【著者プロフィール】

写真:北井一夫

1928年東京に生まれる。元、早川書房編集者。同社を退職後、チャールズ・E・タトル商会で勤務する傍ら、ペンネーム内田庶(うちだ ちかし)名で数多くの児童書の執筆・翻訳を手がける...

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  • 2015.08.01

    受難の占領下の翻訳出版 その1

    1.『チボー家の人々』と白水社

    外人商社チャールズ・E・タトル商会版権部(のちに著作権部と改称)に職場が変わってすぐの昭和30年初頭、意外なひとが訪ねてきた。白水社の社長、草野貞之である。
    私の記憶では、残雪が残っていた日のわざわざの訪問であった。事前に、「仕事の話ではない。聞いておいてもらいたいことがある」という電話があった。
    草野貞之に会うのは初めてではない。元の職場早川書房にいたとき、日本翻訳出版懇話会で何回となく会っている。もちろん、駆け出しの私が口をきける相手ではない。戦前から翻訳者として、かつ編集者として著名な大先輩である。
    早川書房に入社してまもなく、社長の命で参加した翻訳出版懇話会では、私は会合に出席したとはいえ、後に新潮社の出版担当役員となった新田敞とともに、受付で会費を戴く役をやっていたにすぎない。そこで話された平和条約に伴う戦時期間加算や、日米間の翻訳権保護、さらにユネスコ条約(万国著作権条約)など、ただ承るだけでその問題の重要さなど、そのころの私にはさっぱりわかっていなかったと思う。
    当時、銀座並木通りの近くにあった文藝春秋新社の地下で行われた翻訳懇話会には、あとで考えると第一線の出版人が、綺羅星のように集まっていた。先の草野貞之、布川角左衛門(岩波書店)、大塚光幸(朝日新聞社)、山崎安雄(毎日新聞社)、藤本韶三(美術出版社)、幹事役は、文藝春秋新社の安藤直正であった。
    安藤直正は、いまなおロングセラーとなって社を潤している『アンネの日記』の翻訳権を、先んじて取得して出版した。後に「文藝春秋」の編集長にもなった。布川角左衛門は、占領下の著作権法改正案起草審議会委員になりGHQの拙速な改正に抵抗した。岩波を辞した後、栗田書店を経て筑摩書房再建に努めた。日本ユニ著作権センターの創立にあたっては、顧問として側面から努力してくれた。
    また、私が彼が死ぬまで公私ともに付き合った大塚光幸は、岩波書店から戦後朝日新聞社に移り、出版に携わった。吉川英治の信頼が厚く、遺族とも長く付き合った。定年後は「朝日新聞百年史」の編集に携わり、その完成を見たのが80歳だったので、総務が定期代の請求から実在を疑って、彼のデスクを覗きに来たというエピソードさえある人物だった。
    大塚光幸は、共同通信の北村治久とともに日本著作権協議会を創立し、著作権知識の普及にまさしくボランティアそのもので死ぬまで勤めたが、それら日本翻訳懇話会の人には、その後、私は多くのことを教わった。
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