き上げている国すらある。それが世間の実情です。それをモロに体現したのがあの犯人なんです。となると、一体全体、誰に彼を批判する資格があるのかということになる。あらかじめ、この程度は了解しておいていただかないと、この件については話になりません。その上で、なぜああいうところでそれが起きたのかということに関しては、篠原さんが指摘したようなことだとも思います。施設と呼ばれているもので、似たようなことが起こっているし、起こりかねないとは思う。

篠原 施設という形でものごとを捉えていくといろいろ見えるということですね。小泉先生の『ドゥルーズと狂気』(河出ブックス)でもそこは印象的でした。施設という形で、例えば人を収容するとか、治療対象にするとか。

小泉 これまで一応は脱施設化の流れはあるわけです。精神病院の解体とか、収容主義の廃止とか。ところが一方では、重度の障害者はもちろんですし、老人などで収容主義がむしろ広がっている。広がって散在しています。老人を例に取れば気付きますが、まちの中にものすごく施設が増えているでしょう。デイケアサービスとか老人用マンションとか。

篠原 ありますね。

小泉 あれは、ほぼ収容です。まちなかにあるのが、まだしも救いといえば救いですが、郊外の田舎にあるようなのは、さすがにどうかと思う。脱施設化の動きがあると同時に、やはり施設化の動きもあるのです。そうなると、あらためて施設の評価そのものが争点になるわけです。僕は施設が全面的に悪いとは思っていません。神奈川の人里離れた場所になにかと問題のある職員が一緒になって住むというようなことを、全否定はしません。その類の施設はアジールでありコロニーです。大学人に馴染のある用語で言えば、国内植民地です。そして、僕はそれを全否定はしません。そもそもコロニアリズムを推進した大衆に目を向けると、どうしてあれだけ多くの人間が植民に走ったのかという問いが立ちますね。やっぱり別天地を求め、ユートピアを夢見ていたからですよ。そこに賭けた原住民だっていたわけです。そのような情熱抜きに、植民も植民地建設も、また、植民地主義も起こるはずがない。だから全否定できないんです。例えば長島愛生園というハンセン病の療養所があります。あれもユートピアとして構想されました。岡山の長島にハンセン病者だけの独自のコロニー的なアジールを作ろうとした。差別社会からの一種の分離主義、独立主義だったわけです。その意味で、あれは別天地の開拓だった。実際「開拓」という雑誌もありましたし、「開拓の歌」というのもあった。他の施設にも、とくに宗教界が担った施設にも似たような歴史があります。そのことを「われわれ」の側から全否定できるわけがない。施設については、グレーなところやブラックなところが多々あるにしても、この程度をわかっておかなければ、話になりません。

 いままで大学人は、ハンセン病の療養所も含め、さまざまな施設は、排除され追放される空間だから、あってはいけないと批判してきました。でもそれほど簡単ではないのです。そこを押えた上で、それでも僕は、施設はやはり無くなったほうがいいと思っています。では、どうするのか。たいていの大学人は口を閉ざしますが、というか、ほとんど何も考えていないと思いますが、そのときのポイントは、これは異論が出るとは思うけど、僕は単純に国費の支出をやめろと思うのです。公的な援助をやめて、全部市場化しろと思っています。そうしないと施設はなくなりません。その上で、小規模であれば、これはいまの施設経営を考えればすぐに計算できますが、必要な施設なら、組合立も含め私営でも十分な水準でやっていけますよ。お望みなら、真の連帯主義、真の社会化と呼んでもよい。この論点は別としても、いまの争いはその「必要」に関わっているんです。老人にせよ障害者にせよ、家族の手に負えないことがあります。精確に言い直すと、現状では他の成員に相当な犠牲を強いる場合があります。そこで、どうするかとなって、近代では医療や教育や療育を名目として、宿泊型の施設を作ってきたわけです。僕はこの二択は間違っていると言いたいわけですが、仮に公的施設か私的家族かという二択で考えるなら、いまや施設を廃止するなら、家族に生死を含めすべて委ねると言わざるをえなくなるはずです。家族だけで面倒を見るなら、あれこれの事情で、とくに重度の場合は早死にするでしょう。それを呑むかどうかという問題が伏在しているんです。現状では、ここをわかっていないと、話になりません。その上で、僕は認めるべきだと思う。

