あんまり見ないで

ミシュランガイド。東京が「星の数世界一」とか言ってるけど、審査員に日本人がいるんでしょ?そりゃ、フランス人より甘いだろうね。

2006年08月

従軍慰安婦問題に関する私見 (3)

ところが、民事氏訴訟において、近代的な「法治主義」というのは、一方で、「道徳」を始めとする「名誉」や「謝罪」などというものは、「金銭」に変換される。目に見えない「道徳」は、「金銭」に形を変えてしまうのだ。法治主義は、「道徳」のみでもって「道徳」に報いるということも強制しないし、「名誉」に対する報いを、形の無い「謝罪」のみで成しえたとは解釈しない。
そこには、必ず、「金銭」が伴うのである。

近代法治主義が基盤を置く「社会契約説」で守られる権利というのは、「個人の生存権と財産権」を保証することから出発するからである。

だから、法治主義による手続きによって韓国人元従軍慰安婦が「謝罪」や「名誉回復」を求めても、まず、それが「金銭」を伴うものである以上、国際法的には、賠償権、すなわち、両国間では存在し得ないはずの権利を行使した、無意味な行為に成り下がってしまうのである。

もし、最初から金銭を目的としていたならば、それについては言うまでも無い。


このとき、当の元従軍慰安婦たちが、「法」よりも「尊いはず」の、金銭を伴わない「道徳」を求めていたとすれば、それは、そもそも、「法」では裁けないのである。「法治主義」の「法」には、そのような「道徳」に介入するポテンシャルすらない。

もし、ここに、あの日韓基本条約が存在していないのだとしたら話は別だが。

 

 

ここで、個人の権利というものは、そもそも、国家間の取り決めや条約に束縛されない、という見解も起こってくるだろう。

しかしながら、これは、法治国家の基礎となる社会契約説と矛盾する。
生命の危機が起こっている場合を除き(つまり、亡命しなければならないときなど)、法治主義国家の国民であれば、個人の持つ諸般の「権利」というものは、その国家の取り決めた「法」によって生じるものだし、その権利を守るために、その国家の取り決めた諸般の法に従う「義務」を負う。

つまり、法治国家である韓国の国民であれば、日韓基本条約ほか付随協約という、国家としての韓国が批准した法規があるということによって、日本国政府に個人賠償請求をする権利を、韓国という国家から認められていないのである。

むろん、そもそも社会契約説上、国家として韓国人と社会契約を結んでいない日本については、最初から、韓国人の権利を保護したり応えたりする義務を負わない。しかも、日本国はこれらの条約や協約によって、韓国人の個人賠償に応える義務を負わない権利を得ている。

法治国家間同士で取り決められた、条約や協約という名の法規がある以上、「法」よりも上の「道徳」自体が、存在し得ないのだということが、文治主義を永らく続けていたために、頭では解っていても、心情的に理解できないのではないかと思う。

 

これは、永らく法治主義を貫いてきたアメリカと比較すれば端的に解るであろう。



アメリカ合衆国民は、個人として、日本国政府に第二次世界大戦に関係した賠償を請求する権利を持っていない。1951年9月のサンフランシスコ講和条約で、その権利を国家としてのアメリカが放棄しているからだ。 

正文は英語・フランス語・スペイン語であるが、日本語の翻訳文はそれに準ずるものとしての扱いを受けている。翻訳文であるが、その一部を以下に示す。


サンフランシスコ講和条約 第14条

(a) 日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。
しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。

(b) この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた
連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。

この14条(a)項には細かな取り決めが続くのであるが、要は、連合国は日本に対して、戦後賠償を請求する権利を持っているはずだが、今は日本の経済状態が良く無いので、とりあえず、全ての権利を放棄する、としているのである。

無論、日本の経済状態が回復した後はこの限りでは無い。
従って、個別事例に基づいて、後に、さまざまな条約が批准されていくのだが、
おそらく、個人としてのアメリカ合衆国民に、「別段の定がある場合」というものを、この条約自体が認めていないため、アメリカ人は日本国政府に賠償請求しない(できない)のである。

