2016-09-19
書評
フレッド・ピアス「外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD」草思社.
全体として本書は用語の使い方に誤りが多く、生態系や野生生物、そしてそもそも「社会問題としての外来種問題」に関する基本的な部分に誤解があります。したがって導き出される考察や結論も誤りが多いです。唯一良いのはなるべく出典を示していることで、気になった事例を後で調べることができます。著者は丁寧に出典にあたって持論を展開しており、その点は「日本のトンデモ学者や適当ライター」の本よりはるかに真面目です。
ただ、この本のテーマはタイトル通り「外来種が悪か善か?」であり、「外来種は悪ではない、善だ!」と言う持論を普及したくて執筆したのでしょうが、そもそも農業用作物の多くは外来種(イネもジャガイモももう色々)ですし、世間的に問題にしている外来種というのは「侵略的なごく一部の外来種」だけであって、21世紀の現在、まっとうな科学者は誰も「外来種がすべて悪だ!滅ぼせ!」なんてこと言っていません(アライグマに農作物を食い荒らされた農家の方や、セアカゴケグモに噛まれた人は、「悪だ!」と思っているでしょうけど)。
そして、著者は初めの方で「外来種は「悪」、在来種は「善」という色分けは、科学的な根拠のない誤った区別ではないのか。(29ページ)」という問題提起をしていますが、ええ、まったくその通りで、善とか悪とか「価値観」に根差す部分は自然科学ではないのです。したがってそもそもこの本は初めの問題提起からして誤っています。生物多様性の保全に関わっている科学者は、善とか悪とか思ってないでしょう。色々な事例を通して著者の持論をまとめると「生物種数が増えるのは「善」」「本当に悪いのは人間」「外来種は悪ではない」「外来種対策をしても無駄」「外来種が入ってできた新しい生態系にも価値がある」的なことを述べているのですが、用語の定義など前提としての知識が誤っているために、結論もいちいちピントがずれています。
とりあえず外来種に関して言えば、問題となっているのは「侵略的な外来種」であり、それらが生態系に悪影響を及ぼし、生物多様性を低下させることについてはいくつもの研究例があります。そして、生物多様性を保全することは、人類にとって色々な利益をもたらすことも明らかになっています(例えばここ)。すなわち、まず何より重要な前提条件は、外来種対策は「主に生物多様性の保全のために行っている(人的被害や農林水産業被害対策の一面もあります)」ということで、生物多様性の保全は「人類が人類のために」していることだということです。結果的になっていたとしても、「自然のため」とか「地球のため」にやっているわけではありません。でなければ条約になったり法律になったりするわけがありません。現在の人類はそんな崇高(?)ではありません。
外来種問題を政治的な問題に結びつけたり、あるいは人種差別問題に結びつけたりする愚か者は多いのですが、そもそもは非常に単純な問題です。それは、生物多様性の保全は人類にとって様々な利益を生む、一方で外来種も利益を生むことがある、その前提の中で、生物多様性を損なう「侵略的な外来種」についてはできる限りの対策をとり、生物多様性から「得られる利益を最大化しよう」、というそれが根幹です。結果的に生態系は保全され、在来種の多くは絶滅を回避できるでしょう。でも、自然のためだとか、生き物のためだとかが本質ではないのです。それはこれがそもそも、人類が人類のために進めている社会的な課題だからです。
外来種問題を含む生物多様性の保全は、世界的にはもちろん、国内的にも外来生物法や生物多様性基本法にあるように、社会的な課題として同意を得て色々な事業が進展している状況です。それに対して意見や異論を言うのは自由ですが、こと本書に関しては「科学的・社会的に誤った知識に基づいて」「外来種対策は間違っているという持論を展開」しており、そういう点から本書の内容は世の中を混乱させるだけの反社会的な内容と言えます。そういう意味で、悪書と言っても良いでしょう。したがって、一意見として読むには良いかもしれませんが、ここに書いていることは「社会問題としての外来種に対する世界的な共通認識」ではないので、真に受けない方が良いでしょう。ということで、本当に間違いが多いのであまりお勧めできませんが、出典も確認できますし、何が間違っているのかな、と考えながら読んでいくには多少は勉強になるかもしれません。しかし、生物多様性の保全や外来生物問題については、もっと勉強になる本がいくらでもあります。