篠原 どういうことですか。

小泉 家族に生死を委ねてよい場合もあると認めるということです。そこは、どうしたってグレーな領域なのです。家族に対する専門家の支援や介入がどうなろうとグレーな領域なのです。というか、本当は事態はまったく逆であって、そこを見込んで地域支援とか地域医療と言われているのです。はっきり言えば、それは欺瞞です。その類の欺瞞で動いているんです。ひるがえって施設はといえば、何らかの名目で収容するわけですが、もちろんそこも欺瞞だらけです。ここもわかっていないと、話になりません。

 その上で、論壇で展開されるような議論にも触れておきますが、重度の障害者にも生きる権利や生きる意味があると、一応は語られます。生きる権利という法権利の構成については別に考える必要があるので措きますが、その生の意味の語りは、たいていの場合、周囲にとって意味があるという語りになっています。それも欺瞞的です。たしかに、重度の障害者が周りに何かを与えてくれるということについては、僕は強く信じていますよ。僕の家の近くにカトリック教会が運営している重度障害者施設があるのですが、五山の送り火のときには、その眺望がよい北野白梅町の交差点に、職員が車椅子に障害者を乗せて一斉に出てくるんですね。夜間外出そのものが珍しいからでしょうが、職員もきゃーきゃー言いながら車椅子を押して道路を縦走したりします。自動車なんか恐れず、まるでフランスデモのように、ね。そういう情景を見ると心からいいなと思いますね。ただそれも、あくまで他人にとっての意味にすぎません。それを言い立てても、欺瞞にしかならない。語ってもむなしい。ここもわかっていないと、話になりません。

 つまり、とくに重度の障害者については、われわれは薄氷の上を歩いているんです。その薄氷は嘘や欺瞞で二重三重に固められています。だから、そこに気付いた人間の中に、薄氷を叩き割りたくなるのが出るのは当然です。この俗世では、仕方がないとしか言いようがない。ここもわかっていないと、話になりません。でもね、僕自身として思うのは、その薄氷は意外に硬いってことです。中世でも近代でも、意外なほどに薄氷はもってきたのです。で、僕は、その薄氷を固めている嘘や欺瞞を通して、真と善と美が働いていると信じています。これは個人的な信仰です。ですから僕に言わせるなら、あの犯人は、嘘や欺瞞を破るというなら、殺すべき人間は多すぎるってことがわかっていないんですね。また、信仰を抱けなかったのでしょうから、そもそも職員になるべきではなかったし障害者から遠ざかるべきだったのです。

 

人間科学としての復活

篠原 話はかわりますが、やっぱり今後、僕みたいなのはもうちょっと頑張らなきゃいけないのかなって思います。

小泉 それはそうですよ。だって四○代だっけ。

篠原 そうです。もうすぐ四一歳になります。

小泉 四○代問題って一部ネットで話題になってましたね。

篠原 四○代問題?

小泉 四〇代自身が言ってるけど、活躍してないって。

篠原 ああ。自分も頑張ろうとはと思うのですが……。ところで小泉先生は、例えば文学関係の人とも関わって仕事をされていますよね。そのような拡張は、素晴らしいと思います。そのうえで、私たちも、イラン空軍にせよ「ポケモンGO」にせよ、どんどん分野を拡張していかないとマズいのでしょう。当たり前のことになるのでしょうね。

小泉 篠原さんだったら建築関係の人と仕事を続けられるといいですよね。でも一応批評的でなくちゃいけない。やっぱり大学人の役割は、上から目線で批評することだと思いますよ。そういう意味で人文系には、対象が必要ですね。それも文系的なもの以外の別の対象が。そのとき、資本主義の最先端で活躍して稼いでいる人との関係のなかで仕事するのは当然だと思う。