したがって、アメリカ合衆国民が、(兵士ではなく)民間人として、例え、日本兵による苦痛を被ったとしても、それを個人として、日本国政府に賠償請求できない。

「正義の戦勝国」アメリカが、「悪しき軍国主義の敗戦国」日本に対して批准した国際条約であるのにもかかわらず。

 


法治国家間の取り決めた条約というものは、その締結に至った経緯などを加味することなく、そして、無論、それ以上の「道徳的根拠」などを持つことなく、国家と国民を規定し、権利を保護し、権利を制限するものなのである。

ここに、文治主義的発想で、日本国政府を相手取って訴訟を起こそうとする韓国人従軍慰安婦と、法治主義で永く国を治めてきた日本国政府との、埋めがたい溝がある。

むろん、日本人としても、従軍慰安婦問題について「人として」「道徳的に」取り扱えば、どう思うのか?と問われれば、それはに、謝罪の念を禁じえない。しかし、ただそれは、なんらの法的拘束力を持たない、もっと言えば、国家間ではなく個人間でしか解決できない、「道徳」の問題である。ただ、「申し訳ない」とひたすら謝罪したい気持ちを持つだけである。

法治主義と文治主義の間では、「法」と「道徳」の関係をどちらにとってもスムーズに理論付ける変換ツールを持たないのである。

ここに、この問題の持つ根深さと、難しさがあるように思う。

人として、国家として、どちらが素晴しいか、と問われれば、文治主義をあげたくなる気持ちすら、沸いてくる。しかし、この目に見えない「道徳」というものは、ある特定の文化や歴史の中にしか通用しないものである。だから、文化や歴史が異なれば、当然、「道徳」というものは個々で異なってくる。このとき、いずれにも等しく働きかけるのが「法」なのだ。

心情的に見れば、文治主義の素晴しさも捨てがたいが、しかしながら、国際社会においては、法治主義こそが、唯一無二なる価値判断の基準となろう。

したがって、韓国人の元従軍慰安婦については、道徳的に可哀想だとは思うが、日本国政府の何もしないという立場を、法治国家の国民として支持するほかは無いのである。





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従軍慰安婦問題に関する私見 (2)

ところが、それにもかかわらず、韓国人である元従軍慰安婦が日本国政府を相手取り、訴訟を起こす。これが棄却されるのは、国際法規上、当たり前である。 

これに対して、韓国民の反発が起こる。
日本人の中でも、それにシンクロした左派系の人々からも批判が起こる。

 


先ほど、私は、従軍慰安婦問題を金銭による個人賠償にすりかえて話を進めた。しかし、それよりも前に、私は、彼女たちの最終目的は、金銭ではなく、名誉回復や日本国政府による謝罪である、という立場を採ると言った。

ここに、この問題の持つ根本があるように思えてならない。

「法治主義」による法治国家において、最高にして無二なる価値判断の基準は、「法」である。「道徳」とは、その下位概念にすぎない。

というより、法治国家において法を信頼するということは、法というものが、さまざまな道徳的な価値判断を経た上で成立するものだ、と、共通して認識することから始まる。

法治主義において、「法」を超えた「道徳」なるものは、原理上、存在し得ない。
もし、「法」以上の「道徳」があるとするならば、それはもはや「法」では裁けない。それが「法治主義」なのだ。

 


これに対して、国を治めるにあたって「文治主義」という立場がある。
これは、価値判断の最高基準を「徳 (道徳)」におく。
「法」とは、その下位概念である。

とりわけ、中国の儒教思想では、「君子の徳」が最高のものである。
「法」などというものは、「徳」の備わらない「小人(一般人)」にのみ適用されるような、卑しいものなのだ。だから、文治主義においては、「法」よりもとうとい「徳 (道徳)」が厳然と存在する。