以下、具体的に引っかかったところのツッコミ。
p.29「最終的には自然のためになるのかもしれない」 自然のためになるかどうかは、問題ではありません。自然のためにしているわけではなく、人類のためにしているからです。
p.34「生物多様性は高くなった」ここも間違い。生物多様性が高いか低いかは単純に種数の問題ではありません。種数に関して言えば、「その場において潜在的に存在しうる最も多くの種が存在している状態」が、生物多様性が高い状態です。この生物多様性の高低を単純に「種数」で見ている記述は本書にはこの後いくつも出てきます。これは間違いです。例えば2種の在来種がいるところに3種の外来種を入れたら合計5種になって種数は増えますが、これを「生物多様性が高まった」とは言いません。
p.289「ダイナミクスこそが重要なのに、研究者は長いあいだそのことを否定してきた」これも間違い。そういう人もいるかもしれませんが、社会的課題としての生物多様性の保全は「在来生態系がこの先変化し続ける余地」をも保全することが目的です(ただし、残念ながら一つの種、一つの場を守るのがせいぜいで、結果的にはそう見えているのは否定できませんが)。
p.295「人新世に新しい生物多様性を期待してもいいはずだ」個人的に期待するのは勝手ですがその不確定な期待は、今いる生き物を保全することで得られる利益を上回るのか、ということを考えた方が良いでしょう。少なくとも今は、保全した方がいいんじゃない?ということになっているわけです。
p.300「生物多様性を守るには、人間の影響から遠ざけるのがいちばんだというこれまでの観念」これも間違い。生物多様性の保全は、生物多様性条約や生物多様性基本法にあるように、「人類による持続的な利用」を大きな目的の一つとしています。利用ですよ?今展開している生物多様性の保全の中には、人類の影響から遠ざける観念などはじめからほとんどありません。利用し続けるために保全しようという話です。
p.311「世界からとつぜん人間がいなくなっても、環境の著しい変化は続く」って、当たり前です。人類が滅亡した後のことなど知ったことではありません。それこそ、この著者の好きな「外来種の入った新しい生態系」が、自由に進展していき、新たな種が生まれ、新たな生態系ができるでしょう。
p.313「人間の存在もひっくるめて自然」これも間違い。人類は別枠です。生物多様性の保全を自然のためにしているなら、人類がいない方が良いでしょう。当たり前です。そんなの誰も賛同しません。生物多様性の保全における外来種対策は「人間のためにやっている」わけで、人類は別枠で考えないとはじまりません。
とまあ、気になった部分を抜き出しましたが、そもそも用語の定義を誤っているので、突っ込みどころはこの他にもたくさんあります。
最後に、生き物好きの観点から一言。ここから下は、社会的課題とか科学とか抜きにした、単なる生き物好きとしての感想ですが、読んでいて思ったのが、この著者は「そもそも生き物がそんなに好きではないのでは?」ということです。不毛な火山地帯が豊かな森林になったとか、なんとかそういう記述もありますが、その火山地帯は本当に不毛だったのでしょうか?そこにしか棲めない生物がいたのでは?本当に生き物が好きなら、そういうところが気になって仕方がないでしょう。あるいは、侵略的な外来種としてのオオクチバスもアライグマも、生態系に与える影響はまあしょうもないのですが、生物として切り取って見た時に、それらはがんばって命を輝かせて生きており、その姿はとてもかっこいいものです。その一方でこういう外来種に食べられて死んでいく在来種も、懸命にがんばって生きています。どっちをとるか、苦しいのです。そういう中で、止むを得ず外来種の方を排除する、ということをしているわけです。そういうところで善とか悪とか、絶滅しても仕方ないとか、そういう切り取り方でしか生き物を見ることできない著者は、そもそも生き物がそんなに好きではないのでしょう。生き物が好きでないなら、生き物を守れとか守るなとか、外来種を駆除せよとかするなとか、余計なことは考えずに、生物多様性の恵みを享受して、黙って握り寿司でも食べてこの生き物美味しいなあと、感動しておれば良いのです。
生き物に興味がないなら、そこにいる種が外来でも在来でもどちらでも良いでしょう?だったら在来種を残したいと頑張っている人たちの、足を引っ張らないで欲しいのです。
魚としてオオクチバスなんて、善とか悪とか超越して相当かっこいいですよね・・。そんなことは本当に魚好きな人ならみんな知っていることです。