 それに関係しますが、人文学を自然科学とか社会科学の方法を使って延命させようという動きがあると思うんです。そういう形で人文学が人間科学として復活しつつある気がします。人間の知能とコンピューターを比べるという定番のネタも、そういうことですね。情報科学や自然科学と連携したりとか。篠原さんの環境論だってそういうことだから。

篠原 そうなりますよね。情報科学、データ分析、ビッグデータ活用の専門家との連携が将来的には必要かなとは考えています。

小泉 それは当然そうなると思う。だから大学人としては、そこはもっと高度にする務めがあると思う。いまの状態はレベルが低過ぎる。その上で、人文学の務めは、社会科学や自然科学系が関与しているものを批判することにあると思います。

 そこでひとつ思うのは、現在の人間科学は、人間をいわば発達障害として見ている感じがしますね。人間が合理的人間ではないということははっきりしている。従来の学問が想定してきた合理性もなければ、限定合理性だってない。反教養的で反知性的な大衆は、その域にも達していない。かといって、非合理で不合理な愚者というのでもない。そんな人間観を基礎にしていると同時に、それを広めていると思うんです。それについては僕も最近になって考え始めたのできちんとした話はできないのですが、現在の人間科学は、人間を被験者として、英語でsubjectは主体と被験者の二義がありますが、その両義的な意味で被験者として扱っているし、その見方を広めているのではないでしょうか。例えば、一定の実験条件に置いてみてどう反応し行動するかを分析するわけですが、そのようにすることによってその真理を明かすであろう対象として人間を捉えている。たぶん現代建築も現代アートもそれと同期しています。一定の動線を引いてやれば、あるいは、一定のセッティングをしつらえて誘導してやれば、ある情動を喚起し操作できる対象として人間を捉えている。ヒューマンに見える建築や作品にしても、ある一定のコミュニケーションを誘い出すように仕組まれている。それらは人間を、所与の設定に対して決して知的にではなく行動的ないし情動的にのみ応答する被験者として扱っているわけです。

篠原 確かにそうですね。

小泉 この動向は、二〇世紀後半の認知行動的転回に並行しており、とくに障害者研究へのその応用と似ている気がするんです。そもそも障害についての大学の知は、実験室的な環境で被験者としての障害者が観察されたものです。それに限られています。それが発達障害の流行とあいまって、他領域にも影響を及ぼしてきた気がする。その果てに、主体にして被験者たる当事者の研究があるわけです。ともかく現在の人間科学における人間観が、何か従来と違うものになっているのは確かであると思うのです。例えば、スポーツでコーチングがはやってますね。一流選手は、その巨額の稼ぎを再分配するためもあるでしょうが、専門のトレーナーを付けている。

篠原 そうですね。

小泉 あれなどは科学的・心理学的にやっていますが、基本的には人間をコントロールする学問ですね。臨床知とか臨床諸学にしても、そのようなものです。人間科学の動向が大いに変わっていることに文系の大学人は気付くべきです。

篠原 そうですね。僕もあまり分かってなかったので拝聴するよりほかないですが。

小泉 そのあたりは、コントロール社会論や統治性論として語られてきたことではあるのですが、それを支えるというか、そこから生まれたというか、新たな人間科学がある。それは広く浸透している。しかも、コントロールすることも、コントロールされることもいいことだと思われている。被験者になりたがる人間であふれている。コントロールされたい、ナッジされたい、お任せしたい、誘導されたい、感動をもらいたい、元気をいただきたい、上手に泣かせてほしい、うまく騙してほしい、とか思っているわけです。状況がこのようなので、ドラッグやセックスへの依存があれほど非難されるのだと思います。

篠原 なるほど。ここ数年ですかね、そのコントロール科学みたいなのは。

小泉 ブームは二一世紀に入ってからだと思いますよ。その知的な基礎は、例えばハヤカワ文庫のノンフィクションシリーズあたりにあるんでしょうね。進化系、情報科学系、行動経済学系とか、売れている本が割にありますよ。

篠原 『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるのか?』(ダニエル・カーネマン著)とかですか?