実は、この点において、日本と韓国では全く異なる歴史を歩んできた。

少なくとも、明治維新以来、日本は対外的に「法治国家」であると表明していた。だから、とりわけ、大日本帝国憲法が発布されてからは、明治天皇の国家元首としての身分さえ、憲法による裏づけがなければ存在し得なかった。しかも、彼とその一族は「皇室典範」なる下位法規でもって規定されている。

さらに言えば、江戸幕府の時代ですら、日本は、近代的とはいえないものの法治主義であった。町奉行所や寺社奉行所など、現在の裁判所にあたるものについてはいうまでもない。

例えば、大名間の婚姻については、幕府による成文法が発布され、細かに規定されていた。将軍職就任ですら、天皇による法的文書がなければ、将軍宣下として成立しない。そもそも、天皇や朝廷というものは、綿々と奈良時代以来の「律令制」でもって、身分が保証されている。しかも、その天皇ですら、その行い等に関して、幕府による法的規制を受けている。


無論、日本にも、文治主義に基本を置く儒学が導入されてはいる。
しかし、それは国としての体制を左右するものではなく、武士が持つべき単なる道徳として存在していたのだと思う。何よりも、「文治主義」の実行装置である「科挙」が導入されていない。儒教を学びつつも、文治主義の立場を国の体制として強いるほどの効力をもってはいなかった。


これに対して、韓国は法治主義国家としての歴史が浅い。
侵略を正当化するわけではないが、「日帝36年」と第二次世界大戦後、
あわせて100年程度であろう。しかも、その第二次世界大戦後にしても、ソウル五輪が開かれる前後まで、軍事政権である。例えば、チョルラドの大虐殺などは、法治主義が浸透した政権が行ったとは思えないようなものである。

さらに、朝鮮王朝時代は、「儒教」の時代である。
無論、朝鮮国王の地位は、宗主国である中国皇帝からの印璽や法的文書がなければ保証されないし、両班はじめ一般民衆に対しても、成文法は発布されていたとは思う。

しかし、「科挙」が導入されていたということは、国の体制のあり方は、文治主義に基本を置いていたということである。 

「文治主義」の「科挙」によって選抜された者が、両班という名の支配者層として君臨する。もちろん、そういった「君子」には「小人」に対するような、卑しい法などは、ほとんど適応されない。なぜならば、「科挙」に合格したということは、儒学に精通していることであり、それは、「法」よりも上の「徳」を身につけた人物であるからだ。



日本は、例え、支配者の立場にあろうとも、法によってその行動が制限される、法治主義社会を少なくとも数百年続けている。その一方で、韓国は、儒学と科挙が浸透した国であり、文治主義によって国を運営するやり方を永らく続けている。

国家運営において、法治主義の歴史の長短が、「法」と「道徳」のプライオリティをどこに置くかという違いを導き出しているように思えてならない。

どちらが、より正しいかということは、簡単には決められない。





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従軍慰安婦問題に関する私見 (1)

今回は、首相の靖国参拝に関連して、
とりわけ韓国と日本の「従軍慰安婦問題」に関する私の見解をひとつ。

 

 

難しすぎる。

 


なぜならば、両国の歩んできた国としての体制が、あまりにも違いすぎるからだ。

これは、両国民が、国際間において、法と道徳のプライオリティをどちらに置くか、そして、どちらを基本に置いた国として歴史を育んできたか、という、日本と韓国との行き違いに集約されると思う。

 

今、ここで、私は、世によく行われているような論点、すなわち、「従軍慰安婦」というものが、

1)そもそも本当にあったのか否か、
2)本当にあったとして、本人に同意を得ていたのか否か、
3)同意が無かったとして、日本の国家や軍隊ぐるみで行われていたのか否か、
4)国家や軍隊ぐるみで行われていたとして、金銭の授受はどうなっていたのか、

などを云々するつもりはない。


これに対する私の見解は、日々刻々と変化しているからだ。
だから、ここでは、日本人が自国の歴史として認識するに最悪な立場を、あえて採る。

すなわち、

1)「従軍慰安婦」は本当にあり、
2)それは、本人に一切の通知・同意を得たものではなく、
3)日本の国家や軍隊ぐるみで行われていたのであり、
4)それに対する報酬は、当時、一切支払われていない

