『スーサイド・スクワッド』と東映時代劇
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

『スーサイド・スクワッド』と東映時代劇

2016-09-18 03:01
  • 1
学生時代、企画書を持ち込むと、ある教授にどんなものにも、先行事例がある。例えば、某政策の先行事例は、フランスやドイツなどの海外にあって〜」と言われたものである。映画とは全く違う、政治分野の教授の言葉であったが、それ以来、映画の企画書には敏感になった。

私は、古今東西、年に千本近い映画を観る。
今回、筆者は『スーサイド・スクワッド』を鑑賞した。DCコミックスの悪役が集められて、とある騒動に巻き込まれる映画である。アメコミの映画化がヒットを飛ばすハリウッドの最新作だ。この映画と、1960年代の東映時代劇を見比べつつ、10年後の未来を妄想してみようと思う。

f:id:kiyasu:20160918173717p:plain


■先行研究は、時代劇>西部劇?
『スーサイド・スクワッド』や、昨今の 『アヴェンジャーズ』シリーズ。近年のアメコミの映画の勢いは、西部劇の全盛期に例えられることが多い。これはいつかブームが収束するという必然を意識した分析である。個人的には、西部劇より異国の先行事例である日本の時代劇・・・しかも1960年代頃に例えた方が、わかりやすいのではないかと考える
理由を整理するとこうなる。

1. 西部劇も時代劇も、始まりは似ている。映画初期から登場する題材
2. その落日も同時期で、どちらも1960年頃。テレビに視聴者の時間を奪われた時代。今はネットに視聴者の時間を奪われつつある時代だ(勿論、共存や高め合いもしているが
3. だが、西部劇の落日は、
差別撤廃の運動が混じっており、アメコミ映画化の落日を予想するにはノイズがある。むしろ、時代劇の方が、なんとか生き残ろうとした試行錯誤が見えて、参考になるのではないか

■さらに言うなら、東映時代劇
1960年代。東映は時代劇を量産するスタジオだったので、時代劇の歴史をなぞりやすい。

日本映画ポスター集 (東映時代劇篇2)

■『スーサイド・スクワッド』を当時に当てはめると?
ざっくりまとめると、3つの知見が挙げられる。
結構似ているのではないだろうか。

1. 新しいメディアに観客や人材を奪われている背景がある。同ジャンルも新しいメディアに移っていく
2. 勧善懲悪に観客は飽きており、絶対的スターも効果がない。集団で物事を解決する映画が作られるようになる
3. "社会の外れもの"を扱う。人気キャラを入れ替わり立ち代り登場させる。ただし、リアル指向を追求していき、もともとあったジャンルは少しずつ廃れていく

詳細
---
◇背景: テレビに人材を奪われた時代
先述のように、1960年代、テレビドラマに人材は奪われ、視聴者の時間も奪われた。現在も、映画ではなくテレビシリーズもの(ゴッサムなど)、Netflixといったメディアへの人材や視聴者の時間が奪われつつある。

◇勧善懲悪のスター作品から集団時代劇
50年代。東映は時代劇のトップだった。だが、勧善懲悪の量産が続いたために段々と観客から飽きられ、60年前後には弱っていった。さらには、スターだけでは予算的にも呼び込み的にも、魅力的ではなくなってきた。そんな時代に、作られた画期的なジャンルが東映の集団時代劇あった。超トップスターを据えなくとも、大勢の主人公たちが、情より理を優先したストーリーで戦っていく。作品は、『十三人の刺客』『大殺陣』 などが挙げられる。

大殺陣 [DVD]

これは、「A.トム・クルーズなどの大スター出演が映画No1ヒットに繋がる要因ではないこと(ウィル・スミスもスターではあるが)」「B.ヒーローの勧善懲悪だけでは、観客が納得しない時代になったこと(日本では当たり前の要素であったが、米国では911がそれに拍車をかけた)」「C.情より理性で善悪の戦いが繰り広げられる(アヴェンジャーズ)」と、多くの要素が当てはまる。ただ、その割にBとCが一昔前のままの作りだった為に、予告編で期待した専門家ががっかりしてしまったのではないだろうか。

◇時代は少しずつ"社会の外れ者にスポット当てる"へ
勧善懲悪から脱却する為か、黒澤明監督のリアル志向の『用心棒』に観客の心を奪われた為か、この頃から東映は、"やくざもの"に積極的に手を出し出す。東映の岡田茂(のち社長)が1963年に『人生劇場 飛車角』を大ヒットさせ、最終的には、時代劇のノリから完全に脱却したリアルなやくざ『仁義なき戦い』シリーズへと繋がっていく。

人生劇場 飛車角 [DVD]

『スーサイド・スクワッド』は、この頃の観客と同じニーズを叶えた作品であり、予告編を観て『バットマンVスーパーマン』より期待した人が多かったのかもしれない。また、鶴田浩二・高倉健・藤純子らのお約束の人物が入れ替わり登場して、他の作品への興味を繋ぐのも、強引な紐付けではあるが、今のアメコミ原作映画の作り方に似ている。

■今後はどうなる?
1960-1970年代の、時代劇の歴史を見ると、スーパーヒーローものの絶対的な影響力をもつ期間は長く見積もって10年ではないだろうか。集団時代劇も、長くは持たなかった歴史がある。さらに、東映の歴史を紐解くと、リアル指向になるに従って、社会の底辺だったり、エログロだったり、虚しさを追求した作品になっていくと思われるがいかに。追いやられた過去のヒーローはテレビやネットなどの別メディアへと活躍の場を移していくであろう。
実質、スーパーマン登場より、ハーレークイン登場の方が人々が湧いているように見えることを鑑みると、スーパーヒーローの落日は早いかもしれない。


■おまけ: 『スーサイド・スクワッド』の感想を少しだけ

◇事前情報で知っていた情報

1. 米国では予告編での評判は最高潮だったものの、試写会では専門家から酷評の嵐
2. 一般ウケはそこそこで、興行収入はなかなかで上位をキープ。ただし、本作の制作費と、広告宣伝費を回収できるほどかどうかは不透明

◇感想
作品は普通。娯楽作としては十分楽しめる。
設定とハーレークインは好奇心をくすぐられるが、クライマックスに近づくほど、どこかで見たことある作品に戻っていく。
脚本は物語の重力やお約束からは外れていない為に驚きはない。
「正義とは何か」正義と悪のテーマの描き方を必死に模索してきた近年のハリウッドであるが、今回は「悪とは何か」という問いは特に無かった。深層的にそれを求めているファンも多かったはずだが、本作は「自分たちより世間的に面倒な悪を倒した」「家族、愛人など、欲求や葛藤は個人的なものにとどめる」構造にしている。無難ではあるが、時代に残るためには、勧善懲悪から変わろうとしている『アヴェンジャーズ』に現在は分がある。『ジャスティスリーグ』にひとまず期待しよう。

スーサイド・スクワッド・サウンドトラック



広告
コメントを書く
コメントをするには、
ログインして下さい。