小泉 その系統の本。

篠原 確かに多いですね。

小泉 そのあたりが現在の大学人の常識になっていると思う。認知系、行動系の本はいっぱいあります。自己啓発本も占い本もごっそりある。そういうのを前にして、リアル本屋は面白くないって言うだけでは駄目です。学者は務まらない。

篠原 なるほど。アマゾンで本を買うだけでなく、リアル書店に並ぶ本を観察しなきゃ駄目ということですか。

小泉 いま大衆文化というか民度を形成しているのは、ツタヤでしょう。ツタヤを見ないと話にならない。

篠原 大型書店なんかに入ると、全部それですね。たとえば「ゼロ思考」系とか。そのそれが置かれている横には、中韓バッシングの本があって、そして大川隆法の本がある。

小泉 幸福の科学の本もばかにできないと思うよ。仏教学者の中村元の霊が幸福の科学に召喚された本があるんですが、そこでは、大川隆法が中村元になり代わって、彼の学説を語るわけ。それを聞いている信者が三人いて、それぞれが中村元の霊に反論する。中村元イコール大川隆法が一生懸命弁明するけど、最後には論破されるんです。あの偉大な仏教学者の中村元が。というか、霊が降りているところの大川隆法が。信者の反論のポイントは、かつて中村元について向けられた批判のパクリなんですが、それを踏まえてはいる。過去の大学の知を踏まえて、乗り越える仕立てになっているんです。マルクスの霊が降りると、マルクスも乗り越えられるわけです。だから幸福の「科学」なんだよね。

篠原 なるほど。科学ですね。マルクスを科学の観点から批判しているわけですか。

 

人間科学のネタはいくらでもある

小泉 あれを九○年代のオウムと一緒なんて言っている限り駄目です。そう見ている限り、現在の宗教を理解することはできない。幸福の科学に類するものが一方にあって、他方にISみたいのがあって、と考えると宗教は面白いですよ。ほかにも、いま面白いネタはいっぱいある。というか、いまほど面白い時代はないと思いますよ。

篠原 そんなに面白いですか。

小泉 そもそも本当に危機だったら、面白いに決まってるじゃないですか。あなたは暗いっていうけれど、そんなことはないですよ。なぜ面白いかというと、現代思想は死んだと思っているからです。リベラルもようやく死んでくれたし、いまでは誰もまともに見えること言えなくなっている。ようやく、自由にものを言っていい時代になったんです。PCもそれへの反動も、ヘイトスピーチがどうのとか、もうどうでもいいのであって、まさしくパレーシア(何でも言うこと)の時代になったのです。いまは多少の掟破りの政治家しか出ていませんが、ともかくタブーはなくなった。だからこそ、人文学者がやれることはごまんとあります。

 もちろん、そこから学問を立ち上げるのはとても難しいですよ。安丸良夫を想起しておけば、いまわれわれが出会っているのは、民衆知、通俗道徳です。それを学問的に研究することは、実際には誰も成功していないと僕は思っています。安丸良夫だって見事に失敗したと思っている。安丸良夫はその研究の結語として、通俗道徳からは、通俗に真摯に徹すれば徹するほど体制に対して批判的になるような変革の徴候が出てくると語るわけです。しかも、出口なおのような天才とは違う形で出てくる、とです。そう語ってみせるわけです。その気持ちはいまになって痛いほど分かりますが、そういうことしか言えないんですね。だから、恥ずかしげもなく言いますが、いま変革の主体を探すとしたら、通俗道徳にまみれた大衆に探すしかないわけ。

