昔々、といってもせいぜい一週間くらい前のことなのだけど、僕はとある白金の鮨屋を訪れた。
僕は店の風景をはっきりと思い出すことができる。
石の床。
草色の砂壁。
白木のL字型カウンター。
記憶というのはなんだか不思議なものだ。
そのなかに実際に身をおいていた時、僕はそんな風景にほとんど注意なんて払わなかった。
正直なところ、その時の僕には風景なんてどうでもいいようなものだった。
僕は僕自身が食べている鮨のことを考え、僕にお茶を運んでくれた一人の美しい女将のことを考え、僕と女将とのことを考え、そして僕に鮨を握ってくれた大将のことも考えた。
結局のところ、文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
店を出る時、なぜ女将が僕に向かって「またお越しください」と言ったのか、その理由も今の僕にはわかる。
女将は知っていたのだ。
そう考えると僕はたまらなく哀しい。
なぜなら女将は僕のことを愛してさえいなかったからだ。
はじめて女将に出会ったのは、4月某日の夜だった。
僕は、『鮨 いまむら』の前でニュースを読んで時間をつぶしていた。
開店時刻の1分前、美しい女が扉を開けるやいなや、僕の方を向き、にっこりと笑い、少し首を傾げ、僕の目をのぞき込みならが「いらっしゃいませ」と言った。
まるで澄んだ泉の底をちらりとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。
店内に入って席に座ると、今村健太朗という大将が出てきて、「いらっしゃいませ」と言ってきた。
今村は女将の夫だった。
いかにも福々しく、美味そうな鮨を握りそうな面構えだ。
ベルギーの和食店で料理人としてのキャリアをスタートさせた今村は、今はなき『坊 其の参』の寿司部門を経験したのち、2009年に自身の店をオープンさせた。
彼は純粋な鮨店での修業はしていないが、料理の勘所をその瞬間瞬間で見極めてそれにうまく対応していける能力があった。
またそれに加えて、『新ばし しみづ』をはじめとした他の鮨屋を精力的に食べ歩き、自分に足りない部分を見つけていくことができるというちょっと得難い才能を持っていた。
開店からほどなくして、店は満席になった。
客の多くは、ハイソな空気感を漂わせた夫婦たちだった。
今村は、優秀そうな若い二番手とともにテキパキとツマミを振る舞った。
たらの芽を出してくるあたりがユニークだと僕は思った。
しかし、ツマミは鮨屋No.1決定戦の評価対象ではないため、どの品も早々に平らげて女将を眺めていた。
そんな僕の空気を身のうちに感じたのか、今村は早々に握りにとりかかった。
細かく包丁を入れたアオリイカは、噛むほどに甘みが溢れ出てきた。
そして、赤酢のコクと米酢の香りをまとい、塩がキリッと効いた力強いシャリが、それをさらを引き立てていた。
マグロや白エビとの相性も良い。
一方で、コハダにはオボロをかませることで塩味を緩和し、味に深みを与えていた。
最後は女将が作ったアイスクリーム。
程よい甘さと別れの切なさが去来するフレーバーは、この日の白眉だったかもしれない 。
最後は女将が作ったアイスクリーム。
程よい甘さと別れの切なさが去来するフレーバーは、この日の白眉だったかもしれない 。
コースの提供を終えた今村は、安堵の表情を浮かべた。
客が一斉に鮨と女将を褒め出した。
今村は「うちのカミさんはすごいです。飲食業のポテンシャルは僕よりも遥かに上です」と言って、マダム票を上げていた。
僕を含めた男性客は、羨望と嫉妬が入り混じった寂しそうな表情で今村を眺めていた。
僕が店を出ようとした時だった。
女将がいじらしく駆け寄って来た。
僕は、女将を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた・・・かったが、お縄になって鮨屋No.1決定戦が頓挫してしまっては本末転倒だと思い、やめた。
しかし、僕は女将を真正面から見つめ、目でこう訴えた。
「僕の研究プロジェクトが終わったら、きっと、必ず、また白金に来ます。・・・貴女に逢いに」
女将は、不思議そうに首をかしげながら、僕のことを見送った。
エンディングテーマ『鮨屋でのラブ・ストーリーは突然に』作詞:斎藤 柊斗作曲:小田 和正何から伝えればいいのか 分からないまま鮨を食べてて浮かんでは 消えてゆく ありふれた言葉だけ女将があんまりすてきだから ただすなおに 鮨食べれないで多分もうすぐ 金を払って 二人 たそがれあの日 あの時 白金で 女将に会えなかったら僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま大将が甘く誘う言葉に もう心揺れたりしないで切ないけど そんなふうに 女将は縛れない明日になれば『鮨 いまむら』をきっと 今よりもっと好きになるその魅力が他の鮨の 店を超えてゆく女将のためにお客になる 女将を守りつづけるさりげなく 女将に貢ぐ ただの客になるあの日 あの時 白金で 女将に会えなかったら僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま今 女将のアイスが出された 瞳閉じて 口に運んで僕は忘れないこの味を 女将を他の客にも渡さない女将のためにお客になる 女将を守りつづけるさりげなく 女将に貢ぐ ただの客になるあの日 あの時 白金で 女将に会えなかったら僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま大将が甘く誘う言葉に 心揺れたりしないで女将に貢ぐ ただの客になるあの日 あの時 白金で 女将に会えなかったら僕等は いつまでも 見知らぬ二人のまま
コメント
コメント一覧
論理的かつ直感的で、引き込まれる文章、すごいです。疑似体験しているかのよう。
スシ ショーズ シリーズも村上春樹も小田和正も最高です。
鮨好きとして、ヒジョーに今後の楽しみが増えました。
ブログ更新、がんばってくださいませ。