文系大学院というレールを走る列車も通常運行しております。車掌のまこっちゃんです。
僕の世界観の”レール”。それは、レールという物理的な意味からも”並走”という概念はすでに吹き飛んでいるのであり、みながみな、それぞれにそれぞれのレールの上を、それぞれにぞれぞれの景色が観れるだけのポジションのことだとおもっています。
本記事では、”文系大学院生”という、おそらく社会的にかなり希少な生態である僕が、毎日みている景色をシェアしたいなとおもいます。最後にちょっぴり、レールと風景についてひとこと車掌の言葉をそえたいとおもいますっ!
*ここのレールの上から観れる景色と同じ景色みろ!!とか、絶対にこの景色だけは見るなよ!という思想的な内容ではないので、安心してよみすすめてくださいね★。
日常風景のシェアであり、それ以上でもそれ以下でもなく、インスタグラムのあれと一緒です。
知られていることと知られていないことの境界線の風景。
”文系大学院生”とひとくちに言っても、文学研究の車窓、経済学研究の車窓、法学研究の車窓、歴史学研究の車窓、政治学研究の車窓。とすでにいろ~んな車窓からの景色を愉しむためのバラエティ豊かなキップの選択肢があるわけです。
すべてに通ることと思います。この文系大学院という地域では、知られていることと知られていないことの境界線の風景と書いたとおり、一言で言うなれば、この表現につきると思います。
自分自身の”探求したい風景”を大学の学部時代に定めることのできれば、大学院では、これ以上知りたくないというほど、毎日その風景を見る羽目となってしまいます。(もちろんプラスの意味で)
そして、この知りたい景色を堪能し終えた先には、その先のレールから観る景色、つまり知られていない景色を発見できるチャンスを手にすることができるのです。それを生かすか殺すかももちろん、その人次第ですね!
ここで1番強調したいのは、
知られていない風景を発見し、その地平線を開拓してゆくには、誰とも”並走”できず、ただ知に貪欲に、孤独に、その景色の先を求めてゆくという点です。
自分自身で、ほんとうにほんとうに、その景色を知ってゆきたい、開拓してゆきたい野望、大志、情熱が備わっていなければ、逆に、その景色は地獄絵図と化するでしょう。(盛ったかもしれません。)
楽園となるか、地獄となるか、それは本人と意志と動機に間違いなく依存します。
すでに義務の教育ではなく、その手にした大学院へのキップには責任もおまけ特典としてついてくるからです。
しかし、同時にここまでに自分の世界観にどっぷり浸かることのできる人生はなかなかないでしょう。
そんな毎日を平常運行中している僕でありますが、あくまで、僕の大学院生号という列車は、修士過程駅にて途中下車し、社会人というまた別の列車に乗り換え、新しい景色をもとめて走り続ける予定となっております。時刻表には、来年と書いてありますね!
では・・・社会人レールへ乗り換える上で、”なにを”文系大学院生レールでまなんだのか?!なにをコアとしてゆきたいのか!?
それは・・・
車掌絶対主義を貫くこと。
車掌はもちろん、自分自身のこと。
今、本当に幸せです。自分のやりたいことができる、それだけで。
以前は、他のある車掌のレールからの景色の方がカッコイイ!!(大手企業に就職)や、ある車掌の走るレールからの景色の方がウラヤマシイ!!(海外留学など)や、ある車掌の走るレールからの景色の方がわくわくで絶景でエキサイティング!!(起業など)など、
本来の車掌自身のキモチではなく、他の車掌がどこを走っていて、どんな景色を観れていて、それに”比べて”自分の景色はどんななのか、という妄想に悩まさせていました!
・・今の文系大学院生をやっていて、これだけは言えます。
他人から触発された”うらましさ”からわいてくる”イイな!!””カッケェ!!””俺も私も!!”といった感情は錯覚にすぎないぞ。と。
それらが、自身のレールからの列車風景を織り成してゆくいちばんの動機であるとすれば、
ニセモノ感情であると。
他の列車風景から、触発されたこれら感情は、まちがいなく自分史の中でもほんの浅い部分でしょうし、
自分がどのようなレールを走ってきて、これからどのような方向へ走り続けるのか、という”素直”な車掌フィーリングの妨げにもなってきます。
だからこそ、これからのたいせつな判断基準で、自分だけのオンリーワンな楽園の風景をみてゆくためにも、”他人の景色からくるうらやましさ”が動機に入り混じっているのであれば、私車掌はそれらを回避すべく、安全運転を心がけてまいります。