という立場で語ろうと思う。
 

だが、同時に、このエッセイでは、かつて従軍慰安婦だった女性やその家族の
過酷だった状況などを、克明に慮る立場もとらない。

また、それにまつわる民団や総連系の政治的思惑などの批判もしないし、韓国における具女の歴史などについても、考慮の対象としない。さらに、台湾等と比較して、東西冷戦時代の国のあり方をどの路線に定めたために生まれてきたものなのか、といったイデオロギーの強弱についても触れないし、歴史教育や、条約通知の有無についても取り扱わない。

 

ここでは、この問題における両国の行き違いの構造について、一言述べたいのである。

 

 

現在、時々、かつての従軍慰安婦が、日本国政府を相手取り、訴訟を起こすことがある。そして、「時効」やさまざまな理由によって、司法府から「却下」されている。 

この訴訟の趣旨については、さまざまな立場から見解が示されていると思うが、私は、ここでは、彼女たちは、賠償金を最終目的としているのではなく、彼女たちの名誉を回復するために、日本国政府としての謝罪を求めているのだ、と考える。

しかし、この点に問題が集約されているのだと思う。

 

まず、私は、日韓の国交が正常化される根拠となった、1965年6月のいわゆる「日韓基本条約」とそれに付随する国際法規を、批判しない。それらは「正常に」機能してきたし、機能すべきである、という立場である。この「日韓基本条約」に関しては、日本人の間ですら、意見が割れている。

すなわち、「十分な議論がなされずに締結された条約である」という左派系の意見。
「既に十分な論議がなされたのちに締結された条約である」という右派系の意見。

私は、これらの意見については、右派系である。
というよりも、論議が十分になされていたか否か、については、問題にしていない。というのも、かしこくも二つの国家間で結ばれた条約(法)に対しては、それを締結するに至った経緯よりも、ただ厳然と「存在している」という事実の方が重いと考えるからだ。

厳然と「法」というものが存在しているのに、その法規を作成するに至った経緯によって、その法を無視や軽視するのであれば、人間社会の秩序というものを根底から揺るがしかねない。
不備があるのならば、きちんとした法的手続きをとって改正すべきなのだ。


この日韓基本条約は、要は、「国連憲章に基づいて国交を回復しましょう」ということが決められているだけなのだが、この慰安婦問題で取り上げられるべきは、その付随協約である

「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」

である。
この第1条では、「大韓民国の経済の発展のために」、当時の金額で

1)3億ドルの無償供与  2)2億ドルの長期低利貸付

を日本国から大韓民国に渡すことが取り決められている。
また、第2条第1項では、下記のとおり締結されている。

両締約国は,両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産,権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が,千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて,完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

(a)一方の締約国の国民で千九百四十七年八月十五日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産,権利及び利益

要は、この協約では、国家としての日本が、国家としての韓国へ、5億ドルの経済援助をすることと引き換えに、両国民の個人賠償請求権を完全かつ最終的に解決されたものと認めているのである。

韓国政府が、韓国民による日本政府への個人賠償請求権は解決されたものとしている以上、そのようなものは、国際条約上、存在しえないこととなる。
すなわち、日本政府はもちろん、韓国政府としても、そのようなものは認められない。

従って、この協約が存在している以上、韓国民である従軍慰安婦には、いかに悪辣な手段によって日本の国家ぐるみで過酷な労働に従事させられ、また、当時、一切の給与も支払われていないにしたとしても、日本政府に対する個人賠償請求権がはじめから無いのである。

この条約が存在しても、日本国政府に個人賠償権を保有する可能性のある従軍慰安婦は、「韓国人でない」従軍慰安婦だけである。

従って、韓国人従軍慰安婦が個人賠償請求権を行使したいのであれば、その矛先は、日本政府ではなくて、この協約の対象からはずれている韓国政府である。 

経済援助という名の賠償金を、インフラ整備や一部の職務についた人間にしか支払わず、従軍慰安婦には、なぜ支払わなかったのか、という論点で。
ここで問われるのは、日本から渡した経済援助をインフラのみに限定して使用した韓国政府による運用の如何が問われるべきなのである。