篠原 そうですね、僕もそう思います。

小泉 トランプ支持者とかに探すしかないじゃない。あるいはISとか。現在命がけでグローバリズム批判しているのはIS以外にいないじゃない。

篠原 ただ、多くの人は、トランプはファシストだと言ってしまって、その面白さを考えるところまで思考が進まないのかもしれません。

小泉 先日、本当に呆れたのは、イラクで戦死したフマユン・カーン大尉の両親の発言をめぐる民主党と共和党のやり取りと、それへの知識人の反応です。ほとんどの人が、トランプは戦死した軍人を難じてはいけないとするタブーを犯したと論評し、トランプもそれを認めたことです。そのトランプ発言は詳細な検討に値するものですが、ごく簡単に述べておくなら、実質的に問われていたのは、宗教と政治の関係です。米国のイスラム教徒、イラクやISのイスラム教徒は、政治的に何をなしており何をなすべきか、また、米国のキリスト教徒はどうかということです。そこを問わないまま、米国ではイスラム教徒も米国のために殉じているなどと宣伝すること、しかもそこへの批判をタブー化することが、まさにイラク戦争を合理化している当のものです。トランプ発言はそこを射抜いたんです。だからこそ、トランプはビビった。パレーシアに堪えることのできない、たんなる根性ナシです。ファシスト呼ばわりの批判など、とうの昔に命脈は尽きているのであって、もう認識的障害にしかなっていません。ことほど左様に、現在をよく見れば、人文学のネタはある。いくらでもある。

篠原 そこを面白がってどんどんやっていくような雰囲気が出てくればいいのでしょうね。

小泉 つくんなきゃしょうがない。篠原さんの空間論だって、もっといろいろやれることはあるでしょう。しかもそれは通じやすく言わなきゃ。決めぜりふとかキャッチコピーとか出して。

 

オブジェクト指向存在論

篠原 オブジェクト・オリエンテッド・オントロジー(OOO、オブジェクト指向存在論)などから示唆を得て、バージョンアップを試みています。いま小泉先生が言われたようなことも論じているつもりです。それを踏まえて思考を進めるなら、要は全てオブジェクトである、ということになる。特権的に人間が中心にいてその周囲にオブジェクトが散らばっているという話ではなくて、DVDのプレーヤーも猫も、なんであれ等しくオブジェクトとしてフラットに漂っている、そのなかに人間もオブジェクトとなって存在しているという、そういう話です。

小泉 次の一歩で何を言うかが重要ですよ。

篠原 みんなオブジェクトだよ、ということをとりあえずデフォルトにしましょう、ということです。

小泉 それだけだったら駄目だと思う。

篠原 たしかにそれだけでは面白くないですね。

小泉 その次なんだよ、大事なのは。OOOや文化人類学の新しいブームにしたって、あれはすぐぽしゃるよ、その次を言わないと。そのプラスアルファを書けるかどうかでしょう。

篠原 そこで終わっちゃっていますよね。プラスアルファはまだ打ち出せていない。紹介すらも進んでいませんが。

小泉 紹介されている範囲でもね、マリリン・ストラザーンなんて全然面白くない。レヴィ=ストロースのほうがよっぽど面白い。ヴィヴェイロス・デ・カストロにしても、現在では最初の著作『敵からの視点』のほうが有意義でしょう。ドゥルーズ版の文化人類学者に仕立ててどうするのさ、って思いますよ。OOOだって大半は面白くない。外国の思想を紹介することはいいのです。一度やんなきゃいけないことだから。それにプラスを付け加えられるかどうかです。

篠原 思弁的実在論などを紹介して、新しい思想がありますよ、はいどうぞで終わってしまう可能性もなくはないですね。

小泉 それでは人文系は生き延びられない。

篠原 ええ。ただ、それで終わっちゃうかなという雰囲気も一方であるのですね。紹介で終わってしまうというのは、結構これまであったと思います。カルチュラル・スタディーズもそうだったように思います。でもいまの僕の感覚からすると、別に紹介も何も、直接PDFで読めてしまうわけだし、ブログとかいくらでもあるわけじゃないですか。だから別に私たちが紹介するなんてことしなくても、関心のある人はみなさん直接ダイレクトに調べて、そこで論じていることをどんどん自分で咀嚼して、そのうえでプラスアルファするっていうのは、英語ができれば誰であれ結構できるような気もするのですが。

