次は男孫誕生など新井家の近況報告である。 「男孫出生の事、御悦び下され辱き仕合に候。賎息にも御書面拝見仕らせ候処に、宜しき様に申し謝したく候よし申上げ候。達者に日立(肥立)し候。恐れ乍ら貴意易かるべく候。 前書には申し落し候、彼(かの)男孫出生の日季女婚嫁の事申来り、衰門にては今日吉日の事に候に、これらの事申来り候は「不占而已矣」(『論語』子路篇 占はざるのみ、と読む)と存じ、申合せ内々は事済み候。当月中公儀へ申立て候事に互に申合せ候。いまだ公辺へ申さず候へ共、御深情を荷ひ候事故に此の如く候。 長女事も逐日達者に罷成り、当時は(今は)常の如くに罷在り候。婿家の事御たづね、御懇志之事忝く存じ奉り候。市岡故対馬守第二子式部と申し候。これらの輩は両番(大番と書院番)へ番入り仕り候御代々の御例勿論に候処に、さだめて聞し召さるべく候。大番は大切に思召し候由の御旨とて、当春大番へ御番入り仰付けられ、即時大阪への御番に当り候。これら新制の初にあひ候事幸か不幸かは下愚の及ばざる処勿論に候。先づありがたき仕合と申す御事に候。」【全集第五 325頁】 前記のように澹泊宛書簡には立原翠軒自筆の別写本があって、事項ごとに再編集してはあるものの、本文テクストはかなり原本に忠実になるよう努めている形跡があるので、ここでも朱書の箇所はそれによる校正部分である。此の修正で初めて意味が判明する部分が多いことは、全集本とくらべてみればあきらかだと思う。翠軒は自分が書き間違えた箇所は朱筆でその都度修正を入れている。また、白石が「候得共」のような江戸後期に一般的な書き癖をあまり見せておらず、「候へども」または「候へ共」のように書いているところも、翠軒は忠実に写している。このように同志社大の「貴重書デジタルアーカイブ」の翠軒自筆本はこれから「新安手簡」の本文研究には不可欠の資料となろう。 それはともかく、同居の明卿(あきのり)に男子が生まれたのは八月二十六日のことで、不幸に沈んでいた新井家には大きな喜びとなったのはいうまでもない。上記の部分の主な内容は、いちはやく知った澹泊のもとから祝いの手紙がきたのに対する返礼である。重ねて、末の娘の七百石の旗本石谷清夤(いしがやきよのぶ)との縁談が内定し、白石は重荷をおろしたような気持になっていた。そのあと長女の回復に加えて、その婿の市岡式部が、旗本ならだれもが名誉とする大番入りを果たして、将来の明るい見通しでを感じている。吉宗の新制の時に当って、これからどうなるかの不安は抱くものの、とりあえずは素直に喜んでいる気配である。なお、両番とは大番と書院番を合わせた呼称で、石谷清夤はすでに享保四年に書院番に列せられている。 |
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