もし、それが個人として不服であるならば、韓国政府に働きかけて、まず、この条約自体を改正しなければならない。ただし、それには、韓国政府だって日本政府に対して多大なる代償を支払わなければならないはずだが。

しかも、この協約の最後には、

「日本国のために 椎名悦三郎 高杉晋一
 大韓民国のために 李 東元  金 東祚」

と記されている。

この協約の上位条約であるいわゆる「日韓基本条約」の日本国外交全権委任者が、「日本国のために」この協約を締結している以上、日本国政府は、大韓民国のために、この協約以上のことを慮る義務は無い。日本の利益だけを考えればよいのである。

 

これが、法治国家同士が取り決めた最高法規である条約と、その付随条約のもつ効力である。





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内閣総理大臣の靖国参拝に思う。 (2)

けれども、現在のこの思想膠着はなんだ?


テレビでは、右系の思想に立って、先の戦争や侵略を語るメインキャスターはいない。首相の靖国参拝で、これほど、国論が二分されているというのに、誰も彼も左派一辺倒である。そうしたキャスターや政治家が、少しでも右系の考えを表明すれば、マスコミが作り上げる「世論」によって、袋叩きである。

 


私の見るところ、団塊世代を親に持つ、30代前半の団塊ジュニアにおいて、左派系思想を強固に持つ者は、少なくとも片親が大卒であることが多い。対して、右派系思想を持つ者は、両親ともが高卒以下であることが多い。

 

要は、現在のマスコミの中で主流となる左派寄りの「世論」は、団塊世代の中で幸運にも高等教育を受けるに至った人々の知的遊戯のようなスノビズムと、それに続く無批判なインテリの怠慢が、構築していったといっても過言ではない。

 

さらに言えば、これらのメインキャスターがよりどころにすると思われる中国・韓国側が書いた、こと戦争や侵略にかんする歴史書・学術書などは、今日の日本や欧米の学問レベルに照らし合わせれば、笑止千万である。
孫引きにつぐ孫引き。
ひとつの出典の最初がどこだったのかさえ、正確には辿れない。他人の意見と自分の意見を分けて語るなどということは、ほとんどなされていない。

 

そこに、中国語やハングルさえ読めない日本人の「インテリ」が、中国人や韓国人の「インテリ」が書いた本や新聞の、そのまた翻訳くんだりを参考にし、公的メディアを使って広く一般に対してしゃべる。すでに、ここに中国人や韓国人ならではのフィルターが掛かっているというのに。

 

戦争当時の中国・韓国で発刊された思想書や新聞を、原典で読みこなせる人間が、日本のマスコミを牛耳るテレビのキャスターや新聞記者や何かの中に、いるか?しかも、戦後の歴史学者で極東を専門にした人間自体が、おそらく、アメリカ史やイギリス史を扱う人間ほどにはレベルは高くなかったはずだ。

 

情報源すら脆弱な上に、それを扱う日本側の言語能力も脆弱である。

 

それでは、中国や韓国が考える「歴史」に正確な判断すら下せない。
中国や韓国の主張する、「日本兵の悪行」や「自国民の犠牲者数」など、現状では、世界中の誰をも、きちんとしたジャッジができない。
無論、それに反駁する日本の右系の「主張」やその「根拠」についても同様である。

 

今ある、マスコミで「正論」とされる左派系の「歴史観」など、こんな脆弱な基盤の上にしか成り立っていない。右派系思想なぞ、その基盤は、それ以上に狂信じみていて もはや荒唐無稽である。

 


また、加えて言うならば、歴史学者の構築する「歴史観」は、いくつかの事実を積み重ねた後に構築されているのではない。手順が逆である。

 

最初に自分の「立ち位置」と「歴史観」があって、それに都合のよい事実だけを拾い上げていくのだ。世にまかり通っている「学説」なぞ、そんなもんである。

 