小泉 でもそれは誰かがやって見せなきゃいけない。それは大学か在野かを問わず、知識人の役割です。OOOを僕が受けとめるとしたら、われわれが何を知覚しているかという問題として受けとめます。知覚の問題として受けとめて、オブジェクトしか見てないとなったとき、そのオブジェクトって何さっていう問いがでてくる。それはもろに美学の問題です。作品とは何か、何が作品して見られているのか、そういう問いになる。われわれはオブジェクトを見るけど、実際に何を見ているのか。われわれは釜ヶ崎に行ったとき何を見ているのか。「ポケモンGO」を見ているかもしれない(笑)。僕も確かにあそこに行くとスイッチが入る。

篠原 そうですか。僕は入りませんが……。

小泉 古典的左翼としては、もちろん一度入ります。でもOOOのポイントは、そのスイッチは虚妄である、ちょうどアートのセッティングや実験室の条件づけのようなものである、ということです。そのスイッチを外したなら実際に見えているのは、ただのくすんだ街路です。それと多少の雑草。篠原さんにしても郊外に何を見ているのか。

篠原 そうですね。僕もくすんだ街路しか見ていないような気もしますが。

小泉 OOOのすべてではありませんが、現象学を拒絶しますね。それは、現象学がどんなスイッチでも、どんな意味付与でも肯定するからです。これに対して、OOOはそれを全部棄却しろ、われわれの主観の意味付与作用をすべて剝ぎ取れと命じている。というか、現にそうなっていると指摘しているんです。それは廃墟を見るときでも建築やアートを見るときでも同じです。この点では、千葉雅也さんが長坂常『B面がA面にかわるとき』に優れたエッセイを寄せていますが、僕としては、それこそもっと浮世離れの方向に行けるし、現に行っていると思うんですね。

 要するにOOOがなぜ受けるかというと、従来の学問における対象理解の批判だからでしょう。従来の学問を忘れましょう、現代思想を忘れましょうと言っているからです。というか、現に忘れていると暴いてみせている。釜ヶ崎へ行っても知覚レベルでは、ただのコンクリートのまちです。それ以上でも以下でもない。ところが、いつから始まったか知りませんが、そこで貧困ツアーが催されている。大学人があそこで学生を引率して貧困ツアーをやっている。あれはツーリズムの典型じゃない。

篠原 (苦笑)貧困ツアーはともかく、OOOの学問批判は重要なのですね。

小泉 OOOを徹底すれば、ツーリズムによる意味付与だってアウトです。

篠原 あれが出てきたのも二○○○年代後半ぐらいですよね。だからそういう意味ではそのあたりでの世界的な変動があって、それへの反応として出てきていることなのかもしれません。世界規模での惑星意識の目覚めや、金融危機後の世界情勢の荒廃というか、そのような時代変動への応答にもみえます。

小泉 おそらく、地球儀幻想や荒廃概念こそが現在の最たるスイッチでしょうね。僕としては、人間くさいものをすべて切って捨てたい、人文的なものを一回リセットしたいという欲望であると受けとめています。

(2016年8月29日収録)

小泉義之(こいずみ・よしゆき)/1954年札幌市生れ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学。現在、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。著書に、『ドゥルーズと狂気』(河出ブックス)、『生と病の哲学』(青土社)、『倫理学』『デカルトの哲学』『「負け組」の哲学』(以上、人文書院)など多数。訳書に、ドゥルーズ『意味の論理学』(河出文庫)、ドゥルーズ『無人島1969-1974』(監訳、河出書房新社)。

※第1回中村隆之さんはこちら。不定期連載します。

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