人は自分の見たいものしか見ない都合のいい生き物で、
「あなたってこうだよね。」
と勝手に定義づけては去っていく。
「こうだよね」なんて言い方しないでほしい。
「あなたにはこうあってほしい」って、それだけの話でしょ。
でもそうやって、数々の勝手な願いで他人の評価はできている。
「もっと自分をわかってほしい」と思いながら、数々の見当違いな「こうだよね」に振り回されて生きていく。
言ってほしい言葉をくれる、優しくて脆くてバカな人
とても繊細で人一倍物事を察する能力が高い人というのが一定数いる。
「自分をわかってほしい」と思っているたくさんの人の声を察するのに、その人の声を察する人はいないから、孤独に陥る。
それでもずっと人の心を拾い上げていく。
そういう優しさがある一方で、それは自分への優しさが足りないだらしなさでもある。
「わかってくれた」という幻想
言ってほしい言葉をかけてあげるたびに、自分が歪んでいく。
相手がかけてほしい言葉と、自分が本当はどう思っているかは別だからだ。
「相手に喜んでほしい」と願う優しさで、自分の本音を押し殺していく。
その場で笑ってくれることが嬉しくて、繰り返していく。
その繰り返しに終わりなんて来ないのに、勝手に合わせて勝手にたまにしんどくなる。
そしていつか、わかってくれるのが当たり前と思われるようになる。
ひとつ心を拾い損ねた瞬間に、
「どうしてわかってくれないの?」
と悲しい顔をされる。
その顔を見たくなくて、「ごめんね」と言ってしまう。
自分が何も悪くないことを、そのときちょっと忘れてしまう。
幻想がろうそくみたいに消えるとき
本音じゃなくて思いやりだけで保った関係は、小さな火みたいなあたたかさを人に与えて、自分はろうそくみたいにじりじり消耗して、いつか必ず消える。
心を拾い損ねることが重なって、わかって当たり前と思われることにも疲れる。
相手は相手でわかってくれないことへの不信感を募らせて、「わかってくれる人」から「腹で何考えてるかわからない人」に評価を変える。
これが、中途半端なだらしない優しさで人の心を拾った末路。
一言でいうと、共依存。誰も結局救えない。
みんな行きつくところは孤独で、わかってくれるのは自分だけ
誰も本当の自分なんてわかってくれないのだ。
それで当たり前なのに、なぜかふと寂しくなったりする。
自分だけが自分を忘れなければそれでいいのに、忘れてしまいそうで不安になったりもする。
そういう自分にちょっと苦笑いをしながら、季節を感じてほんの少しだけ独りで晩酌する。
不安も孤独もお酒も、吞みこまれない程度に少したしなむ。
なくそうとなんてせずに、ゆらゆらと曖昧に味わう。
それが色気ある豊かな人生と、そう思える器になれたら、もうちょっとだけお酒の量を増やしてもいいかなとか。
あっという間に夏も十五夜も過ぎて、勝手にちょっとセンチメンタルな気持ちになって、とりあえずいろんなことに乾杯。