だから、田原の「アサナマ」で、そんな学者にすらなれなかった右と左の「インテリ」くずれが ディスカッションしても、決して、統一見解など生み出されないのだ(いや、そもそもディベートだったのかもしれない)。
自分の「立ち位置」なんか、変えてはならないのが、「インテリ」のいう「学問的」教養なのだ。

 

一つの出来事に対して、一億もの人間がいれば、いくつもの考えや立場があってしかるべきなのに、少なくともマスコミにおいて、1つの思想が「正統」然として、まかり通っているのが、まずもって バカバカしい。

 


しかし、今、ようやく、日本では、右系思想を全面に押し出した(本ではなく) テレビ番組などが放映され始めた。但し、関西ローカルであるが。

 

同じように、韓国内でも、「敗者」の歴史観に立った、ある種、日本寄りの歴史思想書が出版されつつあるという。

 

思想とは、学問とは、さまざまな選択肢があってこそ、磨かれ、発展するのだ。

 

だから、「侵略された中国人や韓国人がイヤがるから、靖国参拝は避けたほうが良い」という意見は、長い視点で見れば、さほど問題ではない。
なぜならば、その中国人や韓国人の思想ですら、もともと国家意思や誤謬なども含めた何かに左右されている可能性があるし、なによりも、日々刻々と変化しているのだから。

 

そして、今、日本はもちろん、中国も韓国も、それぞれ たった一つの歴史観から脱却しようとしている。いくつもの歴史観が割拠するターニングポイントを迎えようとしている。

 


A級戦犯合祀も含め、日本国総理大臣が靖国を参拝する是非、当時の国際法や国際秩序、日本の侵略戦争、東京裁判、近代日本の建国神話。
いや、法が全てを支配する現在の世界そのものに対しても。

 

そういうもの全ての是非が「正しく」評価されるのは、今、この問題に左右されている私たちが死んだ後である。

 

この問題に対する個人的な「立ち位置」などを最初から持たない人間しか、生きていない時代になってからのことである。
多分、300年はかかるだろうね。

 

だから、こうして今書いている私の意見だって、それからすれば、全然、「正しく」ない。そして、300年後の見解だって、そのさらに100年後の見解からすれば、「正しく」ない。無論、その時々の国際状況にも左右される。

 

だから、首相の靖国参拝やら、A級戦犯合祀やらの「是非」、すなわち、「正しい」か、「正しくない」かを、今現在、議論すること自体が、バカバカしい。

 

どのみち、どんな知識人であれ誰であれ、今現在の日本人も中国人も韓国人も、幾つもの科学的な事実を元に、冷静に中立的に熟慮して辿り着いた思想などではなく、最初に込めた個人的な思い入れから、抜け切れてなど、いないからだ。

 

今の人がいうことなんて、ずっと後に相対化されてしまう一つの材料に過ぎない。

 

総理大臣の靖国参拝に、「中立的」な「正しさ」などを、求めてはいけない。
あれは、そういう恒常的な長い時間の中の「歴史観」を問うものではなく、単に、現時点でのスポット的な「外交上の戦略」にすぎないからだ。

 

もちろん、小泉の靖国参拝は、突き詰めれば、その先に東京裁判がある。

 

あの侵略戦争の経緯や光と影を、きちんと全て把握し、完全に中立にたった果てにしか、辿り着けない結論。それは、戦後処理を再び問い直すことで、これからの日本の青写真を模索する行為でもあるのだ。そして、そういう形で、東京裁判の是非を問うこと自体すら、55年体制の中から生まれて来た、ある思想の通過点にすぎないものでもあるのだ。

 

こういった もろもろのことが、正しいか、正しくないか、本当に、今の私たちで判断できるだろうか。

 


はっきり言えば、日本にとっては、靖国や合祀などを問題にせず、自国を「敗者」の歴史観に基づいて分析しだしたときの中国や韓国のほうが、「被害者」の立場でモノを言う現状より、本当は、ずっと脅威なんだからね。

