「字幕がないのが当たり前、字幕があるのは善意」( @pin_pinbit )について
たまたま目にした「論争」で、要は聴覚障害の人にとって字幕のない映画(やニュース)は差別に当たるのかどうか、ということらしい。
幾つかの論じ方があると思う。
直接の言葉を引き取れば、一つは何が「当たり前」なのか、もう一つは何が「善意」なのか、となる。それは、言外の意味をどれだけ斟酌するのかで話の厚みというか深みも変わってくるだろう。何故なら、どちらの場合も絶対的概念ではなく、相対的概念なのだから。
まず、「当たり前」について。
いわゆる障害者には先天的にも後天的にもさまざまある。基本的には社会的弱者とされる。だが、社会的弱者なら、実は、障害者ばかりではない。まだ自立した生活ができない未成年もいれば、もう体のどこかにガタが出始めた高齢者もいる。中には体質的に病気に弱い人もいるだろう。未成年や高齢者は人生の一部だけが社会的弱者だが、障害者は障害を抱えた日から終生の社会的弱者となる、という違いがある。社会的弱者ならいろいろいることが社会の前提として受け入れられるかどうか、そこに「当たり前」という感覚の違いが読み取れると思う。
社会的弱者がいることが当たり前だと考える立場からは、どんな弱者であっても、身の回りに普通に過ごしていることが当然のことに見える。むしろ、普通に過ごせるようにすることが当たり前だと考える。
たとえば、乳幼児の死亡率、社会階層による人生の寿命の長短の違い、戦争や疫病による四肢の一部の損壊、こういったものは歴史的に大きく変わってきた。日本でも敗戦から20年くらいは傷痍軍人たちが街頭で膝まづき施しを乞う光景が珍しくなかった。医療や福祉の様々な取り組みの努力が延々と積み上げられてきたのは、子どもを無事に成長させたい、出来るだけ多くの人が天寿を全うできるようにしたい、等々の願いがあったからではないだろうか。現実に向き合うとき、そこに、多種多様な弱者が存在するからこその課題だっただろうし、これからもそうであり続けるだろう。それがまた、いわゆる健常者の医療や福祉の向上にもつながってきた話だろう。
そうした社会的弱者の姿が目に入らない社会となったら、どういうことになるだろうか。おそらく、医療も福祉事業も、発展性はないだろう。課題そのものが意識されない社会になるのだから。
ファシストは、そういう社会を目指した。彼らにとっては独占資本の意図に忠実に振る舞うことが「善意」であったから、「役立たず」は社会から抹殺することを当然視した。資本の論理はいつでも「役に立つか否か」、つまり「カネになるか否か」なのだから、社会的弱者というのはお荷物でしかない。それが今、おぞましい形で蘇ろうとしている姿として、現在のアベ政権の態度の中に見えてくる。子供の成長とか教育や学問に対する冷淡さと資本の要求への偏重(=軍・産・学協同路線)、医療・福祉関連予算の切り捨てなど、「無駄」を省く露骨な路線なのだから。
さて、そんな中で、ダイバーシティ(多様性)という単語が時折話題になるけれど、それは、実は、人間であればあり得るような、ありとあらゆる可能性を視野に入れたものでない限りは、真の理解にはつながらないだろう。であるならば「当たり前」とは何だろうか。例えば冒頭の話題のように「字幕がないのが当たり前」なのだろうか。
さて、「善意」とは何だろうか。今も触れたように、ファシストにとっての善意は資本の利益に供することだった。お荷物な弱者など社会には不要であって、生産に役立つ健常者だけがいればいいと、日本もドイツも、また、他の諸国のファシスト政権も徹底的に弱者排除の態度を貫いた。ましてや、彼らにとっては、権力に逆らう野党的な者どもは社会の害悪でさえあって、ダイバーシティなどもってのほかだったから、過酷な弾圧も厭わなかった。
それほどに立場が変われば見方も変わる相対的な概念の「善意」なだけに、その善意とは、誰の立場に立っての善意なのかが問われることになる。
字幕をつけてあげるのは「善意」であって、もともと、そんなことまでする必要もないのだ。それが企業のコスト感覚なのだ。メリットがあれば字幕をつけるが、売れ行きに関係ないと判断すれば、そんな善意など必要ない。何しろ、コスト計算こそが企業の要諦なのだから。だから字幕をつけてくれる「善意」をありがたいと思うのが「当たり前」だろう。
これがまあ、資本主義社会の資本主義的な理屈に他ならない。
マルクスとエンゲルスの二人が起点となっている科学的社会主義の最初の根本理念は、社会的生産の社会的所有だ。つまり、社会的生産の私的所有という資本主義から、生産の成果を社会的に還元する社会に切り替えようという立場。この立場から言えば、コスト意識についても、企業単体のコスト意識と同時に社会的コストという観点を前提にするようになる。つまり、企業が責任を持つのは、自らの経営のコストばかりではなく、社会的に貢献するべき要素としての社会的コストの負担、ということだ。
『資本論』の話をかいつまんで言えば、どんな企業も正当な事業活動をしていることを前提に、原材料の仕入れとか加工を行なって、それをもとにした生産の上での商品販売に至るどこにも不正はなく、単に価値を(原材料から自らの販売商品に)移転しているだけの話なのだが、どうして利益を生み出すのかといえば、生産と流通の過程で唯一付加価値が発生するのが「労働力」を稼働させた「労働」の結果にある。価値通りの「労働力」を買って、その価値以上の「労働」の成果を手に入れる、ということだ。この搾取こそが企業利益の源泉であり、また、諸々の税金の源泉となっている。
その利益と税金の一部を社会還元するかどうか、それが社会的コストに他ならない。どういう使い道なのかは、国によって時代によって、教育・医療・福祉の様々な分野の振り分けの考え方の違いになって表れる。
だから、企業の「善意」という表現が、どんなに欺瞞的な厚かましさの表現であるのかも分かるだろう。もともと、搾取した金の一部なのに、それを「ありがたいと思え」という「善意の押し付け」なのだから。むしろ、搾取された金の一部を社会的コストとして取り返すこと、これが、働く者の要求であるし、多様な弱者がいて当たり前な、多様性の社会の要求になるのは当然の話だろう。
何が「当たり前」か。
選挙の際の政見放送では、今では画面の一部に手話の人が登場するのは「当たり前」の光景になった。このこと自体が歴史的相対性を表す現象だと思う。「当たり前」は、時代とともに変わる。
何が「善意」か。
立場によって、その善意は身の毛もよだつホロコーストという悪意にもなる。感謝を強いられる善意を押し付けられて、とてつもない悪意を受け取ることにもなる。
「字幕がないのが当たり前、字幕があるのは善意」
とは、素直には受け取ることはできないだろう。むしろ、その言葉の端々に見える差別感覚はファシズムにもつながりかねない危うさを感じることの方が大きいだろう。