ところが、民事氏訴訟において、近代的な「法治主義」というのは、一方で、「道徳」を始めとする「名誉」や「謝罪」などというものは、「金銭」に変換される。目に見えない「道徳」は、「金銭」に形を変えてしまうのだ。法治主義は、「道徳」のみでもって「道徳」に報いるということも強制しないし、「名誉」に対する報いを、形の無い「謝罪」のみで成しえたとは解釈しない。
そこには、必ず、「金銭」が伴うのである。
近代法治主義が基盤を置く「社会契約説」で守られる権利というのは、「個人の生存権と財産権」を保証することから出発するからである。
だから、法治主義による手続きによって韓国人元従軍慰安婦が「謝罪」や「名誉回復」を求めても、まず、それが「金銭」を伴うものである以上、国際法的には、賠償権、すなわち、両国間では存在し得ないはずの権利を行使した、無意味な行為に成り下がってしまうのである。
もし、最初から金銭を目的としていたならば、それについては言うまでも無い。
このとき、当の元従軍慰安婦たちが、「法」よりも「尊いはず」の、金銭を伴わない「道徳」を求めていたとすれば、それは、そもそも、「法」では裁けないのである。「法治主義」の「法」には、そのような「道徳」に介入するポテンシャルすらない。
もし、ここに、あの日韓基本条約が存在していないのだとしたら話は別だが。
ここで、個人の権利というものは、そもそも、国家間の取り決めや条約に束縛されない、という見解も起こってくるだろう。
しかしながら、これは、法治国家の基礎となる社会契約説と矛盾する。
生命の危機が起こっている場合を除き(つまり、亡命しなければならないときなど)、法治主義国家の国民であれば、個人の持つ諸般の「権利」というものは、その国家の取り決めた「法」によって生じるものだし、その権利を守るために、その国家の取り決めた諸般の法に従う「義務」を負う。
つまり、法治国家である韓国の国民であれば、日韓基本条約ほか付随協約という、国家としての韓国が批准した法規があるということによって、日本国政府に個人賠償請求をする権利を、韓国という国家から認められていないのである。
むろん、そもそも社会契約説上、国家として韓国人と社会契約を結んでいない日本については、最初から、韓国人の権利を保護したり応えたりする義務を負わない。しかも、日本国はこれらの条約や協約によって、韓国人の個人賠償に応える義務を負わない権利を得ている。
法治国家間同士で取り決められた、条約や協約という名の法規がある以上、「法」よりも上の「道徳」自体が、存在し得ないのだということが、文治主義を永らく続けていたために、頭では解っていても、心情的に理解できないのではないかと思う。
これは、永らく法治主義を貫いてきたアメリカと比較すれば端的に解るであろう。
アメリカ合衆国民は、個人として、日本国政府に第二次世界大戦に関係した賠償を請求する権利を持っていない。1951年9月のサンフランシスコ講和条約で、その権利を国家としてのアメリカが放棄しているからだ。
正文は英語・フランス語・スペイン語であるが、日本語の翻訳文はそれに準ずるものとしての扱いを受けている。翻訳文であるが、その一部を以下に示す。
サンフランシスコ講和条約 第14条
(a) 日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。
しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される。
(b) この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとつた行動から生じた
連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。
この14条(a)項には細かな取り決めが続くのであるが、要は、連合国は日本に対して、戦後賠償を請求する権利を持っているはずだが、今は日本の経済状態が良く無いので、とりあえず、全ての権利を放棄する、としているのである。
無論、日本の経済状態が回復した後はこの限りでは無い。
従って、個別事例に基づいて、後に、さまざまな条約が批准されていくのだが、
おそらく、個人としてのアメリカ合衆国民に、「別段の定がある場合」というものを、この条約自体が認めていないため、アメリカ人は日本国政府に賠償請求しない(できない)のである。
したがって、アメリカ合衆国民が、(兵士ではなく)民間人として、例え、日本兵による苦痛を被ったとしても、それを個人として、日本国政府に賠償請求できない。
「正義の戦勝国」アメリカが、「悪しき軍国主義の敗戦国」日本に対して批准した国際条約であるのにもかかわらず。
法治国家間の取り決めた条約というものは、その締結に至った経緯などを加味することなく、そして、無論、それ以上の「道徳的根拠」などを持つことなく、国家と国民を規定し、権利を保護し、権利を制限するものなのである。
ここに、文治主義的発想で、日本国政府を相手取って訴訟を起こそうとする韓国人従軍慰安婦と、法治主義で永く国を治めてきた日本国政府との、埋めがたい溝がある。
むろん、日本人としても、従軍慰安婦問題について「人として」「道徳的に」取り扱えば、どう思うのか?と問われれば、それはに、謝罪の念を禁じえない。しかし、ただそれは、なんらの法的拘束力を持たない、もっと言えば、国家間ではなく個人間でしか解決できない、「道徳」の問題である。ただ、「申し訳ない」とひたすら謝罪したい気持ちを持つだけである。
法治主義と文治主義の間では、「法」と「道徳」の関係をどちらにとってもスムーズに理論付ける変換ツールを持たないのである。
ここに、この問題の持つ根深さと、難しさがあるように思う。
人として、国家として、どちらが素晴しいか、と問われれば、文治主義をあげたくなる気持ちすら、沸いてくる。しかし、この目に見えない「道徳」というものは、ある特定の文化や歴史の中にしか通用しないものである。だから、文化や歴史が異なれば、当然、「道徳」というものは個々で異なってくる。このとき、いずれにも等しく働きかけるのが「法」なのだ。
心情的に見れば、文治主義の素晴しさも捨てがたいが、しかしながら、国際社会においては、法治主義こそが、唯一無二なる価値判断の基準となろう。
したがって、韓国人の元従軍慰安婦については、道徳的に可哀想だとは思うが、日本国政府の何もしないという立場を、法治国家の国民として支持するほかは無いのである。
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