 


けれども、今この瞬間に生きる人間として、あまりに一つに偏った状態は良くないと思う。歴史 (history) とは、何かの継続的な積み重ねが、創り上げていく物語 (story) だからだ。だから、左派主流の今日において、私は、あえて、右の立場をとるのだ。そして、マスコミやインテリの主流が右に傾けば左に。

 

でも、きっと、このバカバカしい論議は、あと100年くらいは続くんだろうなぁ。





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内閣総理大臣の靖国参拝に思う。 (1)

先日、8月15日の小泉の靖国参拝に思う。

 


バカバカしい。

 


色々な論点があろう。
小泉のインタビューが端的に示しているように思う。
但し、答えは二分されているのだが。

 

私の現在の思想は、基本、右である。
大学の2年くらいまでは左だった。
けれども、それはそれとして、今の世論の向きがヘンなような気がする。

 

 

アメリカ国内で、キング牧師やマルコムXによる
黒人の公民権運動が、ようやく始まったのが1960年代。
その100年も前。
アメリカで奴隷解放宣言が採決されて、まだ間もない頃。
日本は明治維新を迎えて、国際社会に参入した。

 

世界は、例えば、イギリスだったかが、あらゆる人種を集めるべく、植民地から生きた人間を捕まえてきて、万国博覧会でそのまま展示していたような時代。

 

日本が新たに踏み入れた場所には、白人国家による、あからさまな有色人種差別があった。今日とは比較にもならないその差別の矢面に、日本は、ずっと、立ち続けてきたのだ。国際法にのっとっても のっとっても、拭いきれないその差別と蔑視の根深さ。

 

当時の国際法的に、半主国の中国や無主国の韓国に日本が侵略したことが糾弾されるのは、日本が侵略資格を持たない「半主国」だったという理由も、ひとつにある。日清戦争直後に、日本が三国干渉を受けた遠因もここにあるのではないかと思う。

 

当時、自主国は、半主国や無主国であれば、(他国からの嫉妬はあるけれども)別にどこに殖民しようが構わなかった。

 

というより、半主国や無主国は、自主国による「保護」がなければならないとされていた。インドがいかにイギリスの植民地にされようとも問題にならないのは、無主国のインドに対して、イギリスが自主国だったからだ。

 

「半主国」から「自主国」への格上げを模索し続けた時代。
有色人種国家のなかで、唯一近代化に成功し、のみならず、列強にまで名を連ねるに至った、日本の不断の努力。

 

中国や韓国が、今、安穏と先進国然として国際社会に鎮座できているのは、
あの、靖国に祀られた、日本の開国の志士や、戦争で命を落とした人間の命の上にあるのだ。日本による経済援助などは、もっと目に見えないものの功績の中では、取るに足りない。

 

東アジアに日本があったから、日本が矢面に立って白人国家と抗争し続けたから、そうすることで日本が国際社会における東アジアの地位を向上させたから、中国も韓国も今、幸せなのだ。
(ま、左の人たちからすれば、これこそ「大東亜共栄圏」思想を擁護する考えなんだろうね)

 

東南アジアの国々は、今、ようやく日本の明治維新をモデルとして、国を創ろうとしている。西アジアやアフリカなどは、それには遠く及んでいない。あれらの国に対するアメリカの対応の背景には、こうした根強い人種差別があると私はみている。
(原爆や地雷なんかのターゲット国とかにもね)

 


無論、中国人や韓国人の数え切れない犠牲があることも事実。

 


けれども、日本は弱い者イジメなんぞ、するつもりなんかなかったし、してもいない。拭いきれない有色人種差別の上に根ざした国際法を変えるために、日本が戦争を挑んできたのは、中国・ロシア・アメリカなのだ。

 

当時、いや、今でも、自国に受けた差別を跳ね返すために、こんな大国ばかりに、実力行使をしようとした国が、どこにあったというのだ?

 

(ってか、中国よ。天朝朝貢冊封秩序の唯一無二なる主催者だったくせに、
 なんで、蛮族東夷に過ぎない日本なんかにアッサリ侵略されてんのさ?)

 

 

無論、私は戦争という名の殺し合いを賛美するつもりなど、毛頭無い。
けれども、既にあってしまった戦争の中で、不幸にも死んでいった人たちの命には、その人たちの望む論理の中で、哀悼と賞賛を注ぐべきだと思うのだ。

 

 

維新から戦後にかけての歴史について、日本は2つの採り得る立場がある。
1つは、残虐非道な「侵略者」すなわち、「罪人」としての歴史観。
もう1つは、「勝者」としての歴史観。未曾有の成功を遂げるに至った歴史を賞賛するための。

 

前記の私の見解は、国際情勢を「人種差別」の切り口で語った 「勝者」 の歴史観によるものである。いくつかの歴史観の中の、ひとつのサンプルにすぎない。

 


けれども、戦後60年間、日本は、「罪人」としての歴史観を採り続けた。
自国の歴史として認識するに耐えない、イヤな方の歴史観をあえて選択したのだ。

 

アメリカに負けた理由、そんな抗争の中でアジア全体にも多大な犠牲者を出してきたこと。
日本が歩んできたそれまでの歴史を、真摯に反省するために。
それによって、再び、国際社会に (できるかぎり) 対等な形でデビューするために。
稀有なる高度経済成長は、この「侵略者=罪人」としての歴史観を採択したために、防衛費の凄まじい抑制によって成し遂げられたという側面がある。

 


これに対して、中国や韓国にも2つの採りうる歴史観がある。
1つは、「被侵略者」、すなわち、「被害者」としての歴史観。
もう1つは、ぶざまに負け続けた「敗者」としての歴史観。

 

今、両国は、「被侵略者=被害者」としての歴史観を選択している。
認識するにラクなほうの。

 

テレビや新聞で、両国の市民が、「被害者」としての歴史観に立って首相の靖国参拝を非難するのを見るとき、私は、なぜだか、とてもほっとする。

 

何も生み出さない歴史観に安穏としているこの国々の人たちに、日本を追い抜くことなんて、最初からできない。自国の本当の敗因すら分析できないから。
あの国々の戦争犠牲者たちの命は、自国の次世代への発展になんら貢献していない。

 

誰から攻撃を受けたかということ、誰から殺されたかということを別にすれば、
第二次世界大戦までで亡くなった人や、国土の荒廃は、日本と同じくらいなはずなのに。

 

アメリカとの敗戦も含めて、それすら肥やしにしてしまった、明治から昭和初期の日本がどのように世界を見つめ、それと関わり続けようとしていたか、それを自国との比較材料にもせずに。
内部抗争に明け暮れて、世界地図や国際法規を把握できなかった自国の愚かさなどに目もくれずに。
なぜ、自分の国が易々と侵略なんかされてしまう、脆弱な基盤しか造れなかったのか考えもせずに。

 

140年前、日本も同じスタート地点に立っていたというのに。
いや、むしろ、圧倒的な先進国だったアメリカからの植民地化を避けるよりも、
新興国 日本からの植民地化を避けるほうが、格段に容易かったであろうはずなのに。

 


そして、日本に今日ある、左の思想やその「歴史観」も、私に言わせれば、戦後のインテリ、とりわけ団塊世代の、スノビズムの延長線上にある。
ヒッピーなどの退廃的な平和主義に基づいて構築され、何もなさなかった学生運動を経て、結局日本が悪かったのさ、と言ってのけるという、有産階級のニヒルなスノビズム。

 

イヤな歴史感をあえて選択する、知的っぽさに酔いしれていたに過ぎない。
なぜなら、イヤなものに目を向けるのは、インテリの役目だから。

 

とはいえ、それはそれで、最初は良かった、と私も思う。
先にも述べたように、選ぶに心地よい歴史観だけに頼るのは、決して建設的とはいえない。
人が目を背けたかった歴史を掘り返して、白日のもとに晒した功績は大きい。





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